相続人 第二部 12







 思い出した、思い出した、思い出した、思い出した
 あの夜水を求めて眼を覚ましたことも、その時に覚えた違和感も、壊れた映写機のようにフリーズして跳んで早送りされる映像も
 あの夜一度目覚めた俺の
 凡ては俺の
「浦原!」
 玄関ホールへの角を曲がったとき、丁度リビングから出てくるところだったその男を呼んで、凶暴な表情の冬獅郎に特別驚くでもなく挨拶した胸倉を掴み上げた。
「どうなさいました?日番谷さん。随分切羽詰った後様子で」
「あの場所はどこだ!」
「は?」
「あの場所だ!俺が、作られた!‥‥っ、研究所だ!」
 す、と恍けていた浦原の目が細められた。
「思い出されたんですか?」
「吐け。何処だ」
「‥日番谷さん。貴方はただ一人の彼の子孫であり、貴方以外この家を継ぐものはいなかった。貴方が必要でした。貴方の血が、頭脳が、カリスマ性が」
「御託はいい!あの場所の住所を言え!」
 乱暴に揺さぶって冬獅郎は怒気を顕わに怒鳴りつける。けれど浦原は応える風もなく彼のペースを保ち続ける。諭そうとするようなその口調が、また冬獅郎の神経を逆撫でする。
「行ってどうされるというんです。あそこには何もない。行くだけ無駄ですよ」
「関係ない。俺は確かめなくちゃなんねぇ‥っ」
 食い殺さんと剥かれたような歯牙の合間から漏れる押し殺した声。浦原は眉を絞る。どうすれば彼を落ち着かせられるかと思案しているようだった。
「日番谷さん、死など夢のようなものです」
 だからそのブラックボックスには触れるなと、彼は云うけれど
「吐け!」
 締め上げる力にとうとう降参したというように眼を閉じ手を上げて
「ご存知のはずです。貴方は、そこから来られたのですから」
 言葉の終りを待たずに浦原を振り捨てた冬獅郎は玄関のドアを叩き付けるようにして開け放すとガレージの方角へ走っていった。よろめいた身体を立て直した浦原は襟を正しながら扉のところまで歩むと自動車のタイヤが砂利を掻いて中央の道路に現れるのを待った。



 玄関ホールに出た一護は開け放たれた扉から走る去る車の後姿を見て、それは冬獅郎が運転しているものだと直感した。たまらず追いかけようとしたが片足がホールから出ようとしたところで肩を掴まれた。
「浦原さん‥っ、あれは、あれは冬獅郎だろう!?あいついきなり奇怪しくなって‥っ、俺、あいつに何も言ってやれなくて‥、それでっ」
「黒崎さん、落ち着いて」
 黒崎サン黒崎サンと名前を呼び続けていた浦原の途端の強い声に一護は息をつめ、蜜色の瞳を見上げた。気付けば両肩を上から押さえられ、その手が先ほどの強い声とともに己を揺さぶったらしかった。
「彼は確かめなければならないことのために少しばかり留守にするだけのことです。貴方はここで待っていてあげてください」
「でも‥浦原さん、俺は何も知らない。あいつが帰って来ても、あいつがああなった理由も、これからあいつが確かめて来ることがなんなのかも、何も知らない。そんな俺があいつに何ができる?あいつの何を支えてやれる?こんな俺に‥あいつが何を吐き出せるっていうんだ!」
「知らないままの方が、慰めになる場合もあります。
 黒崎さん、貴方は知らないままでいてください。納得できないことでしょうが、今は。いずれ話すべきことならばそれは彼自身の口から伝えられるべきだ。
 黒崎さん‥」
 浦原の表情はこれまでに見たどれよりも一途だった。ひょうきんで人を騙した顔でも、同情で人を欺いた顔でも、威嚇で人を威圧した顔でもなく。その口元から常の笑みは消え、相手の心と通じ合おうとするように眉間には真摯な影が落ちている。
「彼を、待っていてあげてください」







 一台の黒塗りのベンツが民家も疎らな郊外の道を猛スピードで駆け抜けて行く。運転する青年は真っ直ぐに前を見つめていた。アクセルをいっぱいに踏み込んだ青年はそのスピードでありながら思考に耽っている。両端に飛び行く景色を意識の外で認識しながら。あの時から変わらない景色を認めながら。
 彼は未だ信じ切れてはいなかった。認めきれてはいなかった。それまで見ていた夢こそ現実で、今見ている全てこそ夢の世界なのだと誰かに証明して欲しかった。自分は今、悪い夢の中にいるのだと、早く目を覚まさせて欲しかった。その行為もまた許されていることではないのだけれど。
 ハンドルを握る手に力を籠める。あの日と同じようにガラスに薄く映る己の、あの日最後に見た貌と変わらないそれを睨みつけながら。
 目指した建物は林に囲まれた、外界からはよくよく見なければ見つけられない内部にあった。車を乗り捨て窓を蹴破って侵入したそこは真暗だった。彼は記憶を頼りに発電室を探し、電気を通したが稼動するのは自家発電機のみで、期待した明りは弱かった。それでも歩くには困らない程度の明りが確保できたことは幸いである。足元の壁に取り付けれられた蒼白い非常灯が両側から照らす廊下へ飛び出し、彼は建物の深部へと一目に駆けた。
 その扉に行き着く頃には軽く息が上がっていた。男は肩で息をしながら足を止めた。目の前には既に手動に切り替えられた自動扉が怪しげな引力でもって彼を誘っている。
 扉を見つめて男は寸刻逡巡した。何処をどう走ってここまで来たのか覚えていなかった。どの角を、いくつの角をどちらへ曲がったのか憶ていなかった。自分がどれだけの時間走っていたのかさえ覚えていなかった。ただ行き着いたここが己の求めていた場所だということだけが確かだった。
 右手を伸ばす。平らな扉の中心部にはレバーが内臓されていると知れる跡があった。それを引き出してノブ代わりに左右へ引いてやれば扉は口を開けるはずだ。冷たい金属の感覚に頭を覚ましながら、男はレバーを握る両手に力を篭めた。
 扉はすんなりと両側へ滑り、真暗な口腔が現れる。床にはめ込まれた照明の淡い光がかろうじて物の所在を教えた。
 中央に円柱型の巨大なガラスケース。
 あぁ、と男は嘆息した。あぁ、と萎えていく膝をそれでもそこに着くまではと堪えさせ、埃に曇るそれへ両手をつくとともに解放した。縋るように張り付いてガラスの天井を見上げる。
 そうだ、己はただ確かめたかった。
 この身体が真実ここより派生したものなのか。
 なんてことだと、最後の期待さえ砕かれて自嘲が込み上げる。
 否定するだけ無駄だった。だって己は知っていたのだ。
 くつくつと仰のいた喉が震える。引き上げた口端から犬歯の覗くのを自覚して、掌に吸い付くようなガラスの壁を両腕に抱えるように手を伸ばし、指をいっぱいに伸ばした。
「は‥っ、はははは、は‥!」
 なんてことをしてくれたんだ馬鹿野郎。
 込み上げる笑いをどうしようも出来なくて、泣きたくなる気分にますます男は仰け反った。
 己はこれを見たかった。
 見たくてけれど、恐れていた。真実など望んでいたようにして裏切ってくれることを願っていたのだ。
 無意識の逃避を戒められたようで、可笑しくてならない。
「ははは、は、はは‥っ」
 これでいい、そうだ、これでいい。
 俺は見た。確かめた。夢と片付けようとした曖昧な記憶もこれで現実となった。
 俺はここで作られた。
 ”仲間”を見た記憶はない。己はいつも一人だった。廃棄された”仲間”たちのことを考えるなら己はどうやら”成功体”だったらしい。それでも何人かは同時期、場所は違えどこの施設の中で暮らしていたはずだ。
 彼等はどうなった?処分されたのか?何故自分だけが残された。
 それを示すファイルは残されているのだろうか。時期から見て己があの屋敷に移る直前のことだろうから、もしかすると残されていないかもしれない。
 では、誰が知っている?
(浦原――――‥)
 あの男は知っているだろうか。あの男の唯一の親友、真実のほどは知れない男。
(なぜ‥こんなことを‥)
 それは祖父という男の仕業だろう。
 気違い染みた哂い声に正気の疲れが混ざれば、男はガラスに額をつけて、ずるずると床へ座り込んだ。
 見下ろす膝の間は真暗で、圧し掛かる翳は重く、全身が疲弊していた。
 女の声が甦る。






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