相続人 第二部 4






 冬獅郎が目を覚まさなくなった最初の日と同じようにして一護は食堂に駆け込んだ。そうしてまた同じように男の名を呼んだ。今度は咎める声で
「何の真似ですかあれは!」
 浦原はのんびりと朝食の膳を運んでいた。一護の席にそれらを並べている途中で一護が部屋へ飛び込んできたのだ。初めから開け放されているドアへ滑り込むようにして駆けて来た一護が急停止するのを驚いたような眼で彼は見返した。
「何の真似とは?」
「恍けないでください!冬獅郎の部屋の鍵のことです‥っ!!」
 声を荒げて一護がいえば、彼は宙を眺めるように視線をあげて、あぁと思い出したように声をだした。それに一護は歯噛みする。ここ数日の浦原の対応は表面上変わらないようにしながらその実酷く冷めたものだった。時間が逆行したかと思うほどに。事実浦原の態度は屋敷に連れてこられた初日の頃と寸分違わないように思える。読めなくなった‥、と一護はその心を思う。それが今回のことで決定的となった。上手くいくようになっていただけに落胆は大きい。
(結局俺は部外者でしかないんだ)
 この男にとって己の価値とは初めの頃からなんら変わっていないのだ。最初の日にだけ見せた顔も、言葉も、あれこそが真実だった。変わりようのない、動くことのない男の目的だった。
 目的のためなら何だってする男だったのだ。
「いえ、日番谷さんのね、容態が少し変化するかもしれないので極力刺激を与えないようにと思いまして」
「容態?だったらなおさら俺が‥っ」
 側にいてやらなければ、と言いかけて口を噤む。浦原の、目が
 底知れぬ不穏なものを潜ませた瞳が。
 僅か怯えの色を眉間に滲ませた一護に浦原はその瞳を隠してにっこりと柔らかに微笑んだ。
「どうです?久しぶりに街へ出てみませんか」
「は‥?」
 唐突の提案だ。否、彼にとっては準備されたものだったのかもしれないが。
「貴方のアパート、実は元のままなんですよ。数日街に戻ってみませんか」
「どういう‥意味ですか‥」
 これは本格的にお払い箱だとか厄介払いだとかそういう意味だろうか。自分が一体何をしたのか全く検討のつかない一護は憤るよりも戸惑った。
「休学しているとはいえ大学に入れないわけでもありませんし、授業の雰囲気に浸るだとか、ご友人方にもお会いになるだとか。彼らも心配されているのでは?」
 確かに。確かに此処にきてから彼らへは電話を一本かけただけた。暫く留守にすることと、心配しなくとも必ず帰ってくること。以前一護街に出たときには会えなかった。
 そうだとしても今更な話だ。
「俺に、いて欲しくないような口ぶりですね」
「そんなことはありませんよ。ただ‥」
「ただ?」
 遠慮するような間のとり方だが、男にそんな殊勝な面があるはずがない。獲物を弄(なぶ)る獣のように、非捕食者の動向を眺めて楽しんでいるのだ。
「彼はこの家の正統なる血統者で、貴方はいわば彼の家庭教師のようなものです。時には休暇を、と思いましてね。丁度その時期でもありますし」
 怒り心頭とはこのことだ。
 毛も逆立たんばかりの怒りに言葉も出てこない。奥歯を噛み締めて男に飛び掛らないよう押さえるのが精一杯だ。爪が食い込む拳はその痛みも感じず震えている。
『俺、親ですか』
『親ですねぇ』
『まるで親鳥の気分でしょ』
『喧嘩でもなさいましたか?』
『日番谷さんをお願いしますよ』
 あの言葉は!あの気遣いは!あの笑みは!
 全て嘘だったのか、全て嘘だったのだと欺かれていた悔しさに涙さえ零れそうだった。
 これほどの、裏切りが
「あんた一体どこまでが本当なんだ」
 怒りを押し込めた声が威嚇するように唸る。
「本当とは?」
「あんたの目的はっ」
「目的とは?」
 男はまともに相手をする気もないらしい。完全に子供扱いか、でなりゃ幼児扱いだ。
 馬鹿にしている‥っ
「冬獅郎を人間にしたいといったあの言葉も嘘か!」
 とうとう抑えきれずに憤怒のまま難詰の声を上げる。それでも男は飄々としたままである。
「時間も相続も関係ない、俺にしかあいつを人間に出来ないと、あんたそう言っただろう!ここの主人だった奴の最後の望みを叶えたいと!だからこそあんな嘘までついて俺を足止めしたんだろう!それを何だって今になってこんな‥っ」
 縋るつもりなどない。媚びるつもりも諂うつもりもないのだけれど吐き出した言葉はそれととれないこともない。それが悔しく一護は言葉に詰まる。自分のそんな姿を嘲笑うように見える浦原の目を見返していられなくて落とした視線で床を睨みつけた。追い出されるだとか用済みだとか、使い捨てなそんな扱いだってどうでもいい。ただ、ただ今は冬獅郎の側を離れたくなかった。離れては、いけない気がした。意地になっているだけかも、単なる我侭かもしれなかったが、一護の心は強く此処に留まることを望んでいた。
「答えろ!浦原さん‥っ」
 あの言葉は嘘か!
「その、”人間”、になろうとしているところなのですよ」
 は?と一護の眼が意表を突かれた顔になる。己の激情とは正反対の、冷めた静かな声に思わず顔を上げた。
「蝶も静かに蛹から成虫へと変態するでしょう?彼にもね、静かな環境が必要なんです」
 ね?と今では嘘くさいとしか見えない笑みでそう同意を求められても頷けるわけがなかった。訳が分かろうはずがなかった。
 そうして理解しえないまま、そのために呆けた一護は屋敷から放り出された。
 また、着た時と同じように着の身着のままで
 何時の間に現れたのか黒のスーツで身を固めた男達に両脇を固められ、引き摺られるようにして車へ押し込まれて。
 約3ヶ月ぶりの自宅へと一護は強制送還されたのだった。






 浦原はその部屋を訪れて、運んでくるべきは点滴の袋ではなく消化にいい食事だったことを知った。点滴に用いる道具を載せた銀のトレイを傍らの棚の上へ置き、扉の向こうでベッドの上、体を起こしている青年へ笑みを作りながら近づいていく。青年は俯いて、シーツの一点を凝視しているようだった。否、目まぐるしく脳を回転させているのか。現状を把握できずに惑っているのかもしれない。それでも理解しようと努めているらしいその姿は逞しいものだった。
「おはようございます。日番谷さん」
 お目覚めですか?
 優秀な執事の所作で浦原は男を前に立ち、伺いを立てる。それにゆっくりと男は面を上げ、困惑するというよりも訝るような目で浦原を見返した。そうして戸惑いがちに口を開いた。出し方を長らく忘れていたような掠れた声は低く、当たり前のはずのそんなことに何故だか男は驚いたようだった。
「お前‥。‥‥俺は一体どうしたんだ?何故ここに寝ている」
 嬉しげに笑う浦原を探るようにみつめる男は、精悍な顔立ち、その瞳はエメラルドグリーン、寝乱れた髪はプラチナの、まさしく日番谷冬獅郎を成長させたならばこれ、という姿をしていた。







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