相続人 第二部 8






冬獅郎との仲は進展しないまま時間ばかりが過ぎていく中、その日一護は久しぶりに温室を訪れた。今日は日番谷さんのところへ行かれないのですか?と浦原に尋ねられたが朝食を終えてふと庭へ目を転じた一護は無性に陽の下に出たくなったのだ。それでも冬獅郎のところへ行かないつもりではなかったから時間まで外にいる、と断って席を立ったその時ふと思いついてテーブルに手をついたまま浦原へ顔を向けた。
「あいつに持ってくお茶、さ。俺が持ってくことってできねぇかな?」
 その言葉に浦原も意外そうな顔をした。何を意外に思ったかと云えば、とっくに出ていてもいいアイデアを今の今まで彼もまた思いついていなかったからだろう。思いついていれば彼お得意の誘導で一護にそう仕向けることをしたはずである。
「そうですねぇ。いいじゃありませんか、宜しくお願いしますよ。それじゃあ時間になりましたらお呼びしますので。黒崎サンは温室の方へ?」
「あぁ、そこにいる。移動してもその周辺にいるよ」
 屋敷の中では携帯を持ち歩かない一護はそう云って庭へ出たのだった。
 一年を通して咲き誇る薔薇たちは春とはまた顔を替えていた。テッサイ、とかいうまだ片手で数えるほどしか顔を合わせたことはないが好感のもてる男がその容貌からは想像しにくい繊細な作業で彼らを美しく保っているのだと聞いた。
『先代の趣味で品種改良が重ねられているのですよ』
 そう教えてくれた浦原は懐かしそうに彼らを眺めていた。目で彼らを優しく愛でていた。それでまた浦原に対する印象を変えねばならず、一護はもうどうにでもなれと彼についての考察を放り出したのだった。見たままを信じる。その決心に基づいてそれは妥当なものだっただろう。市場には出回っていない容もいくつか交えて彼らは変わらず一護の目を慰めてくれた。
 中央のベンチに浅く腰かけて背凭れに寄りかかる。ドームのガラスの中で拡散した光が降り注ぐのを目を細めて眺めやり、肌を温めるそれに息を吐く。やはり、この場所は安らげる。ただひとつ、傍らにあった熱のなくなったことが寂しさを覚えさせるけれど。
 少年の冬獅郎を一護は未だ忘れることができない。彼は何処にいってしまったのだろう。今の彼の何処かに彼は残っているだろうか。残っているならば‥
 たとえ同一人物だと頭で理解していても名残惜しさを感じずにはいられないのだ。
(あぁ‥これも‥)
 何時だか浦原がいっていた『親の気持ち』というやつかと思えば可笑しくなった。己の庇護を(彼の場合元より必要としてはいなかっただろうが)離れた存在が一人で立っている姿をみるのは通常の親の場合誇らしく思うものだろうに。
 一護の子供は親の年齢さえ超えてしまったのだ。
(27歳って‥詐欺じゃね?)
 満腹感も手伝って眠気の差した一護はベンチへ横になり、暖かな陽の注ぐ中で目を閉じれば緩やかに眠りへと落ちていった。
 外界へ意識が繋がったとき、肌が冷たいなと思った。影がかかっている。空が曇ったのだろうか。しかしスウェットは温められていて、ひやりと冷えた空気が触れるのは腹においているとしれる自分の右手の甲と顔だけで。だから誰か、そう、浦原が自分を呼びに来たのだと一護は目蓋を持ち上げた。
 そうして瞠目した。
「‥‥とう、しろう‥?」
 見下ろす陰被る翡翠の深さに不安を覚えたのは何故だろう。生唾の滑った感触の残った喉の粘膜が気持悪いと思った。彼の頭の後ろにある太陽で、自分が目をうたた寝を始めてからそう時間が経っていないことを麻痺のためだか嫌に冷静な頭が判断した。
「‥したんだ?」
 どうしたんだ、と訊ねたかった一護の声は彼自身戸惑うほどに弱かった。意表を突かれて驚いているからだと、一護は身を起そうとして出来ない。肘が微か動いた程度で一護はベンチに背が貼り付いたように冬獅郎を見上げるしかなかった。
「お前を見ていると‥」
 唇の動きを見ていなければそれが彼のものだと知れなかっただろう。微かすぎる呟きに一護が問い返すように唇を開くと彼は少しだけ声量を増して言った。そうしてそれは一護を困惑させるものだった。
「お前を見ていると、苛々する」
 明らかな不快をその時、否、憎しみを彼は眼差しに込めて、一護は戦慄した。背が冷えて、太陽の存在さえ忘れるかと思えた。歪んだ眼は引き絞られた眉は、憎しみを顕わにする瞳は己だけを映して。
 面詰するその理由が分からないから一護は何かの間違いだと思った。間違いを訂正しようと口を開いてしかし、声を発っしたのは冬獅郎の方が早かった。
「抑え切れない‥こんなこと‥認められるはずが‥」
 憎しみに歪んでいた眼が今度は哀しみに染まる。吊り上がっていた眉尻が下がれば途端に呪縛が解けた。視線を移動させた一護は彼の拳が震えているのを見た。
「冬獅郎‥?」
 恐ろしさは霧消して、不思議な心地で再び彼を見上げた一護の口からは極自然に彼の名前が滑り出た。冬獅郎の身体が傾いで、倒れこむのかと思ったが踏みとどまった彼に錯覚だったかと胸を撫で下ろす。そして少し残念だと思った自分に首を傾げる。抱きとめようと知らず彼の両手は用意していた。
「どう‥したんだ‥?」
 まるで野生の動物にそうするように、一護は彼が逃げてしまわないよう慎重に身体を起こして、距離の狭まった顔を見上げる。
「冬獅郎?何て顔してんだよ‥」
 思ってもみなかった。この男が自分に弱い一面を見せることなど。だけれど男のその表情を一護は見たことはあったのだ。今ほどぎりぎりの、泣き出しそうなほどまではなかったけれど、縋るような表情を同じ顔から見せられたことがある。
(冬獅郎‥)
 思い出したのは少年の彼であり、夜、ベッドの中で擦り寄ってきた小さな身体だった。
(同じだ‥)
 彼の中に”彼”はいて、彼こそ”彼”なのだ。
「冬獅郎」
 抱き締めようと持ち上げた腕を、けれど叩き落された。
 呆然としたのは両者とも同じで、先に反応したのは冬獅郎だった。
 不可解な自分の行動に戸惑うように、瞳を泳がせた後彼は踵を返しその場を去っていった。
 残された一護は呆然としたままその背を見送り。閉じたガラス戸にその影を捕らえ続けることが出来なくなると叩かれた掌に目を落とした。じんじんと痺れる痛みを伝える皮膚は赤くなって、妙に泣きたくなった。




 廊下を足早に駆け抜け、階段も荒々しく上った彼は自室に行き着くと叩き割らんばかりにドアを叩き付け錠を下ろした。荒い息を吐きながら倒れこむように扉に凭れた彼はごつりと後頭部を艶やかに光沢をはなつ飴色の木肌に押し付けると足が萎えたようにその場に座り込んだ。
(何を‥してるんだ‥)
 理解できなかった。彼は自分自身の行動は、言葉は、彼の理解の範疇を超えていた。
(何故あの場所に?)
 突然、行きたくなったのだろう。そして何故そのまま足を運んだのだろう。ほぼ無意識だった。
(何故あいつがいるんだ‥)
 いるとは思わなかった。否、知っていたかもしれない。知っていたから行ったのかも知れない。
 彼を、求めて
(なんなんだ‥っ!!)
 と力任せに背後の扉を殴りつければ存外大きな音を立て鼓膜を圧迫した。それでも平常心は戻らずに冬獅郎は頭を両腕に挟み込むようにして抱えた。
(あの感覚は‥っ!?あの感情は‥っ!?あの‥っ!!)
 悦びとも云えた憎しみとも云えた畏れとも云えた哀しみとも云えた
 判別できないそれらが混ざっているようでもあったし、結局のところただひとつの感情のようでもあった。
(こんな想いを、俺は、知らない)
 知らないはずだ。
 自信がないのは‥
「‥っぐ‥‥‥っ!!」
 胃が引っ繰り返ったような衝動に口を押さえて、せりあがったそれを飲み下す。口から話した掌を信じられないといった目で見る彼の唇から唾液がぱたりと絨毯へ落ちた。正常な呼吸はまだ戻らない。
 自信がないのは‥
 それでも早くに平静を取り戻し始めた理性は思う。
 穴、が――――
 存在するはずの記憶が欠如しているからだと。
(埋めなければ‥けれど)
 埋めてはならない‥
 脳に直接訴えかける声は己のものだと漸く理解する。
 ざわざわごそごそと脳を擽って、快感かもしれない不快感に頭皮を掻き毟るように指の腹で絞った。じゃりと髪の擦れる音がした。冬獅郎はぼんやりと思う。
(触ってしまった‥)
 一瞬の、弾くだけの接触だったけれど
(近づいてしまった‥)
 自ら、彼の下へ赴いてしまった。
 この引力は!?
(気持ちが悪い)
 嗚咽を上げそうになって彼は、やはりその故も解らず、足場が崩れていくような浮遊感と脳が揺さぶられるような感覚の麻痺に遠のいていく意識を掴む努力さえ出来なかった。




 その光景に、彼はそれが夢だと察した。霞がかったような五感と、それでいて明瞭(はっきり)とした意識。そうして彼はそれが、自分の意識の見えざる深層が紡いだ物語だと察した。
「−−−−」
 女が手を振っている。薄い、陽の光に溶けてしまいそうな金色の髪を背中の半ばあたりまで垂らして女は誰かの名を呼んで手を振っている。彼女が立っているのは見知った庭園の芝生だった。よく知っている。今、彼が住まっている屋敷の、そこは‥
 彼女の遠くにバラ園の屋根が
 それで、あぁ彼女は己の母だと、冬獅郎は察したのだ。
 それなら彼女が呼んでいる名前は彼女の恋人のものだろう。彼女は若く、子を持っている歳には見えなかったから。彼女は呼んでいる。幸せそうだ。その笑顔と同じものを己(おれ)が見ることはなかったけれど、夢の中で彼女は幸福に満たされたように、幸福が体現したように笑っている。薔薇色に頬を染めて少女から女へと移行する期間の中で咲っている。
 物語だ‥。
 見知らぬ作者が文字の中に描き出した絵空事を己は観ている。この空想を己はどこから引き出したのか?思考を始めて彼は、意識が覚醒へ向かっていることに気付いた。光が遠のく。暖かな日差しが冷えていく。中心にあいた穴に吸い込まれるようにしてそれが消えてなくなったとき、冬獅郎は暗い部屋に月の慰みが差し込んでいるのを見た。己の机の正面にある窓だ。月それ自体は見えないけれど、今夜の天(そら)は雲ひとつないのだろう。白夜だ。
「母さん‥‥」
 許してくれ‥
 その笑顔を汚した俺を。
 蒼白く、海の底のような部屋の中で彼は、波に揺蕩うように再び、目を閉じた。が、
 急に背を引かれ仰向けに倒れた。と思えばそれは扉が外側から開かれたからで、当然ノブを引いた人物が存在するわけで、
 彼等は暫し、瞠目して見詰め合った。
「あ‥と、夕食に‥呼びに来たんだけど鍵掛かってるし‥呼んでも返事ねぇし‥寝てんのかとも思ったんだけどお前、様子が‥変だったから‥」
 浦原さんに鍵を借りてきたと言い訳のように説明したのは一護だった。
 開けたドアからいきなり人間が転がってくればそれは驚いただろう。吃驚の表情が直らないままそう途切れ途切れに言を紡いだ青年に冬獅郎もまた呆けたような顔のまま――恐らく意識しないまま――呟いた。
「なんで‥」
「え?だから‥っ、し、心配で‥」
 焦る表情に変わった貌は廊下の照明に輪郭が潤み、薄い陰を被って己を見下ろしている。今の今まで夜の中にいると知覚していたはずの冬獅郎は橙色の明りを認めて初めて夜だと認識したような気がした。冷たかった海の底から引き摺り上げられた魚のようだった。
(手を‥叩いただろう‥?)
 あれは拒絶の表現ではないのかと、それを受けていながら、それを与えた人間の元にのこのこ現れるなんて。
「‥‥っは」
 込み上げたのは笑いと泪。呆れたのか喜んだのか、分からなかったがその衝動は抑え難く。冬獅郎は滲むそれを隠すように片手で目を覆い、片手は腹を押さえた。衝動は腹から来たためである。
「冬獅郎?おい‥冬獅郎‥っ」
 慌てる彼の声がする。いきなり転がってきた人間がそのまま笑い出したのだ。奇妙だろう。それを察しながらも止められなくて冬獅郎は喉を鳴らす。眦を押さえる指はそれを溢すことはなかったけれど、愉快の波が大人しくなり、顔から手を外すと戸惑っていたらしい青年がまた瞠目するのを見た。
「泣いて‥?」
 濡れた眼にも、穏やかに微笑む貌にも初めて出会う彼は対応のしようを知らなくて。絨毯の上に寝転がるその端整な貌が慈しむように自分へと向けて(それを彼は信じられなかった)目を細めた後、のそりと起き上がるのを見ていただけだった。それからノブを持ったままだった右手に男の左手が重なって、やんわりと手を外される。目の前に立つ人物が数時間前己の前に現れた人間と同一人物だと、信じるには頭が飽和しすぎていた。
「夕食はいらない‥ありがとう」
 己へ向けられている穏やかな目の周りは拭われないまま照明の明りに濡れていて、一護はそれに目を奪われたまま、扉がゆっくりと閉まるのを許した。
「‥すまない」
 と、扉が合わさる直前、覗いた白い頬がそう云ったのを一護は意識の片隅で聞いていた。
 その後暫くその場に立ち尽くしていた一護は漸く我に返るとふらふらと覚束ない足取りで食堂へ向かい、浦原に心配されながら食事を終えた。
 浦原の声の通り抜ける一護の頭では冬獅郎の穏やかに微笑む貌と最後の言葉が回っていた。
(『すまない』‥?)
 何が?
 軟さでも人は境界線を引けるのだ。それ以上立ち入ることの許されない絶対の境界を、一護は目の前で閉ざされた扉に見た。
 それでもあの瞳を忘れることは出来ない。今まで突き放してきた眼が内包するように柔らかくなった。
 右手へ目を落とす。食器は片付けられて、食後に何か飲まれますかという浦原の問いも聞こえてはいない。浦原は軽く嘆息するとその場を離れ、キッチンの方へ消えた。弾かれた皮膚の引き攣るような痛みは今も思い出すことが出来る。あの時向けられた怯えるような瞳。いつかの夜の、呆けた彼の顔が甦った。
(俺は、こうしてちゃいられない‥)
 けれど、どうすればいいのかも分からなかった。
 夜が更けていく‥。それがどうにも無力感を象徴するようで。右掌を握りこみ、宵の帳の落ちた外へ目を転じようと顔を上げれば側に立つ浦原に気付いた。くすりと笑って一護は訊いた。
「ホットミルクですか」
「はい」
 浦原の手にある湯気の立つマグカップを、一護は受け取った。






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