相続人 第二部 5 自分のアパートの前で、これまた同じように車から放り出された一護はすぐさま走り去った車を追いかけることもできずに暫くその場に佇み車の消えた方角を眺めていた。しかしやがて今はどうすることも出来ないと諦めてとりあえず部屋へ上ることにした。 連れて行かれたときもどうやって管理人を言い包めたのだか(脅した可能性の方が高いが)鍵を使って部屋の中へ入ってきて(その時一護はベッドに寝転がりヘッドフォンで音楽を聴いていて物音に気付かなかった)、驚く一護の腕を一本ずつ二人で拘束すると喚く思考も戻る間もなく車に押し込めたので部屋の鍵はバッグのポケットに入ったままになっているはずだった。自分が連れて行かれた後管理人がどうしたかは知らないが鍵が開けられたままということはないだろう。あの男ーー浦原(名前を呼ぶのも苛立たしい)ーーでもその辺りのことは確りやってくれているだろう。 と、思っていたのに。 「あの‥野郎‥」 ひくりと口端が震えた。 入り口を入って正面にある階段を上る前に、その側にある管理人の部屋をノックすればふくよかな顔をした女性が現れ「あら」といった顔をし、ついで揶揄かうような顔で笑った。 「久しぶりにみる顔ね。今まで何処に行ってたの?」 「あ、ちょっと‥友人のところへ泊まっていて‥」 「そう。あなたの部屋はあの時のままよ。知り合いだっていう人が時たま来てたみたいだけど‥お友達じゃなかった‥?」 恐る恐る問うてくる人の良い顔立ちの管理人に一護は引き攣った笑みで応えた。 「いえ、いいんです。それであの‥鍵を失くしたみたいなんですけど貸していただけませんか?」 一護の申し出に彼女は快く了承した。 そして今に至る。 あの野郎、と忌々しい男の顔を思い浮かべて部屋の惨状に開けた入り口から踏み出せずにいる。出る前はそれほど乱れていなかったはずのベッドもシーツはぐちゃぐちゃ、枕は正規の位置に逆らい床の上(それも空き缶だとか菓子袋の!)。テーブルの上も呑んだ覚えのないビールのビンやら使いっぱなしの白く濁ったコップやら、誰が持ち込んだのだか安っぽいアルミの灰皿からは山となった煙草の吸殻がしがみ付けないまま落ちてそこを灰で汚して。特別綺麗好きというのではなかったが、人並みに片付いていた部屋の面影は全くといっていいほどない。家具家電が自分のものだというだけだ。中途半端に締められたカーテンに濾過された光が、余計に部屋の中を荒廃して見せた。 左手にぶら下げた鍵は結局必要なかった。鍵穴に差込みまわしてみれば反対に鍵をかけたからだ。あの男は主を連れ去った始末もせず放っていたのだ。この部屋に来ていたという人物が何者か怪しんだが、ゴミの山を掻き分け所有物を確かめていけば何も盗られたものはなかったので、この部屋が空であることを知っている浦原の差し金か、もしくは自分の友人達だろう。後者の場合直ぐにも問いただしてやらなければ。 とりあえずは部屋の掃除を始めるためにまずは篭もった空気を入れ替えようと窓に近づいた一護は再び盛大に顔を顰める。 「ちっきしょうカーテンに煙草の臭い染み付いてんじゃねぇか!」 領域(テリトリー)を荒らされるのは誰だって好ましくは思わない。 「っは〜そんなことになってたんか」 ってそれマジ話?とカフェのテーブルに身を乗り出して訊いてくる恋次に、こんな嘘なんぞつくかと拳骨を食らわせたのは一護だった。 「痛ってぇー。だけどよ、お前の部屋勝手に入ってたの俺らじゃねぇぜ?お前から電話あってから誰も行ってねぇはずだしよ。例の‥浦原さん?の部下かなんかじゃねぇの?」 恋次は派手な赤い髪を高く結い上げ、深く剃りこんだ額の刺青にバンダナを巻いている同年の友人である。露出した彼の首にも腕にも刺青は彫られている。聞けば全身に彫りこんでいるらしい。だからこそ大学で知り合ったときはこいつ本当に学生か、と自分の髪色と第一印象の悪さは棚上げでそんな感想を抱いた。相手も同じだったらしく初めこそ険悪な仲ではあったが根本的に似た者同士だったためか直親しくなった。そんな彼と久しぶりに再会したのはこの街に帰ってきて3日目のことである。部屋の片づけには3日を費やした。その日の夕方まで続いた掃除のために自炊する気力も残ってない一護がこの日もまた夕食に訪れたカフェでばったり出会ったのだ。駐車場の向こうに横たわる道路が望めるボックス席に着き、報告ついでの愚痴を聞いてもらっていたところだった。 「だよなぁー。ったく何だってんだあの人。マジ訳わっかんねぇ」 一通り吐き出したつもりだがまだ不満は燻っているらしく煙は治まらない。それでも頭を擡げるのは冬獅郎への心配だった。無意識に変化する一護の表情が、”冬獅郎”に直結していることをこれまでの話で見つけていた恋次は今も彼への想念が一護に浮上したらしいことを察した。 「なぁ、そんな気になるんだったら行けばいいんじゃねぇの?」 「は?」 恋次の言葉が理解できなかったのか間抜けな顔で問い返した一護に、あぁこれ重症なのかもなと恋次はこっそり嘆息した。 「だから、”トウシロウ”のこと、気になるんだったらその屋敷に戻ればいいじゃねぇか」 それで漸く理解したらしい一護は途端に顔を顰めて応えた。そしてその答えに恋次もまた盛大に眉を顰める。 「馬鹿か。出来るわけねぇだろそんなこと。俺追い出されたんだぞ。用済みだぞ。行ってみたって門前払いに決まってんだろう」 「お前本気でんなこと言ってんのか?」 「あ?んだよいきなり」 低くなった恋次の声に、一護も反射的に喧嘩腰になる。恋次の応え様が意外だった。何故突然彼が不機嫌になったのかその理由が分からなかった。しかし一護は戸惑うより先に威嚇するタイプの人間だった。 「そんだけ顔に気になりますって書いときながら、放り出されりゃ尻尾巻いてドアに吼えることもできねぇ負け犬だったのかよって訊いてんだ」 「な!?てめぇ‥っ」 「間違えてるか?」 今度は自分が乗り出したテーブルの上で、しかし一護は胸倉を掴んだ恋次の顔へ拳を叩き込むことが出来なかった。真っ直ぐに見つめてくる彼の目があまりに真摯だったからだ。 「情けねぇよお前。愚痴って満足するような人間じゃなかっただろ。たかだか半年程度あの家にいただけですっかり牙抜かれちまったかよ。今のテメェはテメェじゃねぇ。生ゴミ漁る覚悟も失くしたただの負け犬だ!」 「‥‥‥‥っ!!」 痛かった。その通りだったからその言葉は強く一護の胸を穿った。そうして目を開かせた。 俺はここで何をしている? 掃除をしている間は無心でいられた。ブチブチと文句を垂れながらもあの屋敷での問題を深く考えることはせずに済んだ。腐っていたのだ。いらないと云うならそれは俺もだ、と体よく諦めていたのだ。認めさせることを。お前にとって俺はなんてことのないちっぽけな人間なんかじゃないということを。散々軽蔑してきたその行為に彼自身が浸かっていた。その微温湯に甘んじたのは、追い出されたことで図らずも不気味に浮かび上がる想念から解放されたからということもあっただろう。ほっとした。見たいと望んでいたはずの彼の顔を畏れていたのだ。 なんてことだ。俺はまた‥ 「逃げんなよ」 「っ」 己の思考を先読みされたかと一護は驚いたが恋次がそれを知るはずがなかった。だから彼のその言葉は先の叱咤の延長で。一護は恋次のシャツを放した。 そのまま座ることもできず呆然と立ちつくす一護に、恋次が一本のキーを投げた。パンツの尻ポケットに収まっていたそれはテーブルを滑って一護の手前で止まった。銀色に光るキーを見下ろして、一護は問いかけるように恋次を見た。彼のバイクのキーだった。 「貸してやる。お前バイク持ってなかっただろ。俺の大事な恋人なんだからな、少しでも傷付けたら承知しねぇぞ」 「恋次‥」 冗談めかして彼は哂ったが、彼にとって彼の愛車が恋人であることを一護は知っていた。彼はそれをとても大事にしていたからだ。いつでも完璧に磨かれて、そのスタイルもスピードも彼は自慢にしていた。それを貸すという。 「俺、免許持ってねぇけど」 「‥‥‥‥」 変な落とし穴にキレたらしい恋次は不気味なほどニンマリと笑って 「さっさと行けぇ!!」 胸倉を掴む一護の手を跳ね除けるとともに立ち上がって、店から一護を追い出した。 食事も半ばに逃げ出した一護は店の入り口を振り返ってガラスの向こうで席に座り直している友人に唇だけでサンキュ、と礼を言った。 右手に握りこんだキーの存在を確かめて、友人が大切にしている自慢の愛車に跨る。駐車場にバイクはそれ一台だったし、何しろ彼の趣味だかド派手だったので探すのに少しも苦労はいらない。ヘルメットを被ってエンジンを噴かす。確かに免許は持っていなかったがそれはこの国でのことだ。日本での免許は取っている。要は警察に捕まるようなヘマをやらかさなければいいのだ。最後にもう一度覗いた窓の向こうで恋次が敬礼の真似事のように目の上へ掲げた片手で何か払うような仕草で挨拶したのを見とめて、一護も片手を上げて応えるとそのままハンドルを回転させバイクを発進させた。身体に直接響くエンジンの唸りも、久しぶりに乗る風も微塵の迷いさえ吹き飛ばしていくようだった。 NEXT |