相続人 11






 それは、記憶だった。
 青空が、夜のネオンが、清廉な若者たちが、けばけばしい若者たちが、硬い表情の白衣たちが、和やかな表情の白衣たちが
 時間の逆流。昼と夜の融合。光彩が増し、また反転する。背を、腹を、圧す波は螺旋を描き絡み合い頭頂から噴出していく。
 自我を破壊せんと身体を突き抜けていく情報の嵐。


 びくりと身体を撥ねさせて彼は目を覚ました。薄ぼんやりと部屋の中が浮かび上がる。時刻は夜だろう。倦怠が爪の先まで染みていたがベッドに沈み込んでいる身体を起こした。感じる空気の冷ややかさに、額に貼りつく髪の不快さにしっとりと滲んでいる汗を掌で拭えば衣擦れの音に自身の身体を確かめて首を傾げた。
 なぜ、服を着ているのだろう。
 己は裸で寝るのが習慣なのに、思ってまた首を傾げる。そうだっただろうか?
 記憶どころか感覚さえあやふやだ。しかし目の覚めてしまった彼に寝なおすつもりはなかったため煩わしい衣服を纏ったまま足をベッドから下ろす。
 喉が渇いている。ベッドサイドには水差しがあるはずだった。闇に目を凝らし探せばガラスの水差しとコップが用意されている。注いで、少しばかり温いそれを喉に押し流す。一息に飲んで溜息。口端を零れる水滴を拭いながら彼は辺りを見渡した。そこは彼にと与えられた部屋だった。だのに何故だか違和感を覚えるのだ。何だろう?
 ぼんやりと考えて、やがて闇が彼の目前で凝縮を始めた。それは睡魔の訪れを知らせるものだったが、彼はそうと気付く前に再びベッドへ倒れこんでいた。



 一護が目を覚ましたのは真夜中過ぎだった。部屋の暗さにベッド脇の時計を確かめかろうじて針を読み取った一護はさらに眉間へ皺を刻んだ。
 寝すぎてしまった‥。
 起こしてくれと頼んでいたはずだが、その声にも気づけないほど己は眠りこけていたらしい。そのお陰で身体の疲れはとれたといってよいけれど。しかし中途半端な時間に起きてしまった。もう一度夢の中へ戻れるかと捻った身体を元に戻してみたが、枕の柔らかさにも起床を促される。
 どうしようかと思考を回らせて昼間の出来事を思い出す。
 冬獅郎‥
 彼はどうしているだろうか。あの時の不安が舞い戻り、横たわっていることができなくなる。起き上がると、じっと掛け布を握り締める手を凝視する。
 様子を見に行こうか。
 いや、起こしてしまうかもしれない。行って、また蝋のような顔をみて胸詰まらせることを思うと容易に身体も動いてくれない。それでも、といてもたってもいられなくなった一護は覚悟を決めるように拳を握り、しかし顔を上げて視界に飛び込んだ影に呆気にとられた。
「冬獅郎‥?」
 そう、彼がいた。いつの間に入り込んだのか、それとも己が目を覚ます前からそこにいたのか。寝室の扉の前に彼は立って一護を見つめていた。
「冬獅郎‥、お前、大丈夫なのか?」
 慌ててベッドから降りる。スリッパを引っかけ彼の元へ。真白のシャツとパンツの彼は暗がりの中淡く浮かび上がっている。
「冬獅郎?」
 反応のない冬獅郎に一護は背を屈め、彼の目を覗き込んで思わず身を引きそうになった。
 初めの頃の彼がそこにいた。
「冬獅郎‥、どうしたんだ?俺に会いにきてくれたのか?」
 先ほどまでのとは別種の不安がせりあがり、一護は思わず早口になる。言葉を重ねなければ何か悪いことが起きると、そんな恐れを覚えた。
「身体の具合は大丈夫か?もう、歩き回っていいのか?もう少し寝ていたほうが‥」
 その額に手を伸ばして、しかし触れる前に冬獅郎の手がその手首を掴んだ。余りの強さに、反射的に一護は手を引いたが僅か振れただけで冬獅郎の手に固定された。
「冬獅郎?」
 悪い予感がする。目の前にいるのは冬獅郎なのに、何も心配することなどないはずなのに。
「冬獅郎‥?」
 彼を呼ぶ一護の声がだんだんと掠れていく。細く弱くなっていく。
 何も映さぬガラス玉。加減を知らない手の力。彼は己を認識しているのだろうか。
 一体何が彼を連れ去ったというのだろう!
「‥‥‥っ!!」
 手首の拘束を解かれたかと思えば間髪いれずに肩口の服を掴まれ、薙ぎ払うように引っ張られた一護はバランスを崩し倒れこんだ。
 横様に倒れた一護に彼は乗り上げると、起き上がろうと仰向いた彼の肩を押さえつけボタンの隙間に手をいれ力任せにシャツを引きちぎった。息を呑む一護に彼はなんの表情を浮かべることなく、ボタンの幾つかは弾けて飛んだ。
 声がでてこない。一護は声を出そうとして自分が息を吸い込んでいることに気付く。呼吸が意志を裏切っている。声の出し方はどうするんだった?圧し掛かる彼を押しやろうと腕を使ったが、混乱する思考に上手く繰ることが出来ず、煩わしげに眉を顰めた彼に押さえ込まれる。
「‥しろう‥っ」
 上擦った声が制止を求め、乗り上げる彼の下から抜け出そうと背を暴れさせるがなんということだろう、この力の強さは!
「冬獅郎‥っ」
 歯を食いしばり、渾身の力で己の腕を床に貼り付ける手に抗うが強く握り締められすぎて痺れが広がっていく。
 彼が屈みこみ、柔らかな銀糸が頬に触れ、彼の吐息を耳の下に感じるとともに舌の弾力が首筋を舐め上げ驚きに一護は身を強張らせた。
 何をしている!?
 彼の歯牙が鎖骨に、喉下に柔く突き立ち唇の薄い皮膚が肌を滑る。
 腹の上に跨る彼は喉下の窪みから喉仏、顎への輪郭を確かめるように舌を這わせ、それから逃れようと仰向く一護が恐々として見つめる先で獰猛に口端を持ち上げた。獣が獲物へその牙をつき立てる寸前の、生臭い息さえ感じるほどの生々しい笑み。そうしてその口を食もうと腹をずり上がった彼の欲情の示しが明瞭な危機感を一護に教えた。
「冬獅郎!」
 唇を拒んで一護は首を振る。なんとか抜け出そうと身を捩る。それを楽しそうに彼は押さえ込む。
 これは誰だ。
 床を蹴る反動で彼との隙間を作ろうとするが殆どの力は絨毯を掻いて外へ逃げていく。
 これは誰だ。
 手が、痺れて、後頭部の擦れる音に鼓膜まで痺れていく。
「やめろ‥っ」
 これは誰だ。
 押さえ込む力も、圧し掛かる重みも、嘲笑い、悪戯に噛み付こうとする顔も
 どれもこれもが己の知っている彼とは程遠い。
 ――――喰われる
 肉を裂かれ、殺されるのだと、そう一護は思い込んだ。
「冬獅郎!!」
 泣き叫ぶような声が己のものだと、一護は直ぐには理解できなかった。紗のような翳の向こうで瞠目する翡翠を見止めて一護はありったけの力で彼を押し返した。
 一護の声に縛られたか、呆気なくその身体は押しやられ、重石をなくした一護は感覚の弱い足で立ち上がりふらつきながらその場から逃げた。
 転げるように廊下を走り、右も左も意識しないままただ走った。自分を追いかけてくる足音がないことにようやく気が向くと、縋りつくように壁の柱へ倒れこみ、後ろを振り返って己の荒い息だけがこの場に存在する音だと確かめると背を柱に任せずるずるとずり下がった。仰のいて乱れた息を整える。窓から差し込む月の影が切なかった。
 裏切られた‥
 独りよがりな憐憫だと、抑えようとするのに。情けなくて悔しくて、冬獅郎を詰る言葉が胸に湧いて湧いて仕様が無かった。
 一護は嗚咽の漏れそうになる喉を戒めるために歯を食いしばり、冷たい大理石に頭を擦り付けた。



 どれだけの時間が過ぎただろう。
 身体が冷え強張っていることに一護はのろのろと立ち上がった。時計の長針は何周もしたように思う。気だるくて、体重を支える足は頼りなかった。
 部屋には‥戻れない。
 冬獅郎がまだいるかもしれない。かといってどこに行けばいい?分からなくて一護は迷子の気分になる。行くべきところがわからない。行ってよい場所が分からない。廊下をどちらにすすみ、どの角を目指せばいいのかも分からなかった。
 ボタンの取れてしまったシャツを引寄せ、これ以上熱が拡散するのを防ごうとした。夜気の冷たさを細胞はようやくになって認識したようだ。熱を作ろうと身震いした。
 廊下の先に彼がいる錯覚。月明り下に立っていなければ闇から伸びる手に捕われそうだ。
 どうしよう。どこにいけばいい?
 このままここで夜を明かすのも得策じゃあない。どれか空き部屋を借りようか。一護が逡巡していると、その背中を問うものがあった。
「黒崎サン?」
 振り返った一護は彼がこの場にいることを問おうとしたが、開いた口は彼の足下のそれらを見止めて静止した。一護の視線を追った浦原はあぁ、と得心したように頷いて
「うちの可愛い従業員っス。ほら、ご挨拶してください」
 浦原の手に前へ押し出されたそれらは一方は威嚇するように一護を睨み上げ、一方は浦原の後ろに戻りたい様子で怯えるように一護を見上げた。
「ジン太」
「ウルル‥です」
「この子らが黒崎サンをみつけましてね、あたしが参ったというわけです」
 一護の質したかったことに答えた浦原は微笑み、一護に暖かいミルクは如何ですか、と誘った。
 ウルルとジン太の二人が屋敷の清潔を保っているのだと道々浦原は説明した。その二人は既に彼らから離れ姿を消していたが今も掃除をしているだろうと浦原は笑った。
「あんな子供が‥?」
 非難するというよりは迷っているように一護は隣を歩く浦原を見上げた。自信を失っている一護の表情に、浦原は優しく微笑んで
「あの子達はね‥特別なんです」
 内緒ですよとでもいうように唇に人差し指をあてる悪戯っぽい仕草に一護も筋肉の緊張を微かだが解かれてくすりと困ったように笑った。疲れていて、詳しい話を聞ききたいとは思わなかった。玄関ホールを見下ろす踊り場に出て、一護は迷路から抜け出たような安堵を覚えた。浦原の隣を歩きながらもどこを歩いているのか分からなかったからだ。







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