相続人 第二部 13 果たしてこれは本当に俺の過去だろうか。植えつけられた虚偽の情報ではないのだろうか。それでも彼はそれが自分でものであることを知っていた。細胞に染み付く感覚が己のものではないと、今更否定しようがなかった。こんなにも郷愁を掻きたてる嘘があるだろうか! もはや他人の記憶を覗き見ている感覚で男は覚めない頭にぼんやりと彼女の映像を映し出す。そうしていつかみた、少女のような可憐さで咲い手をふっていた幻想の彼女の夢を思い出す。 冬獅郎はあの時だけでなく、幾度か見た夢が事実ではなくとも遠からないものだと自信があった。彼は以前ひとつの調書を読んでいたからだ。印刷された文字、それは一人の女の過去を簡単に説明していた。簡易すぎてそこに生きた人間の匂いなどなかった。事実だけを伝える紙とは所詮その程度のものなのだ。それでも彼は彼女の過去を想像しえたのは、事実に近いものであると言い切れるほどのそれを想像しえたのは祖父という男が彼に娘の一時期を語ったからだった。父親の目からみた娘である。どこまで娘の真実に忠実かは分からないが、それでも目に見える事実だけを語る彼の言葉は助けになった。彼は己の為した卑怯も隠すことなく孫に語った。 一人の留学生と彼の娘は密かに想いを通じ合わせていた。経営の才能のなかった彼女はいずれ婿をとり後継者を残さねばならなかった。父の定めた未来である。そうしてそれを彼女も受け入れていた。しかし彼女は大学で知り合ったその留学生と深い仲にまでなり、従順に従っていたと見えた娘の裏切りに父は怒った。怒ると同時に失望した。娘は泣きながら、髪振り乱して父に縋り、けれど謝らなかったという。たおやかな四肢のどこにそんな意志が宿っていたのかと、父は驚いたという。しかし感心で怒りが解けることはなく、男のためになら家をも棄てると屹然と断言した娘に父は一計を案じた。金を掴ませて国に帰らせるか?否、報告書によると相手の男もまた一途に娘を愛しているという。人格に問題は一片もないと見える男は医師の勉強のためにこの国へ留学しているという。豪快な性格は友人達にも人気があるそうだ。人間として好ましい人物には違いなかった。けれど、けれど父親は国粋主義の性格があった。その性格に完全に染まってはいないとしても、彼は長く守り続けてきた一族の血に他民族の血が混じるのを厭うた。だから、 だから父親は娘の胎に子が宿っていることが明らかになると、一切の迷いが晴れた。 娘を殺すことに決めたのだ。 娘の男にその旨を伝え、内縁だけで式は済ませたいと、しかし君は特別だと葬儀に呼び、涙する男の肩を抱いた。父とも呼ばせ、その手を取り、共に彼女の死を悼んだのだ。 他民族の男と交わった娘への代償は過去と身分の剥奪。同類の集まる掃溜めへ放り込まれた女の生活は決して易いものではなかったはずだ。それは冬獅郎自身が知るところである。 (母さん‥) 女の、呼ぶ声がする。 呼ぶくせに、あっちへ行けと叫ぶのだ。 褪せた写真色に嘗て住まったアパートの部屋が現れる。割れた花瓶に花はなく、薄汚れた床を腐った水がゆるゆると流れていく。ラグもくしゃくしゃになって斜めに差し込む午後の光に草臥れた様相を晒す。 (母さん母さん母さん) 2年だ。 2年、狂った女に付き合い続けた。愛し、続けた。 己を見ない求めない女が、再び己の身体をその腕(かいな)に抱いてくれることを願った。 (俺はあんたに‥認めて欲しかった‥) 幽霊でもみるように怯え、化け物でもみるように泣き喚いたあんたを 哀れみでも蔑みでも憎しみでもなく ただ一心に愛していたよ。 今何故こんな想いを抱くのだろう。 悲しくて悲しくて仕様がない。 望み叶わぬまま彼女を失くしたときの喪失感がまざまざと甦るのは何故だ。 (母さん、あんたは‥) 俺の、最初で最後の女だったんだ。 甦る。蘇る。黄泉還る記憶。 己が初めに死んだ時の。唐突の無重力。ついで落ち込む浮遊感。乗客たちの悲鳴。あぁなんだ、飛行機事故というのは本当だ。その時の焦りを覚えている。あの時祈ったのは神にだったか、願いを聞き入れたのは悪魔だったか。まだ死ねないと強く望んだのは彼らに、彼に会うためだったから。真実を知らぬまま国に帰った父へ、母国で新たに出会った女性と結婚し、子を儲けた父へ。 しかし今更何を云おうと? 既に交わらぬ方向へ伸びている人生に今、何のために干渉しようと? 父の中で母のことは終わったことなのだ。既に思い出の中の幻影だろう。 真実を伝えて喜びはすまい。己が貴方の子だと伝えてどうなるわけでもあるまい。悪戯に混乱を招くだけだ。彼の生活を掻き乱すだけだ。 けれど、せめて、一目。 生きたその姿を自らの目で確かめておきたかった。感傷を完全に捨て去るためにも。しがらみを完全に取り払うためにも。 これは罰かもしれない。胸ポケットを押さえた。そこに手帳とともに入れた一枚の写真。落ちていく中で、落とすまいと押さえた咄嗟の行動。大事なものなのだ。いつしか形を変えた感情は何と名づけられるものだろう。 助からないと予期して彼は一言、そこに写る者の名を呼んだ。 冷えた床は彼一人の熱量でどうにかなるほど柔くはなく、ただ熱を奪っていくだけだった。 ガラスの壁に靠れながら彼はうつらうつら浅い夢を見た。夢を見ては吐いた。胃液さえすべて吐ききるほどに何度も何度も戻し続け、彼の周りが嘔吐物に塗れ異臭に鼻も役を諦めた頃憔悴しきった彼がみるのもやはり霧散しない記憶だった。彼のものではない、しかし彼のものだった。 白衣を纏った無感動な顔の人間たち、ガラスの壁一枚隔て己(おれ)は揺蕩っている。液体の中にいるのだ。酸素を送っていたマスクは外され息が苦しい。苦しい‥。呼吸は本能だ、教えられずともそれが危険なことだと理解していた。”死”を理解してはいなかったが、この状況が脱せねばならないものだとは分かっていた。ガラスを叩く。が何の力だか後ろへと引かれて上手く拳を打ちつけることが叶わない。口を開けば苦い液が流れ込む。吐き出すことも出来ず溺れる。‥溺れる‥もがいてもがいて鉤を作った手が何かを引っかいた。柔い。何だ? その時初めて彼は認識する。そこが何所であるか、何であるか。自分が何に入れられているのか。剥いた眼が映したものは 己(おれ) 俺が見ているのは俺だ。否、俺が俺に見られている。違う、俺が俺を見ている。 それは合わせ鏡をみるような表面的なものでなく、意識がそれと知覚する肉感的なものだった。 俺の後ろに俺が、俺の後ろにも俺が それが己の見ているものなのか、それとも彼の見ているものなのか判然としない。ただ、幾人もの『己』が漂っていた。白い眼を剥いて、開かれた口から漏れる気泡はなく彼等は皆一様に死んでいた。 ごぼり 吐き出した空気が頬をかすめ昇っていく。入れ替わりに入り込むのは液体だ。肺に液体の溜まっていくのが分かるようだった。叶わぬことと知りながらも口は大きく開く。己も上れば息が継げるだろうか、否無理だ。蓋がそれを阻んでいる。見上げたそこにもやはり己の肉体(からだ)は漂っていた。 苦しい‥苦しい‥ 助けて‥っ もう一度”外”を見て、無情な顔どもを網膜に焼き付け彼は最後の気泡を吐いた。 涙さえ攫われる培養液の中、年齢も様々に”日番谷冬獅郎”はいた。 何度も何度も繰り返される、死までの苦悶。そこに死はなく、解放もなく、ただただ苦い悲しみだけが続いていた。 NEXT |