相続人 第二部 3 「浦原さん‥っ!!」 食堂へ駆け込んできた一護へ、食卓の用意をしていた浦原は思わず皿を落とすところだった。 「どうしたんですか?黒崎さん‥」 「冬獅郎が‥っ、冬獅郎が!」 舌を回すことさえ難しいほど動転している一護に浦原も事態を察し、素早く皿をテーブルへ置くとテーブルを回り反対側の一護の側へと移動した。 「どうされました?落ち着いて」 心持ち緊張した声が問うのに、一護は一、二度深呼吸して 「目を、覚まさないんです‥」 情けなさそうに眉尻を落として、そう云った。 冬獅郎の自室へ彼を運ぼうと云った浦原に、このままでいいと一護は首を横に振った。強く主張するつもりはなかったらしい浦原はあっさりとそれに頷いて、寝苦しそうに身体を丸めている冬獅郎の身体をベッドの中央へ寝かせ直した。 「見た所熱もありませんし、意識がないというわけでもなさそうです。これは‥」 とてつもなく深く眠っていますね。といつものおどけた調子で傍らの一護を振り返って笑った。 「研究に根詰めてたんじゃありませんか?疲れが出たのでしょう、寝かせて差し上げましょう」 云って、食事の用意に戻ろうとする浦原の袖を引いて 「昨日、あいつ昼寝もして、夜も俺と一緒にベッドに入ったんです。本当にただの疲れでしょうか‥」 心配する瞳を揺らして問う一護に、浦原は安心させるように微笑んで 「大丈夫、それより、彼が目を覚ましたときあなたがそんな顔をしていては心配しますよ。まずは朝食を摂って、それから彼の側についてやってください」 さぁ、と促されて一護は、一度冬獅郎を振り返って食堂へと向かった。 上手く喉を通らない食事をなんとか飲み込んで、食後のお茶をと勧める浦原の誘いを断りとって返した寝室で冬獅郎は変わらず眠り続けていた。 ベッドサイドに椅子を持ってきて腰掛ける。眩しいだろうと引いたカーテンは陽に潤み、ときおり薄く開いた窓からはいる風に揺らめく。空気を騒がす機械類のないこの部屋は穏やかだ。椅子の背に凭れかかって冬獅郎の頼りなげな顔を見下ろしていれば、いつか彼の部屋に押しかけた夜を思い出した。その顔が死んだように蒼白く見えたからだろう。 随分と‥変わった。 昨日や一昨日、彼と交わした言葉を反芻する。随分と、変わった。それとともに先日浦原が云っていた”成長期”という言葉を思い出す。一護は浦原のその言葉をまともに受け取ったわけではなかった。納得したわけではなかった。そうして浦原の考えるようにあの夜を完全に許していたわけでもなかった。冬獅郎が別人のようになった夜のことだ。 今の今まで念頭に上らなかった記憶が再生される。 目覚めたときにみた天蓋もあの夜には後を予感させるように顔を変えていたように思う。時計の針の単調な音、眠りから覚めた直後の気だるさ、急かす様な枕の柔らかさ (馬鹿か‥なんでこんなことを今‥) 冬獅郎が離れていくようなそんな気が一護を惑わせたのかもしれない。 引き倒した力の強さ、打ち付けた床の固さ、押し付けられた絨毯の襞の冷たさ 狂猛に、哂う、目。 思い出して、背筋が冷える。けれど一護は気付く。今まで彼はその事を思い出そうとも、改めて考えようともしなかった。あの時確かに俺は違和感を感じていたのに。 一護は今になって漸く、あの夜のことを考え始める。自然と冬獅郎の顔から視線が外れた。部屋を視界に包括しながら、焦点から意識は失われる。 (あの時のあいつは‥) 本当に、あいつだったのか‥? 身体がどうのといえば彼はたしかに冬獅郎だった。けれどあの笑みあの力。 どれも、彼自身とは云い難い。ただ、彼の下から這い出るときの、呆けたようなあの表情。あれが彼の”正気”だった。 緊張に唾液を押下する。寒くはないはずのシャツからでた腕を擦る。あの時の危機感、恐怖が、否、恐怖というよりも裏切られたという悲しみが戻って、一護はまた迷子になったような不安に落ちる。 (忘れようとしていたのか‥) 必死で、忘れて、無かったことにして。 元通り、波風のないやり方で彼との関係を築いていこうとしていたのか。 あの時、冬獅郎に笑いかけた俺はーーーーー。 それは正しいことだったか。 (怖い‥) けれど怖い、と一護は思うのだ。 思い出すことも考えることも怖ろしくて、真夏の昼の日の中でさえこの心臓を冷やして、悲鳴を上げさせようとする。狂気染みた叫びを上げて、纏わりつこうと伸びてくる夜の腕(かいな)を払ってしまいたい。 (どうしよう‥) ぼんやりと、愕然と、肩の力の抜けた一護は思う。 (思い出してしまった‥) 背後を振りむいてみることも出来ない恐怖に、一護は心底泣きたくなった。 冬獅郎が眠りに落ちて3日が過ぎた。一護はそのままでいいと言ったのだが一緒に寝ていてはまた心配が募って貴方が不眠症になってしまいかねないという浦原に冬獅郎は彼の自室に移された。心配が募るというのなら姿が見えないだけ強くなるのではないかと思ったが、一人でゆっくりお休みなったほうがよろしいと顔を覗きこんでいった浦原の目に根負けした。浦原の目は隠し事を許さない深みを持っている。底の底まで覗かれて隠し事も心配事も悩み事も全て暴かれてしまうようだった。どこに仕舞われていたのかストレッチャーに乗せて冬獅郎は運ばれ、自室に戻った彼の細い腕には昼間、点滴の針が突き刺され、栄養剤が音もなく滴り落ちる。一護は毎日冬獅郎の部屋を訪れていたがややもすれば浦原が現れ、日に当たっていなさいと追い出される。柔らかな笑みで。こちらの身を案じてのようでもあるが、邪魔者のように扱われているようでもある。何を邪魔することがあるわけでもないのだけれど。 その日、5日目の朝も一護は朝食の前に冬獅郎の部屋を訪れた。朝食を済ませてしまうと何やかやで浦原に引き止められるのだ。顔を覗くことさえままならなくなって已む終えず一護は早朝という時間を選んで冬獅郎の様子を見に行くようになっていた。しかしそれまでと変わりなく難なく開くはずだった扉は開かなかった。 (なんだ‥?) ノブを回して手前へと引く。引けども数センチと動かずにそれは鍵に阻まれた。 (鍵が?) 何故だと一護は、何かの間違いではないのかと、扉が壊れたのではないのかと、ノブを回したまま何度も手前に引くを繰り返す。が、やはり扉が頑固として道を開かない。 冬獅郎が中から鍵をかけたのか?目を覚ましたのか?それなら出てくるはずじゃないか? ガチャガチャと金属の擦れる音を止ませて一護は耳をそばだてた。中の気配を探ろうと扉に耳を押し付ける。だけれど分厚い板の向こうをうかがい知ることは露ほども叶わない。人の存在どころか歩き回る様子も知ることはできなかった。冬獅郎ではないのだろうか、それなら誰が‥ この屋敷のすべての鍵を持っているのは浦原だ。 (あの野郎‥っ) 一体何のつもりだと、あの男がいるだろう食堂へ向かって一護は駆け出した。 NEXT |