相続人 第二部 2






「それは成長期ですねぇ」
「成長期?」
 食器を棚へ片付けている浦原を手伝いながら一護はなんでもない風に冬獅郎を話題に上げた。
 カチャリカチャリと単調に、細かな細工を施された磁器が戸棚へ仕舞われていく。皿を拭きながら一護は浦原へ問い返した。
「成長期ですよ。思春期と申しましょうか。日番谷さんは丁度その時期なのでしょう。この期間には親もまた苦労しますからね。子供と一緒に次の段階へ進まなければならないんですよ」
 親、と子か。照れ臭い気もするが言い得て妙というか自分たちは既にそう形容されてしかるべきなのだろう。浦原へ向けていた視線を外して一護は気恥ずかしさを誤魔化した。
「俺、親ですか」
「親ですね」
 何を今更と云うようにふふと浦原は笑った。此方を向いた男の眼を見返すことができずに一護は唇を尖らせる。なにを嬉しく思っているのだかと。
「ま、頑張ってくださいよ。子供は一人で大人になるわけじゃありませんから。日番谷さんは貴方が支えてくださらないと」
 最後の一枚を一護から受け取って浦原はにっこりと笑う。
「貴方、いい親してますよ」
 云われて嬉しくなくもない。


 能天気な方ですねぇ、と一護の去ったリビングで棚の前に立ったまま浦原は窓から外を眺めながら薄らと嗤った。成長期だなんて言葉一つで信じてしまうほど彼は冬獅郎に心を許している。まるでしがみ付くようだと浦原は思う。
 この屋敷に来て、外界に出ることも極力許されず、それでも自分達の存在を許そうとしている、許している彼は甘い。一年と云う期限が、休学と云う手配が彼をそうさせているのかもしれないがそれにしたって彼は優しすぎる。無知の優しさは愚かさでしかないというのに。
 冬獅郎の成長期、急激に心が発達することをそう呼ぶならば確かに彼は成長期のなかにあるのだろう。目覚しい成長のなかに。だけれど急激に骨が伸びれば筋肉が軋むように、なにかしらの歪はあるのだ。それが惑乱した一護を見つけたあの夜だった。その後一護の部屋でぼんやりと床に座り込んでいた冬獅郎の、機能を停止させたコンピュータが再起動するかのような瞳の変化を思い出して彼はひっそりと笑う。
「能天気な方ですねぇ」
 図太いと申しましょうか逞しいと申しましょうか。
 あれだけ傷付いた顔をしておきながら、すっかり許してしまっているのか。
 さすがと云ったところだろうかとそれは、彼を選んだ人間へ宛てての言葉だった。
 成程、あなたが残しただけあって、このゲームは極上だ。








 これは、記憶である。

 トウシロウ、と誰かが呼んだ。
 高い、鈴の鳴るような優しい女性の声だ。
 目蓋が重くて上がらない。
 張り付く両目蓋の間から零れる白い明りにぼやけて、窓とそれを背に立つ人間の影がみえた。陽の光が白々しく、室内は昼下がりの暗がり。
『トウシロウ』
 彼女が軽やかに両手を広げ、己を抱こうと歩み寄る。鼓膜が張り詰めたような無音。




 トウシロウ、とその人が呼んだ。
『自信を持ちな。母さんはあんたを愛していたよ』
 小太りな女の身体を見下ろしている。絵の具の滲むように肌色がその貌を覆い、目鼻の判別がつかない。ただ、動く唇と、そのお節介そうな声と口調になんとなく近所の小母さんだと思った。
『お前の名前、トウシロウというだろう?私等も初め言い慣れなかったがね、その名前はあんたの母さんがあんたに贈った名前だ。あんたの父親の国の言葉だそうだよ』
 笑みに覗いた黄色味がかった歯、視界は絶えず揺れていて地に足がついていないのだろうかと思う。
『ほら!そんな顔してないで!さぁ学校へ行った行った。サボるんじゃないよ!』
 背中を押された衝撃によろめきでたのは白の閃光の中。




 物のぶつかる衝撃に目元を庇った。
『こっちを‥っ、見ないで‥っ!!』
 甲高い女の悲鳴。怯えているのか、泣いているのか、ずきずきと傷む米神を押さえながらそちらを見やれば痩せ細った身体に襤褸を纏い、また汚れてほつれたベッドカバーを胸元に引寄せ壁へ張り付いている女の姿。乱れた髪は疲れて、その狭間からこちらを見つめる眼は畏れていた。
 足下へ目をやれば擦り切れた装丁の分厚い本。その角が己の米神を傷つけたのだと知った。
『ごめんなさい‥ごめんね‥坊や‥』
 目を戻せばシーツに顔を埋めてすすり泣いている女。うわごとの様に誰かを呼んで、それが己だと思い出す。
『母さん‥』
『呼ばないでぇ!』
 宙にかざした己の手の哀れ。




 何人もの子供たち、ここは、迷路のように入り組む路地の一角。じめじめと年中乾くことのない石畳はところどころ欠けて泥水を湛えている。
 ばしゃり、と一人の靴がそれを蹴った。
『トウシロウ、お前、大きくなったら何になりたい?』
『トウシロウはあたしと結婚するのよね。ずっとこの街にいるんだわ』
『俺は外に出て偉くなるぜ。そんでこの街に帰ってくる』
『私は今のままここにいたいわ、子供たちの面倒を見てあげたいもの』
『僕は大学へ行きたいな。たくさんのことを知りたい』
『なぁ、トウシロウは何になりたい?』
 パレードのような、子供たちの笑い声。




 風が天の高くで啼いている。ここはそういう場所なのだ。
 無機質な灰色な墓石たちが秩序正しく並び、小高いその一端で今一人の死者が弔われようとしている。
『可哀想に‥まだ幼いのに‥』
『おいで‥』
 引寄せられて抱きしめられる。ふくよかな女性の腕と胸はそれでも彼の胸を温めるには足らなかった。
 黒、黒、黒の集団。
 空は灰色で陽の光は死んだように弱い。
 風は冷たく、肉の身を苛む。
『この子は通例通り私らで育てよう。街の子供は街の人間達で育てるんだ‥』
『頭のいい子だ。きっと、自分の力でこの街から這い出すだろう』




 暖かな午後の日差しの中で、彼女が服を編んでいる。レースのカーテンに濾過されたそれは後光のように彼女を象る。細く柔らかな彼女の髪が光に溶けて、綺麗。
『トウシロウ?貴方の名前を大切にしてね。貴方のお父様が愛した国の言葉なの。とても勇ましい言葉なの』
 毛糸を繰る指を休めないまま、穏やかに微笑した唇は瑞々しく、白く透き通った肌に頬は薔薇色だった。
 己は彼女の前に腰掛けて、床に届かぬ足をぶらぶらさせながら大好きな彼女の声に聞き入っている。
『いつか、迎えにきてくださるわ。そうしたら家族3人、彼の国に移りましょう』
 こちらを見て、にっこりと弛んだ目が優しかった。






 片側へ身体が引っ張られる。強力に、身を千切らんばかりに。
 覚醒の時だ。まだ心地好いこの夢に浸っていたいのに。
 穏やかで悲しくて、優しくて辛い、これは俺の過去だ。
 チューブの中へ吸い込まれていくような感覚の中で身体の熱が冷めていく。”地上”が近づいている。目を覚ませばまた、変わらない今日が
『知りたくはないか?』
(−−−−−−−−−っ!!)
 吸引力がなくなり、身体はすとんとどこかへ落ちた。
(何処だ?ここは‥)
 辺りを確かめようとするが首が動かない。何かに固定されている。
『知りたくはないか?』
 目の前の男がばさりと綴った紙をテーブルへ投げた。向き合って座っている己はそれを凝眸し、逸らさない。膝に置いた両の拳は硬く、痛いほどに脳は思考している。迷っているのか。
 そこは暗かった。厚いビロードのカーテンは開かれていたが、その重厚感に怯むかのように光は弱弱しい。翳に沈む部屋の中で、男の貌は見えなかった。ただ、随分年嵩で、残り少ない頭髪は白く、指は細って節くれだっていた。
『ならばこの家へ戻れ』
 威圧的なその声に、自然と反発心が沸き上がる。沸き上がる、が
 彼は投げ捨てられたそれらの書類を手に取った。








「−−−−っ」
 急激に流れ込んだ空気に気管が傷む。跳ね起こした身体をくの字に折って、冬獅郎は荒い息を繰り返した。
(なんだ‥今のは‥)
 初めに見ていた夢は既に慣れたものだった。時間軸がばらばらに繰り返し再生される。視点の高さと己をみる人間の眼差しとで己が入り込んでいるらしいその人物の身体のサイズを測ってはどれくらいの年の頃か予測する。人物は成長していた。成長しては退行する。行ったり来たりの他人の人生は、しかし精々12かそこらまでの映像だった。それが初めて青年の身体になったと分かったのは、座りながらも高くなった視点と、それまでに見たことのない人物と部屋だったからだ。人間に見覚えはなかった。だけれどあの声、そして部屋の調度品の雰囲気‥あれは
『君が、”トウシロウ”か?』
「−−−−っぐ‥」
 込み上げた吐き気に口元を庇う。
(なんだ、今のは)
 幻聴かと惑うほどリアルにそれは鼓膜の奥で聞こえた。
『初めて会う。私はーーーーだ』
 ぐにゃりと空間が歪む。脳を揺さぶられているように平衡感覚が掴めない。自分が倒れようとしているのか支えようとしているのか、それさえ分からなかった。
 聞こえない‥聞こえない、何を言おうとしているんだ‥
 だが知っている
『君のーーーー』
 この声を俺は一度確かに聞いている。
 危うげな額を押さえて一度、固く目蓋を閉じ合わせた。
(一護は‥)
 傍らに寝ているはずの青年へ目を走らせる。もはや頼りない視界にそれは定かには映らなかったがシーツの膨らみに安堵する。
 額を押さえていた手で浮いていない汗を拭うように口へ移動させ、腹を庇って、冬獅郎は予想した。直感したといってもいい。
(堕ちる‥)
 長い、深い眠りに堕ちると、彼は予想し身体を折り曲げた姿勢のままゆっくりとシーツの上へ横たわった。








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