相続人 第二部 11 「その扉は開きませんよ」 赤い光の中、指から先だけが出る白のシャツを(当然ながら朱に染まっている)緩く着込んだ冬獅郎は振り返った。 蜜色の髪を茜に染めて執事が立っている。己の髪も同じような色に染まっているだろうか。彼よりは白に近い色だから、より赤に近いかもしれない。 「何故、開かない?」 「何故、開けようとなさるんです?」 問いに問いで返され、冬獅郎は探るように浦原を見た。不遜ともとれる冬獅郎の佇まいに浦原は改めて彼のカリスマ性を見るようだった。 「鍵を失くしてしまいまして。開けられないんです」 浦原の答えに納得したのか、表情は変えないまま軽く頷いた彼は扉から離れ、浦原の方へ廊下を歩いてくる。一本の道だ。階段へ出る角も浦原の後ろにある。 「最近、食が細くなっておいでのようですが‥なにか気がかりでも?」 すれ違い様の問いに冬獅郎は応えることなく、絨毯に足音も消して角へと消えた。それを肩越しに見送った浦原はいよいよ訪れるその時に微かな不安を感じていることを自覚していた。夕陽の紅を反照する銀色のドアを見つめて、賭けに出るしかないのだと己を納得させた。 穴が空いているんだ。 その穴を埋めないことには己の足は立ち行かない。 踏み場は見当たらず、足場は崩れて、岸は遠い。 穴を、埋めなければ。 橋を、架けなければ。 昼間にも秋めいた風が吹き始め、長袖に衣替えした一護はこの日も冬獅郎の小憩の間、彼の傍らで一人ぽつぽつと言葉を落としていた。もう暫くもすれば暖炉に火が入るようになるだろう。まだ暖かい日中、ガラスを通して背を温める日光にそれと似たものを想像する。 もうそろそろ休憩時間は終わるかと一息ついたとき珍しく口を開いた冬獅郎に一護は驚いた。 「この真下にある一階の部屋の鍵を、知ってるか?」 「?、知ってるって‥失くしたのか?」 「失くした‥?」 「お前が使ってた部屋じゃねぇか。持ってるとしたらお前‥」 言葉を切った。一護は自分が拙い事を遣らかしたと気付いたのだ。 「どうした?」 「‥‥‥‥」 男の目に険呑な光が宿っている。咄嗟に思い浮かべたのは浦原の顔だった。 一護はこの屋敷に戻ってからこっち冬獅郎に関する注意事項を浦原と確認し合うことはなかった。どこまでがOKでどこからがNGなのか一護は手探りだったのだ。冬獅郎が少年の姿のときのことを一護はあえて話題にしないよう務めていた。それは今の彼と初めて対面したときの彼の反応から判断したことである。忘れている。そう、どういう訳かは知らないが(解らないことだらけだ)、忘れていなければ彼が自分を知らないなどということはない。彼の状況を浦原に質さなかったことを一護は後悔した。後悔したが、あの男のことである、上手くはぐらかされていたかもしれない。もしかすると今この状況さえ彼の計算の内なのかもしれないのだ。 (あの人‥一体どこまで‥) 諦めていることとはいえ恨みたくもなる。 「黒崎」 冬獅郎は一護を苗字で呼ぶ。初めこそ慣れずに名前で呼ぶよう云っていたが今では慣れていた。名も呼ばれなかった初期を思えば十分なことじゃないか。 間近で聞こえた声に我に返れば冬獅郎は立ち上がっていた。身長差に一護は彼を見上げながら思わず唾を飲み込んだ。 「俺は、いつも鍵をどこに‥?」 知らない、と云って信じてくれるだろうか。否、ダメだ。翡翠の瞳は嘘を許さない強さで見つめてくる。普段交錯することのない視線はそれだけで己を押さえ込むようだった。 「‥‥‥‥」 「黒崎‥」 強まる語気に観念して、一護は目を逸らしながら答えた。正確に知っているわけではなかった。ただ、”彼”は一護の部屋で眠るとき鍵はベッドサイドの引き出しへ仕舞っていた。寝室は寝るためだけにのみ使っていただろう彼はそこを開いたことはないのだろう。思い起こしてみれば、今でもあの部屋を冬獅郎が使っているのかどうか知らないのだ。 「多分、ベッドのとこの引き出しだと思う‥」 (もしこれで本当にそこに鍵があるのなら‥) 一護は思う。 (確実にあの人の計算の内だ) あの男に手抜かりなど考えられないから。 隠し通すつもりなら、痕跡も手がかりも絶対に残すはずがない。 寝室へ入っていった冬獅郎が程なくして輪っかにした針金にぶら下げた一本の鍵を持って現れたのを見て、一護の予想は確信に変わった。今更浦原に詰め寄るつもりのない一護はついて来いと見つめてくる翡翠に応えて腰を机から離すとき、浦原が自分に望んでいた本当の目的を悟った気がした。 『彼を人間に‥』 それだけならば冬獅郎が今の肉体を得たときに果たされているはずだ。 『たとえ、どんなことがあっても‥』 側を離れてくれるなとそれは、一生涯のことだったのだろうか。 『貴方でしか、駄目なんです』 己は冬獅郎の保険なのだろうか。 (どうして俺が?) 長らく忘れていた想念が頭を擡げた。 冬獅郎に支えられた扉を通って廊下へ出た一護は先に立って歩かされた。まるで連行されているようだ、と緊張に振り返ることの出来ない一護は皮肉に口を歪めることさえ出来なかった。 辿り着いたドアは難なく冬獅郎の持ってきた鍵を飲み込み、二人を招き入れた。木製の扉が多い中、この部屋の扉はセラミクスである。カーテンの締め切られた室内は昼間でも暗く、冷気が床といわず漂っている。 電気もつけずに冬獅郎は進み入り、一護は入り口から動けずに彼の動きを見守った。身体を抱くように腹の前で腕を重ねて、一護はせり上がる不安に堪えた。彼の抱くだろう疑問への答えを持っていないから、一護は冬獅郎が次に自分を見るときを想像して身体を強張らせた。 (俺は、何も知らないんだ‥) それでいいと思っていた。それでも上手くやっていけると思っていた。知り合ってからの時間だけで十分だと。けれど、冬獅郎にとってはそうじゃないのだ。自身のことだ。無視できるわけがない。ただでさえ探究心の強い彼である。他人のプライベートへ踏み込むことはなくとも自身のことは明瞭させておきたいだろう。 何も知らない自身が、情けなく思えた。 「椅子が高い‥」 金属的な室内でその声はよく通った。顔を上げた一護は冬獅郎がパソコンの前の椅子の背に手をのせてしゃがみ込み、その高さを確かめているのを見た。高さを自由に変えられるタイプの椅子である。それは以前の彼が使っていたままになっていたらしい。 「埃も、あまり積もっていないな‥一月かそこらというところか‥。俺が、目を覚ました頃からか?」 問いは一護へ向けて。一護は立ち上がった彼が見つめてくる瞳に答えられなかった。今にも逃げ出したい衝動に駆られる。どんな言葉を選べばいいのか分からない。自分の言葉が彼にどのような影響を与えるのか測れない。 返答しない一護から視線を外した冬獅郎はパソコンの電源を押した。重い起動音をあげてパスワードの入力を求める画面が現れた。暫し考え込んだ後彼はキーを叩き、ロックは一度で解除された。淀みない作業を一護は見守っている。緊張も解れるようだった。彼の集中が画面へ向けられているからだろうか。やがてマウスを動かす手が止まり、画面が黒に変わった。閉じたのだろう。冬獅郎が一護の方へ歩いてくる。検証は済んだのだろうか。確かめたいことは確かめられたのだろうか。変わらない表情からそれを読み取ることは難しかった。側まで来て立ち止まった彼は云う。入り口から一歩も動かないままの一護と向き合って、境界線のように敷居を挟んで。 「あの中に入っていたデータは俺が大学のときに進めていた研究だ。結局終わらせることはなかったが、あれはあの時のまま残されていた」 冬獅郎の声は静かだ。怒りを内包しているようでもない。淡々とした、無感情な彼の声だった。 一護は聞いている。ただ、冬獅郎の言葉を聞いて、彼から投げかけられるだろう質問の予想もしない。 「俺はここを使っていたんだな?それも数週間前まで。あの椅子も、俺が、使っていたんだな」 あの椅子。明らかに今の彼にはサイズの合わない椅子。 答えない。応え方さえ忘れてしまったように一護は冬獅郎を見上げている。 「お前何を知ってるんだ。俺の何を知ってる。ここで一体俺は」 瞬間くしゃりと歪んだ顔に一護も一層痛ましい表情(かお)になる。 「俺は‥俺だったのか‥?」 「冬獅郎‥っ」 不安げに揺れた翡翠に思わず声を発すれば、強く睨みつけられ二の腕を掴まれ部屋に引きずり込まれた。開かれていない方のドアに押し付けられその勢いに息が詰まった。 「‥っ、しろう‥」 「言え!俺は一体何だった!どんな姿で俺はここにいたんだ!」 「‥っとう、しろうは、冬獅郎だっ、どんな姿でもお前はお前だろう‥っ!」 「誤魔化しが聞きたいんじゃない!はっきり答えろ!俺は、ここで、ガキの姿だったのか‥っ!!」 「‥‥‥っ!!」 答えられるわけがない。俯いて男の責めるような目から逃れながら一護は二の腕に食い込む指の痛さに男の必死を見る。身を竦めて口に手の甲を押し付け歯を食いしばった。苦しくて、それが、男のものか自身のものか判別できなかった。 背を押し付ける力が増し、被さる陰の濃くなったことと衣擦れの音に顔を上げようとして一護は耳元に吐息を感じて動きを止めた。衝動を押し殺す息が白い歯の間から漏れている。熱が近くて、一護は自分が半ば抱きしめられている状態だと知った。見下ろした足の間に男の足があり、交差している。触れるドアの冷たさがより広がって、同時に男との距離も狭まった。ドアと男とに挟み込まれ、一護は既に密着している体温を嫌悪しないことを不思議に思った。何時の間にか二の腕を掴んでいた指も外され、だらりと両側に垂れ下がった腕には痺れだけが残り、男の腕は顔の両側にあった。男の肩に顔を埋めて、鼻腔に入るのは男の匂いだった。 冬獅郎‥ 呼ぼうとして、口が開かない。男のシャツが邪魔をする。シャツごしの男の肌に、己の唇が蠢くのかと思うと羞恥を覚えた。 息が耳にかかる。落ち着かない。心臓が、心音が、重なって、どちらのものかも‥ 「前にも‥こんなことが‥」 「ぇ‥?」 耳を食むように動いた唇の呟きに顔をずらせば、一点を凝視する眼があった。 「冬獅郎‥?」 空いたスペースにそう、囁くように声を零して訝った一護は冬獅郎が何のことを云っているのか分からなかった。 「あの時も‥俺は、お前に触れて‥」 押し付けた筋肉の硬さ 引き千切った釦の感触 飛んだそれは頬を掠めた 引き攣った表情、己を凝眸する怯えた眼 その身体に乗り上げた己の身体は 勢いよく身体を離した冬獅郎に驚けば彼は扉に手をついて囲み込んだ一護を凝視していて。鬼気さえ篭もるその眼差しに恐怖した。 「冬獅郎‥?」 彼は観察していた。己を観察し、そうして記憶を引きずり出そうとしていた。 「そうだ‥俺は、あの場所で‥」 「冬獅郎‥っ!?」 突然駆け出した冬獅郎を直ぐには追えなかった。 NEXT |