相続人 第二部 7






 目が覚めた時そこは己の部屋だった。まだ自身の物と馴染んではいなかったが、自分に与えられていた部屋だった。
 奇妙なだるさがあった。体を起こせば寝すぎた後特有の頭痛がした。開ききらない目を瞬かせて部屋を見渡せばベッドの側に見慣れない器具とその際擦れた首にシャツを着ていることと汗を掻いていることに気付いた。感じる不快は額に張りつく前髪からもきていたらしい。掻き揚げたとき掌を濡らした汗と、額に塗りつけられた体温がまた不快だった。
 何か‥酷く眠り続けていたように思う。昨日の晩のことが思い出せない。昨日の昼は何をして、昨日の朝は何をした?頭を抱えて蹲れば目蓋の裏で白い光がスパークした。驚いて顔を離す。今のは?思い出せそうなのに思い出せないもどかしさからじっと真白なシーツの一点を凝視した。見つめていればそこに文字が浮かび上がるとでもいうように。その時には既に室内に踏み入れていた存在を彼は知らなかった。
『お早うございます日番谷さん。あなた、飛行機事故で長く眠っていらしたのですよ。目を覚まされてなによりです』
 あぁそうだ、と男はぼんやりと霞が晴れていくのを感じる。離陸する飛行機の腹の下の押し付けるような感覚、機体が安定するときの奇妙な安堵感、窓の下にみた真白の雲とその狭間から覗く灰色のビル群と群青色の海。針を蒔いた様に波が光っていた。
『俺は‥助かったのか‥?』
 重い頭を抱え直しながら髪を絞って呻いた彼はそれにより記憶を搾り出そうとしているようだった。
 無感情に見下ろす蜜色の眼は応えた。
『お話しましょう。ひとつずつ、ゆっくりと。なにしろあなたは7年もの間眠っていらっしゃったのですから』




「浦原。あいつは誰だ」
 男の声に浦原はきょとりとおどけた様な顔をした。それからさも当然のように男の問いに答えた。
「申し上げましたでしょう。お客様ですよ」
 西側のこの廊下では夕暮れの陽が斜めに差し入り、それが規則正しく置くまで続いている。それらの間の影の1つに男は佇み浦原に声をかけたのだ。そんな浦原の応答に男は視線を鋭くしながら影の中から歩み出た。白銀の色素の薄い髪が夕陽の色に染まっている。濃い影がその表情をいっそう物騒なものに見せた。静かなだけに凄みのある。しかしそれとて浦原にはなんの効力も発揮できていないようだ。
 男は浦原を待っていたのだろうか。それとも部屋でじっとしていられなかったのか。くすりと口元を掠めた笑みを浦原は御しきれず、男にまた強く睨まれた。
 男は気付いているだろう。なにしろ聡明も聡明。一を知れば十も百も知るような天才と呼ばれる類の人間だ。あの男が残したこの世に残る最後にしてたった一つの種だ。
「黒埼一護様は日本からの留学生ですよ。ここで衣食住の世話を」
「じいさんの言いつけか」
「はい」
 そうか、と男はそっぽを向いた。眉間は未だ苛々と感情を変えていない。聞くべき質問を選んでいるのだろう。
「何か、彼について気になることでも?」
「‥‥‥日本人、と云ったな」
「はい」
「‥いや、なんでもない」
 結局彼の質問はそれだけで、部屋へ戻るのだろう背中に浦原は夕食はどういたしましょうかと離れた距離の分だけ声を大にして問うた。振り返らないまま男ーー冬獅郎ーーは、いらない、と応えた。
 日番谷冬獅郎、彼はこの3日というものずっと考え続けている。浦原に渡された引継ぎの業務へ目を通しながらもずっと。考え続けてそれ以外への思考、例えば食事だとか服だとか睡眠だとか、当たり前の日常生活が疎かになるほどに。彼はずっと不可解に思っている。7年ぶりに目覚めたという割りにこの身体は難なく己の意思に従い動く。さすがに起き上がるときには肉が軋んだが、それもすぐに解れてしまった。
 そして奇妙な既視感だ。あの青年を見たときにも起こった。憶えのあるようにその顔を久しぶりだと、何故か、思ったのだ。屋敷の中も同様である。壁の絵画や調度品に変わったところは見られなかったけれど何か違和感を覚える。それは年月の所為だといわれればそれまでだが、彼は自分がこうしてそれらを眺めるよりも前に、色の褪せたそれらを、見ていたように思えてならないのだ。
 自然、早くなった足取りに、越えて行く品々のスピードの変化に彼は気付かない。
 耳の奥で誰かが何かを喋り続けているようだった。








 冬獅郎、と呼ぶ声に彼が応えないのは恒例となった。例え振り返ったとしてもその先で呼んだ本人がまた怒ったような表情をしているから、どの道彼らの間に和やかなムードが流れることはないだろう。やれやれ、と冬獅郎の机に茶を置いた浦原は愉しむ様に肩を竦めて、それではと冬獅郎の部屋から退散した。
 朝、冬獅郎は一護よりも早く起き出し、一護が食堂へ着くころにはその日の新聞を広げ食後のコーヒーを飲んでいる。一護がその前の席につき、食事を始めるころには席を立ち自室に戻る。その間彼らの間に会話はない。冬獅郎が頑なに一護の存在を無視しようとしているためと、一護がそれをじっと、窺うためである。朝っぱらから緊迫気味の空気にも浦原はにこにこと給仕する。好戦的な面が前へ表れている一護の様子を愉しんでいるのかもしれない。
 冬獅郎は午前、午後と規則正しく生活する。決めた時間に仕事をし、決めた時間に休憩する。それを一護も把握して、だから一護が冬獅郎の部屋へ押しかけるのは彼が午後の休憩に入るときだった。彼の時計はいまや浦原で、生活空間は専らリビングだった。浦原が冬獅郎へ茶を運ぶとき、一緒について行くのである。トレイに載せた食器が微かな音をたてる廊下を共に歩きながら浦原と一護の間で交わされる会話は当たり障りのないものだった。傍目には仲の良い二人に見えただろうが、浦原は一護が自分に話題を振り、そうしてまた浦原から返される言葉に応えながらその実別のところへ思考を飛ばしているのに気付いている。一護がそう器用でないということもあるのだが。時折一護は冬獅郎のことを口に上らせる。彼の感想を聞く限り、やはりといおうかまだ親しいと云える域には達していないようだ。それは目に見える彼らの様子からでも明らかであったが浦原はあるいはとも考えている。何をきっかけに道が開けるか、道を開くか分からない彼だから面白い。正直一護がいない3日間は物足りなかった。冬獅郎は冬獅郎で急速に”彼”へ戻っていく変化を見るのは楽しめたがやはり刺激が足りない。こうして目の前をちょろちょろ動く存在がいなくてはつまらないと、一護のことを動物か何かのようにみている浦原は失礼以外の何者でもないだろうけれど、焦点がそこへ定まることのない一護が気付くことはなかった。一護は今も視線は廊下の先を眺めながら宙の一点を見つめている。否、見ているとみせかけて思考しているのか。眉間の皺からさえ幼い表情の抜け切らない一護を横目にちらと窺って、浦原は楽しげに口元を綻ばせた。
 カップの置かれた右手側とは逆の、冬獅郎の左腕の側に一護は寄りかかった。銀の髪の先しか見えない深い背凭れに彼は身を沈めて目蓋を閉じている。疲れた眼を休めているのだろう。それを見下ろしながら一護は手をつけられないまま湯気を立ち昇らせている紅茶の表面をみた。それからその側に広げられている書類。そこに羅列する文字を読むことはできても解読することはできない。だから彼も平気で放置しているのだろうけれど。一護は踵にあたる最下段の引き出しを軽く蹴って机の淵に押し付けていた掌を外し、胸の前で組んだ。こうしてここくるのはいいがいつも最初の言葉に詰まる。詰まるのは初めだけではないのだけれど。
「なぁ‥冬獅郎」
 初め、一護が彼のことをそう呼んだ時、彼はあからさまに眉を顰めた。馴れ馴れしい、と難詰するように。それでもめげずに呼び続ける一護に今では彼も諦めたのか厳しい表情は崩さないまでも黙認している。
 次の言葉が出てこなくて、いつもの通りの気まずさに一護はあーとかうーとか唸りながらがしがしと頭を掻く。それでいいアイデアが出るわけでもないが、一護にとってこの場合の沈黙は肌を刺されるようなものだった。ちくちくと、痛くはないが煩わしい。払ってしまわなければすっきりしないから何かしら動作を繰り返すのだ。思い切り邪魔者だと男からかもし出される険呑な空気にはたじろぐことがないというのに。
 ひとしきり逡巡したらしい一護は腕組みをした片手は残し、髪を掻き乱していた手で頭を抱えるようにして自分の入ってきたドアへ視点を落ち着かせると口を開いた。
「なんでお前俺のこと見てくんねぇの?」
 重厚な扉と見事な細工の施されたノブを見つめる一護に傍らの男の様子は見えない。身じろいだ気配さえ窺えないから彼は何の反応も示していないだろうか。ただじっと目を閉じて、時間が過ぎるのを待っているのだろうか。
 何故またこうも嫌われたかなぁと一護は不思議でならない。それは‥、それは確かに”彼”との初対面は良いものはいえないだろう。彼にとってみれば初対面の人間に奇妙なものでも見るような目で見られ、無遠慮に名を呼ばれたのだ。そりゃ不愉快だ。理解できる。が、
 一護は下唇に握った右手の、人差し指の第二間接を押し当てて言う。左腕が胃を圧迫するのは無意識だろう。
「同じ屋根の下に住んでんだからさ、仲良くしたっていいじゃねぇか。それに、お前部屋に閉じこもりきりで全然外に出ねぇだろ。顔色悪すぎてすげぇ心配。またいつぶっ倒れてもおかしくねぇって。たまには仕事休んで庭にも出てみればどうだよ。」
 言葉は違えどそれは一護が彼を訪れるたびに言っていることだった。そうしてそれに答えないのも男の常であった。
 不意に傍らの空気が動く気配を感じて一護は目を向けた。そこに幾許かの期待があったのだけれどこの日もそれは報われないようだ。
 冬獅郎はティーカップへ手を伸ばし、一口赤茶の液体を口に含むと静かに皿の上へ戻し、今度はペンを手に取った。一護の存在など全く無視して彼は自分の時間に戻ったらしい。
 その集中力は見上げたものだけれど‥、と一護は思う。
 その集中力は見上げたものだけれど、コミュニケーションの欠け具合もいっそ尊敬するくらいだ。
 感嘆するような溜息を落として一護は、落胆に重い身体を起こして冬獅郎の部屋を後にした。
 徹底的に自分の存在をないものとする男に、己の知る冬獅郎の影を見出すことは難しかった。
 出会った当初、”彼”もまた今の彼のように無感動な表情(かお)をしていたものだがそれでも目を合わせはした。幼い容姿だったときの彼は単純に感情が欠如していただけで一護への否定はなかったのだ。
 それが、彼はどうだ。意図して己を自分の生活空間から排除しようとしている。目立って行動に出ないのは彼の不精か、浦原という他人への体面か、一護へのあてつけか――完全な存在の無視はどんな否定の言葉よりも強力だ――視界にさえ入れまいとするような男の態度に何度その胸倉を掴みあげてやろうと思ったことか知れない。それをしないのは寸前で彼の戸惑いを感じ取るからだろう。一護が勝手にそう思っていることではあるが、男は確かに一護に対して何かしら行動を躊躇っているように見える。素振りがそうと知らせたわけではない。浦原に確かめてみもしたが、あの執事は首を傾げるばかりで要領を得ない。それがどこまで本当かは知らないが。
 だから今のところ彼の不可解な態度に気付いているのは一護だけということなのだ。そうであるから一護は男への接触を諦めない。
 次に会うのは、夕食の席だ。またあの沈黙の中気まずい食事をするのかと思うと胃のもたれる思いがする。




 一人残った部屋で男はペンを動かしながら先ほどの青年の言葉を反芻していた。
(『また』、倒れたら‥)
 彼の前で倒れたことなど一度としてない。どころか一日に(まともに)顔を合わせることさえ幾度とさえないのだ。自身の記憶の限りでも己が倒れたという事実はなかった。ならば彼の誤りか?言葉が先走ったのだろうか?
(いや‥違う‥)
 ‥気がする、という曖昧な予想は彼の信じるものではなかった。彼は己の直感を大事にはしていたがそれはもっと、理論を導き出す時や経営のうえでの外交に際したものの場合だけだった。極々個人的な、なんの利益にもならないような一個人に対する感情の揺れを、気紛れを、彼は信頼してはいなかった。けれど、
 ペンの動きが澱む。午後の白い光に照らされた紙面に橙色が滲んだ気がした。瞬きをし、それを払ってから彼はまた考える。手の動きは完全に止まる。陽に透度を増した翡翠はガラスの向こうの緑を写す。そこにあの青年の色はなかった。鮮やか過ぎるほどの彩は。
 不可解な事柄が積み重なっている。こんなことにかかずらわっている暇はないのに。必要も、ないのに‥。
 妙に気になる色だと思う。一度目に留めてしまえば離せないと分かるから、逃げるように目を伏せる。側に寄れば彼の芳香にさえその彩を見てしまうから息さえ殺す。それでも防げるものではないから、身体が意思に逆らわないよう押し留めなければならない。手が伸びて、彼に触れてしまえば何かが壊れてしまうような気がした。そんな不安も信じるに足るものではないはずなのだけれど、本能にも似てそれは冬獅郎の意識を律した。
 近づいてはならない。(どこまで?)
 それが己の意志であるはずで。鼓膜よりも内で急きたてる声はだから、たとえ逆のことを言っていたって従うべきものではないのだ。
 近づいてはならない。(どこまで?)(これ以上)(これ以上とは?)(今の状態のまま)(既に)(既に這入り込んで)(排除できない)(まだ間に合う)(彼を)(彼を)(近づけてはならない)(求めてはならない)
『坊や――――』
 びくり、と男の肩が撥ねた。瞬間心臓が冷えて、彼は水をかけられたように思った。
 女の声だ。覚えている。嘗て愛したただ一人。
「今も‥縛り続けるか‥」
 男は己の声を意識しなかった。知らず呟きに零れた声がどのような感情を含んだものか知れなかった。翡翠は空に過去を映していただろう。
 彼女に誓った何事かがあったように思うのだけれど、彼はそれを思い出せなかった。






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