ブランコ――それがどんなものだか彼は知らなかったが――何かの折に眼にした覚えのあるそれの感覚はきっとこんなものなのだろうと、ぼんやりと薄目を開けた冬獅郎は思った。 隣に眠っている彼の気配を探ろうとしたが知覚は撹拌されてそれを叶えない。 夢うつつなのだと思う。最近、よく襲ってくる現象だった。 そんなとき冬獅郎は抗いもせず、ただ身を任せる。そうすればやがて過ぎ去っていくことを知っているからだ。 光の残像が輪っ環となって網膜に焼き付いていた。視点を移動させればそれに倣う。目を閉じてもそれは追ってきた。 眠りに落ちれば夢を見た。それはこれまで見てきたどの夢とも違っていた。人間の匂いのするこの屋敷に来る以前は、夢といえば記憶の反芻だった。起きている間にみた光景の断片が出鱈目に継ぎ合わされ、そうして収納されなおす。それだけの手続きに過ぎなかった。 なのに夢は様相を変え、冬獅郎を惑わそうと夜毎脳を揺さぶりにかかる。 眠るのは嫌だな‥ とろとろと目蓋を押し上げる意志さえ弱まっていく感覚に冬獅郎は最後の抵抗というようにシーツの上へ手を滑らせた。彼の手を探そうとしたのだ。 隣に眠る、安らぎを与えてくれる橙色の髪をした青年。触れた温もりに指を指しいれ掌を握った。起きた気配はなかったが、握り締めた手へ応えるようにその手もわずか撓んだ。 一護‥ 呼ぼうとして、それは唇だけが象った。 夢が始まる。 夏が近づくにつれ鮮やかに変化していった庭の緑も盛りを迎えた。瑞々しい葉の緑が反射する光に一護は目を細めながら散策する。芝生と、その下の柔らかな土は靴底の上からも心地好い。だけれどもいなくなって久しい傍らの温もりに、一護は屋敷の一方向を見やっては吐息を落とす。 冬獅郎、胸の中で呟いて彼の部屋へ閉じこもる冬獅郎のことを考える。暫くの間手付かずになっていた研究へまた没頭しているらしい彼は昼間なかなか顔を出さなくなっていた。それでも一護が朝目を覚ませば隣に眠っているから、ご苦労なことだと呆れながらも微笑ましく思う。 無理はして欲しくないのだけれど、彼の好きなことなら目いっぱい励んで欲しいと思うのだ。 手持ち無沙汰を一護は読書で誤魔化そうとしたが、そんな集中力さえ得られないときはこうして庭を散歩する。レコードも大量に所蔵されていたが、黙ってクラシックを聴いている気分でもなかった。どうやら林に囲まれたこの屋敷は林を抜けた先も敷地であるらしい。先祖は城主だとか浦原は教えた。成程玄関ホールやら廊下の壁やらに飾られている肖像画の数々は一族の長い歴史を伝えるものであるようだ。 大分足が疲れてくれば温室で休む。そのまま昼寝をすることもしばしばだ。空調を整えられ、そこは汗ばまない程度に暖かい。ベンチに横になってまどろんでいれば何時の間にかテーブルの上に茶の用意もされている。気が利くというよりもまめな人なのだろうなと、一護は浦原への認識を改めていた。彼のお陰で生活は大変快適なものであった。 それでも、否、だからこそ一護は冬獅郎のことを考える。思考する時間が余りあるから唯一気を掛けることのできる冬獅郎を思わずにはいられない。姿が見えないことが拍車をかける。暖かな日差しに目蓋を閉じる一護は眠りの淵を漂いながら思考するのだ。 冬獅郎は杖ついた腕の手の甲へ頬載せて苦しげな溜息をついた。先程から画面の文字は一行も動かされてはいない。もはや陽に慣れた彼は薄い遮光カーテンを開け放していたが、黄色味がかった光は視界の端に眩しくて、しなくてはならない考察を邪魔されその光を遮ってしまおうかとも考えるが、そうすれば外と隔絶される室内にまた気分が滅入るのが分かるから動けずにいる。 3階にある冬獅郎の部屋の丁度真下、1階に研究室はあった。リノリウムの床が冷たい印象を与える飾り気の無い部屋は古めかしい外観の屋敷でただひとつ異質だ。 何台ものパソコンを起動させて、背後では実験用の機材が稼動していて。研究は概ね順調といったところだったが、物足りなさを感じる自身に冬獅郎は首を傾げる。 何故、こんなにも焦っているのだろう。 終りが見えるに従って焦燥は強くなった。早く早く早く、そこへ辿り着きたい。それはまだ先のことだと解っているのに、いずれ手元にくると分かっている結果を待ち遠しく思うことさえ今までは一度もなかったのに。 冷静に、冬獅郎は己を分析しようとする。 焦る理由が分からないから、そこへ進むべきかどうかも判断できない。不可解な状況へ飛び込むような無謀さを彼は持ち合わせてはいない。 脳裏に一人の男の影がちらつく。浦原喜助、今は執事の真似事をしている彼が実際は何の仕事をしている人間なのか知らない。おそらくは一護もだろう。浦原はそれを自分たちに明かすつもりはあるのだろうか、‥ないだろう。 カリカリと針が紙へデータを書き込んでいく音が休みなく続いている。ファンが熱を発散させる音が時折上がる。それだけで後は全く静かだった。 あの男は知っているだろうか、己の知らないことまでも。 そんな気が、した。 くらりと眩暈が彼を揺すった。頬杖をついた腕が危なげに揺れた。 ち、と冬獅郎は舌を打つ。まただと苦々しげに顔を顰める。まるで思考を止めろというようにそれは度々彼を襲った。 不可解だ、不可解だ、不可解だ。 それが焦燥の正体だ。冬獅郎は椅子から立ち上がり、この日の研究を終了した。 (一護‥) 廊下を歩いていれば窓の外にその姿を見止めて冬獅郎は頬を緩ませた。自室へと向かおうと目指していた階段からテラスまで足を延ばすことに変更する。燦々と暖かな陽の降り注ぐ庭に出て、彼のほうへ近づいていけば気付いた一護が振り返り、冬獅郎の笑みを見つけると彼もまた相好を崩した。 「久しぶり、今日はもう研究は休みか?」 揶揄かうように笑いながら一護は冬獅郎へと歩み寄る。彼が側までくるのを立ち止まって待ちながら冬獅郎は軽く頷いた。不快感は彼の姿を見止めた時に払拭されている。 「本当、久しぶり」 目の前に立ち、日差しを遮る一護は満足気に息を吐き出す。冬獅郎の顔に疲れた色は見えなかったから安心したのだ。目が覚めてすぐ側で眠る顔が血の気の失せた色をしているだけに、そうしてまた、目覚めてそれを待っていた己を視認して泣きそうに目を細めるのを見ているから心配は已まなかった。 「疲れてないか?浦原さんにお茶でも用意してもらおうか。部屋へ‥」 「温室へ」 「え?」 屋敷の中へと目をやった一護は、遮った声へ顔を向けた。 「温室へ行こう。さっきまでそこにいたんだろう?匂いが服についてる。茶もまだ残っているだろう?」 「ある‥けど、もう冷めちまってるぜ?」 「構わない」 先に立って歩き始めた背中が何かを拒絶しているようで一護は戸惑ったが、質すことはなく従った。 横になりたいと冬獅郎にせがまれ一護は膝を貸す。柔らかな銀糸が広がり、日差しを受けて一護の目を楽しませる。先ほど一人でいた時とは明らかに気分が変容している。ベンチさえ温度を変えたように尻に馴染んだ。 目を閉じれば直ぐに冬獅郎の吐息は寝息へと変わった。よほど疲れているのだろう。何時寝ているのか分からない彼は、自分が眠りから目を覚ませばやや遅れて目蓋を開く。睡眠が足りていないだろうことは確かだった。 さらりと手触りのいい髪を梳きながら一護は冬獅郎の貌を観察する。どこかしら変化が表れてはいないかと。初めの頃よりなんら変わるところはなさそうな造形は相変わらず整っている。 今は少し蒼褪めているが、血色は良くなった。陽の光を浴びることはやはり健康にいい。人を映す瞳ももはや無機質などではない。言葉数も増えた。そう‥、増えたのだ。喜ばしいはずのそれへ、しかし一護は漠とした不安を感じている。畏れと云っても良いだろうか、冬獅郎は流暢に言葉を繰る。何故、それを奇妙に思わなければならないのか?一護は自身が不思議だった。 教わっていくというよりは、まるで思い出していくかのように彼は語彙を増やしていく。 「一護?」 我に返れば冬獅郎が不思議そうに一護を見上げていた。意識に沈み込むあまり、凝眸するその貌が目を開いたことにも気付かなかったなんて。 「どうした?変な顔をしてる‥」 心配そうに眉を寄せる表情から幼さはいつのまにか形を潜めていた。また、一護は模糊とした不安を感じる。消化不良の不快が胃に重い。 何時から? 何時から彼の背中が遠ざかっていくような錯覚を覚えるようになっただろう。 (彼が研究に没頭し始めた頃からか‥?) 「なんでもない。悪いな、心配させたか?」 誤魔化すように微笑んだ一護へ一瞬間胸の内を見透かすような瞳をしたが、冬獅郎は首を振って 「大丈夫なら‥いい」 そのまま目を閉じた。 渇いた喉に唾を押し込む。快適なはずの温室で、背中はしっとりと汗をかいていた。 NEXT |