相続人 第二部 9 幼い頃、彼は母と小さな街の一角へ越してきた。幼い頃といってもその時彼はまだ乳飲み子で、だから彼は自分はそこで生まれたものと考えていた。 そうでないと知ったのは父親の不在を意識するようになってからだ。その集落はひとつの家族だった。親のいない子供たちが殆であり、彼らを育てていたのは集落の人間たちであったからである。自分の子供も違う子供も彼らに区別はなかった。そんな場所であった。 母親は5つの子に父は出稼ぎに行っていると云った。しかしどれだけ待っても父は帰ってこない。年が変わっても、靴のサイズが変わっても帰ってこない。やがて母は彼に、父は別の国にいるのだと云った。迎えにくると約束して、父は海を渡ったのだと。 語る母の穏やかさに、彼はそれ以上の追及をすまいと心に決めた。幼い友人たちからその手の話は聞いていたからである。父は死んだものと(そんなことを云えば母は悲しむから云わなかったけれど)解釈した。 母は美しかった。街の誰より美しかった。彼はそれを自慢に思っていたし、事実、彼女を心密かに恋い慕う者たちは多かった。 暖かな街、暖かな家庭で彼は育ったが、母との記憶は早くに途切れることとなる。 胸を患い、床に臥せるようになった。 待てども待てども現れない男を、彼女は待ち続けていた。彼が7つになろうというころである。少年となった彼でさえ、諦めようと彼女に何度言おうと思ったかしれない。やがて、母の様子が急変する。小さなアパートに二人は暮らしていた。寝室は別だったが、その頃彼は母の寝室にばかりいたような記憶がある。 荒れる母から目を離せなかったのだ。 昼間は隣近所の人間たちが面倒を見てくれたため、彼の生活にこれといった支障はなかったが夜ともなるとさすがに他人に頼ってばかりもいられない。時に扉の向こうで母と別の大人が格闘している音を聞いていたが、彼はそれを好とはしていなかった。母を愛した、母に愛された記憶が彼に責任を思わせたのである。 己を詰りながら、己に謝りながら、そうして己を見ようとしない、変わり果てた母の姿をそれでも彼は受け止めようと懸命だった。 あの頃、彼女は絶望し始めていたのだと、彼は何年も経った今考える。幼い頃はただ怖ろしかった。だけれども今ならば、待ち続ける苦役が女にとってどれほどのものか、なんとなくだが理解できた。 母は、待つことに疲れたのだ。 彼女のような一途な女でさえ希望を失うほどの年月は長く、長く。便りのひとつも遣さなかった男に漸く憎しみを覚えたのは、病に倒れ余命半年と診断されてそれでも執念か、2年もった彼女が死んだ後のことだった。彼が10の頃である。 ふ、と男は自分が眠っていたことに気付いた。頭を乗せていた頬杖が痺れている。冷えた空気に背筋が寒い。テーブルの上には夕食の残骸と、崩れてしまったファイルの山。頬杖ついた肘ともう片方の手とで押さえているのは読みかけのファイルだ。どうやらうたた寝をしていたらしい。電球は相変わらず古びた白色光をテーブルに落としている。 懐かしい夢を見ていた。懐かしい女性(ひと)を見た。陽だまりが似合っていた彼女はやがて陰の中へ逃げ込むようになっていった。それを追いかけた己を見た。窓からの風に飛んだか、書類は数枚を残し全て床へ散らばりあまり質は良くない絨毯を形成していた。男は椅子を引き、身を屈めるとそれらを拾っていく。7年分の資料は膨大で、どうやって持ち出したのか浦原はそれを冬獅郎の部屋へ運び入れていた。もともとこの屋敷にあったものかもしれない。あの男ーー祖父の書斎にでも。 冬獅郎がこの屋敷へ来たのは17の歳だ。その時になって彼は自分の人生に裏から働きかける存在があったことを知った。 12の年、一人の男が冬獅郎のアパートに現れた。大学から来たという、大学関係者というよりは企業人といった雰囲気の男は紺のスーツを着てダイニングのテーブルに祖母代わりの老女と向き合って座っていた。ドアを開けるなり飛び込んだ見知らぬ男の顔に少年である冬獅郎は驚いたものだ。 その頃彼は大学のことなど考えていなかった。大学どころか高校さえ行きたいとは思っていなかった。大人達の好意で学校に行かせてもらっている自分がこれ以上の我侭を言えるわけがないと考えていたし、正直学校に行く意味も理解できていなかった。早々に働きに出ることを望んでいた。それがある日自分のアパートへ帰ると隣に住む祖母がわりの老女がダイニングキッチンのテーブルに知らぬ男と向き合って座っていたのだ。(アパートの部屋はそのまま彼のものとなっていた。アパート全体が一つの家のようになっていたため住人達は殆ど鍵をかけない)老女は彼を振り返って言った。その時彼女の肩越しにみた男の顔を少年は不安をもって窺い見たことを覚えている。 『トウシロウ、こちら大学から来られた方だと仰るんだけどね、お前の入学を推薦したいと言っておられるんだよ』 『はぁ?何言ってんだ婆さん、俺まだ12だぜ』 『試験を受けてみないかと仰るんだよ。お前成績優秀らしいじゃないか。勉強のことなんてちっとも話さないから知らなかったよ』 少し拗ねたように彼女は唇を尖らせ、ついで皺だらけのその顔をさらにくしゃりと崩して咲った。 『これはチャンスだよ。お前が大学にいけるなんて夢のような話じゃないか』 『だけどここから大学なんて遠い。一番近いところでも電車で何時間掛かると思ってんだよ』 馬鹿らしいじゃねぇかと、バッグをテーブルの近くのソファへ投げながら彼は答えた。大学での勉強に対して彼の興味は一向にそそられなかった。教科書を開けば理解できてしまう彼にとって勉強とはつまらないものであり、働くことのほうが有意義だった。じっと自分を観察するように見つめてくる客の目も気に入らなかったためもある。 『寮に入ればいいじゃないか。こちらさんが用意してくださるそうだよ。なぁ、一応受けるだけ受けてみて、駄目だったら帰ってくればいい。トウシロウ、お前には可能性があるんだ。活かさなきゃいけないよ』 熱心な彼女に恩義もある彼はこれ以上強く断ることもできず、未だ一言も口を利いていない(彼女が話し続けたためであるが)男が何かしら流れを変える言葉を出してくれないかと見た。 『一度うちの大学を見学していただいて、それから考えてくださってもよろしいんじゃないでしょうか。トウシロウ君、学校の勉強に満足はしていないでしょう?うちなら君の興味を満たしてやれると思いますよ』 思っていたよりも柔らかい物腰だった。それで彼は警戒を和らげて男に答えた。 『それじゃあ‥見るだけ‥』 そうして訪れた街の、キャンパスの、研究室の、図書館の、その他様々な施設に彼は感動し、惹かれていく。小さな街から出たことのなかった彼は一生をその街で終えるのだと思っていた。未来(さき)への期待などもってはいなかった。それが大学へ入れと言われ、大きな街へ連れ出され、自分の前へ開かれた世界の広大さをみる。知りたいという欲求が頭を擡げ始める。 『君の頭脳を社会へ活かしてはみませんか。君のIQは見させていただきました。素晴らしいものだ。あの街に埋もれさせてしまうのは勿体無い』 ここでの生活はきっと面白いと断言する男に、大学の敷地を見下ろす広場に立ってそこを眺めていた彼は無意識のうちに頷いていたのだった。 そうして5年の月日が流れ、ある日所属する研究室の教授に呼ばれたかと思えばそこに待っていた男たちに一緒に来るよう命令された。低い物腰だったがあれは確かに命令だった。 あなたのお祖父様が待っている、と。 そうしてこの屋敷へやってきた彼は彼の祖父だという男と対面して、ある条件と引き換えに男の姓を継ぐことを了承したのだ。 (条件‥) 米神を刺した微かな痛みに一瞬間片目を眇め、書類を拾う手を止めた。とても奇妙な感覚だ。屈めた背を起こして月明りに繰り抜かれた己の影をぼんやりと眼に映した。 条件‥?それはどんなものだったか。 ――――たくはないか? 「‥っつ、」 (なんだ‥っ) 強くなったそれに米神を指で押した。だが治まらないそれはじくじくと酸のように頭部全体へ広がっていく。たまらず髪を掻き乱すようにして片手で頭を庇った。書類を拾い上げたままの手の中でぐしゃりと紙の潰れる音がした。 (条件‥それだ、穴だ。俺は何を引き換えにあの男と取引をした‥?) ――――りたくはないか? 貧しさの中で死んでいった狂った女。その女の父だという男に恨みを抱かない訳があったか? 否。葛藤はあったはずだ。その葛藤を打ち払うに足るだけの。迷いを払うに足るだけの何がーーーー ――――知りたくはないか? 何 を 鈍痛にまで退いた頭痛に押さえていた手を下ろした彼はゆっくりと椅子から床へ膝をついた。愕然と、己の頭に空いた記憶の穴に似た濃い己の影を、背にした椅子の影にすっぽりと隠されたそれを凝眸した。 (写真‥) 項に吹き付ける冷たい夜風は過ぎ行く夏と立ち代りに訪れる秋を教えた。 NEXT |