相続人 第二部 10







 冬獅郎の一護に対する態度は頑なに保たれた。あれ一度きり、一護は冬獅郎の安らいだ顔を見ることはなかった。だけれどまるっきりの変わらないというのでもない。殻は薄くなっている。相変わらず目を合わせるということはないのだけれど、一護は冬獅郎と同じ空間にいるとき彼が己を見ている、と視線を感じるようになった。振り返ればまるでこちらを見ていたなどという名残など微塵も見受けられないけれど、一護は彼がこちらを見ていたということを確信する。意図は分からないにしても歩み寄ろうとしているのかと嬉しくなる。
 冬獅郎の態度は変わらない。変わらないけれどあからさまに一護を拒絶する空気は無くなった。側に寄ることを許したようだ。
 冬獅郎の休憩に飲む茶は一護が運んでいる。扉をノックして入り、冬獅郎が作業をしている机の右側(そこを彼はいつも空けている)にソーサーを置けば彼はその手元だけを一瞥して筆を置く。椅子の背に身を沈め深く息を吐く。規則正しく。そのリズムは崩れない。それで、そのまま机に凭れて一言、二言冬獅郎が休憩する間一人で話す一護の声を聞いている。相槌を打つこともなく。目蓋は閉じているのか薄く開いているのか俯いた顔を見下ろす角度の一護からは窺えないが、彼がそれを許していることは知れた。窓から差し込む陽に彼の白銀は柔らかく、眦や頬に落ちる影は優しい。時折手を伸ばすティーカップが立てる微かな音も、程好く空気を揺らした。そうして空になったティーカップとティーポットとをトレイに載せて一護は帰っていくのだ。扉をくぐるとき、椅子の背にまるで余韻を味わうように一護が扉を閉めるときまで沈み込んだままの、白銀の先を振り返って。そんな日々が続いていた。だから、気付かなかったのだ。
 彼が耳傾けるのは、一護の語る言葉の内に自分の知るはずのない時間が織り込まれていないか探るためであり、 その度に想起される何者かの――それは恐らく己のものなのだろうけれど――不思議なほどにクリアな情景が確かなものか噛み砕くためであるということを。
 だから一護は気付かなかったのだ。変わらぬ一定の生活の中で、薄弱にも見える彼の眼差しの裏で
 綿が水を吸うようにじわじわと、緩慢に、歪なパズルは完成されつつあるということに。





 夕暮れ時、一護は薔薇に水をやっていた。もともとの花弁の色に朱が重なり、それでなくとも広い温室、褪せてゆく色の中にいるのは日本人の習性を擽った。独りを好む一護にその空間は昼の時とは違う安らぎを与えた。
「お前はいつもここにいるな」
「冬獅郎‥」
 顔を上げれば入り口に冬獅郎が立っていた。後ろ手に扉を閉めて、一護の方へと歩み寄る。彼の方から声を掛けられるなんていつ振りだろうと至極久しぶりに思えて、一護は頬が緩んだ。
「そうか?大概はお前の部屋にいるぜ?」
 相手してもらえないけど、と戯れに皮肉って、一護は細い口を伸ばす如雨露を傾け水遣りを再開した。温室は暖かい。中には冬に咲く薔薇もあるが、ここでは皆一定の温度の中で花弁を広げる。可憐な口を覗かせる。温室には水路が通っていた。通路に飛び石を敷き、それを抱き込むように水が流れるようにしたものだが、それをするようになったのは一護が薔薇の世話をするようになってからだった。それまでは、温室で寛ぐ者などいなかったから無用だったのだと、浦原が一護に教えた。水の流れる音を聞きながらまどろむのも気持ちがいいでしょうと、通路に敷かれた飛び石の意味を教えた。
「知っているか?黒崎」
「へ?」
「この温室、レンガに仕掛けがあるんだ」
 云って、冬獅郎はそのためにある飛び石を無視して水の中へ踏み入れた。
「おい‥っ、濡れるぞ」
 温室の中は暖かろうと水は冷たいし外に出れば寒風だ。足首から下とはいっても辛かろう。既に水の中へ進み、あまつさえ屈みこんだ片膝に一護は慌てた。本格的に水遊びでもするつもりか。
「冬獅郎、風邪を‥っ」
 かこ、とレンガの擦れる音と、空間が現れた空洞の反響があった。なにか、動かしたらしいとは、冬獅郎の腕の曲げ方から察せられ、一護はそこを覗き込むべく冬獅郎の側へ寄った、3歩手前で、ちらと一護を振り返った冬獅郎が取り出したらしいそれを放り寄こした。
「ぉ、と」
 夕陽の色に紛れながら手の内へ転がりこんだそれを両手で受け止めて、一護は紅く滑らかなそれに目を凝らす。
「これは?」
「ルビー」
 面白いだろう、と振り向かないまま立ち上がった冬獅郎の声は笑っているようであった。膝を濡らした水がパンツを重い色に染めていくのが陰の中でも窺えた。彼の脚へ張り付いていくその様を眺めていた一護は、冬獅郎の応えた言葉を確かくは認識していないようだった。
「先代の、先々代の、かな。まだ昔のものかもしれないが、この屋の当主は中々剛胆というか、味なことをする。薔薇の色に合わせて、石をその下に埋め込んでるんだ。放置しているといってもいいか。見つけてくださいといわんばかりに、不自然にレンガの色を変えてな」
「石‥、宝石を?」
「本物だぜ?時価数億ってのもあるんじゃないか?」
「まさかそれは」
 本物か、と訊こうとした先手をとられ、時価数億との説明にありえないだろうと苦笑が漏れた。どれだけ酔狂な人間がいるんだ。
「確かめればいいさ。外には鑑定してくれる人間は店を構えて待ってるぜ。なんなら‥、日本に帰って信頼できる同族の鑑定士に頼めばいい」
 気にかかる口ぶりだった。
「お前‥、なんか、俺にいいたいことあんのか?」
 考え込むような沈黙があった。温室の外、紅に照らされる屋敷を眺めているようでもある男の顔は、一護の位置からは見えない。微動だにしない彼に己の声が聞こえているかどうかも訝った。
「それ持って、日本へ帰ったらどうだ?」
「―――っ、どういう意味だよ」
「そういう意味だ」
「分かんねぇよ‥っ」
 振り向かせようと肩を掴んだが、長身は僅か揺らいだだけで男の顔は外に向けられるままだった。そのことが一護の不安を掻き立てる。すまないと謝った、疲れたように笑った男の表情(かお)を思い出す。男の感情の変動は激しく、一護には捕らえられない。
「お前、大学はどうしてるんだ?」
「‥、今は、休学してると‥」
 浦原から説明はされていないのだろうか。訝るが、特に説明をされていないのは同じ身である一護はそれを男に問うことはしなかった。
「休学して、何をしている?執事の見習いか?残念だが、俺はお前のような召使は要らんぞ」
 要らない。その言葉は重く、その割にはあっさりと一護の胸に落ちた。
「だよな‥。でも俺はお前に雇われたくてここにいるんじゃねぇ、よ!」
 いい様、力任せに肩を引いた。男を引き倒すことさえ考えた力だったが、予想とは裏腹に身体が向き合っただけで男は平然と立っていた。表情は、驚いていたが。
「人の顔見ずに話すってのは卑怯じゃねぇのか?お前らしくもねぇ」
 きりと目を見据えて一護は云ったが、途端、男の眉間に刻まれた陰が戸惑っているではなく懊悩のそれのようで当惑した。しかしまた直ぐに逸らされた視軸に奔った緊張は解け、同時に不通の寂しさを覚える。合わない視線を見詰めて一護は唇を開く。意識は男の視線に注がれて、口が動くのは独り言のようでもあった。
「俺は‥約束したんだ」
「約束?誰に」
 冬獅郎の瞳が動いたように見えたが、それが一護を映したかは定かでなかった。
「勝手に、ひとりで。でも決めた‥
 お前の傍から離れねぇって」
「何のために?」
 冬獅郎が振り向く。真っ直ぐに見詰められ、一護はたじろいだ。あまりに強い眼差しはこれまで見たことのないものだったからだ。見たことのない?否、あるだろう。あるだろう‥?
(思い出すな)
 引き摺っている己も情けないけれど、最近になって漸く分かったこともある。己に巣食ったコレは恐怖ではなく
(不安なんだ‥。お前を失くすことが)
「何のためにだ?黒崎」
 繰り返され、一護は目を瞬いた。奪われていた視線を取り戻すが、舌は縺れた。
「なんの、ため‥って」
 言えたはずのことが言えない。まるでそれが口にするには恥かしいことだと漸く気付いたように。
「何故、俺の傍にいると云う?」
 黒崎。冬獅郎の口はそう呼んだが、一護にはいつか彼が呼んだように聞こえた。
『一護‥』
「それは‥お前が‥」
 お前が?望んだ?違う、冬獅郎が望んだんじゃない、俺が望んだんだ。俺が、冬獅郎の傍に居たいと。側にいて、冬獅郎の‥『冬獅郎』の
 『冬獅郎』が見詰めている。緑の瞳は今、朱の陰が差し深みを増している。吸い込まれそうなそれに、早く答えなければと、何か、なんでもいいから早く答えなければ焦るのに
「お前が‥」
 緑の瞳が何かを待っているように見えたのは気のせいだったろうか。
 耐え切れず絡み合った視線を断って紅に染まる白薔薇に落とした。
「俺はお前の傍にいる。絶対だ」
 絶対だ‥
(居たいんだ‥)
 冬獅郎を頼むと云った浦原を思い出す。心を強く持っているつもりでも、諦めたくなったことはあった。己で決めた己の心を疑いそうになったこともあった。その度に浦原の言葉を思い出しては、自分がこの場所にいることを肯定できた。今もそうだ。だけれど、今度はただ思い起こしたというだけで、一護の行動を後押しするものではなかった。依頼でもなく、義務でもなく、ましてや責任でもない。
 居たい。傍に、居たい‥
 我儘に限り無く近いこの感情は
 失うことを、恐れたのは
(嘘だ‥)
 血が、急激に顔へ集束するのを覚えて一護は唇を覆った。奇怪しな声が上がりそうになる。
(嘘だ、嘘だ、嘘‥だ)
 そんな、嘘だ。なんで今頃。なんで今になって。
「黒崎?」
 どうした、と冬獅郎が一護の顔を覗きこんだ。覗き込まれた一護は慌てて口を覆っていた手を剥がすと顔を上げて、なんでもないというように手を振った。
「な、なんでもない!それより、その、あのー」
 訝しげに見詰めてくる視線が耐え難くて、一護は話題がないかと視線を走らせた。陽はさらに傾いていて、空は菫色に染まっている。と、屋敷に小さな灯があちらこちらに燈っている。
「あれは?」
 先の動転も忘れて訊ねれば、一護の視線を追った冬獅郎はあぁと頷いた。
「蝋燭だ。浦原だろうな、変なところでマメな男だ。おそらく屋敷中の窓に灯を灯すぞ」
 なんで、と訊きかけて思い至った。
「ハロウィン‥」
 去年、アパートの住人や悪友たちと騒いだ。近所の子供らがドアを叩いて、管理人のおばさんがクッキーをあげて‥、町中がハロウィンを祝った。
「それで朝からテッサイさんも楽しそうだったのか!」
 その時の気分を思い出したのか、急に元気になった一護は目を丸くした冬獅郎の手をとって出口に向かって歩き出した。
「行こうぜ!きっと色んなお菓子用意してるぜ?蝋燭点けんのも手伝わねぇと」
 うきうきと、一護の歩みの軽い。外に出れば「うぉっ、さびぃ」などと身を縮めるのも楽しそうで、冬獅郎は手を振り解くことも忘れたようだった。
 屋敷は温室の東にある。とうに陰に沈んだ芝生に足下は見えなかったが、廊下への入り口まで真っ直ぐに歩く。その途中で、小さな灯を見上げていた一護は思わぬところに灯を見つけて冬獅郎へ訊ねた。
「あそこに灯ってる灯、どこのだ?」
「どれ‥、あぁ、屋根裏部屋だ。今は物置になっていたと思うが‥、前当主の部屋の真上だったろう」
 あんな場所にまで蝋燭を飾るとは、本当にマメな男だなと、冬獅郎は呆れたように云う。ふぅんと相槌を打った一護は、しかしまぁいいやと冬獅郎を振り返って、またもや面食らった冬獅郎は足を止めそうになったが引く手に従って足を前へ出し続けた。
「この状況ってさ、久しぶりとお前と晩飯が食えるってことだよな?」
 しかもパーティーだよな?と悪戯気に笑う一護へ冬獅郎は
「二人っきりのパーティーで何が楽しいんだ?」
 と思わず、ごく自然に返していた。
 一護は楽しげな笑い声を転がす。その声に耳を傾けながら、冬獅郎はそれが心地好いと思った。記憶の底に沈む想いを、知らぬその形を教えるような声だと思った。ただ、廊下への入り口に足を掛けたとき、彼は呼ばれるように左手奥の廊下を見、しかし一護に手を引かれるままそれへ背を向けた。




 三角窓に灯された蝋燭の灯だけが闇を払う小さな部屋で、浦原は一枚の古写真を眺めていた。茶に褪せ、淵も擦り切れたポラロイド写真。そうして窓辺に置かれた飴色の古い机の上には、新しい写真が木箱の中から顔を覗かせている。彼は机の前に立ち、手に持った一枚を凝視していた。
 浦原は今は亡き親友の名をか細く呼んだ。






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