相続人 第二部 14







 一護は待っていた。冷たい風に晒されながら薄いコート一枚を着込んで体を抱くようにしながら門の前、鉄格子の向かうに2つのライトが見えるのを待っていた。
 帰ってこないかもしれない。不安はあった。昨夜は帰ってこなかった。もしかすると今夜もまた。いや、今夜どころかずっと帰ってこないかもしれない。だけれど一護に引き返すという選択肢は浮かんでこなかった。足の裏が冷えて、指先が悴んでも、そこから一歩も動くまいと頭ではなく体が決意していた。そこへちかりと白い光が闇間から覗いて、一護は思わず門の側まで走り寄った。そうしてそれが冬獅郎の乗っていった車だと分かると門を開けた。
 門が開くとともに一護は後ろへ下がり、夜の中でも際立って黒い車体の車は敷地へ体を入れ終えると停車した。門がその後ろで軋んだ音で啼きながら最後、金属の打ち合う音を響かせながら閉じた。
 運転席のドアが開いたとき、一護は知らず緊張した。フロントガラスは夜を映してそこに乗る人間を定かにさせていなかったからだ。ゆっくりとドアは押し開けられ、薄い銀色が頭を出した。それから彼の顔が現れて、ドアを開けたまま、降り立った彼は一護と向き合った。
 彼は一護が口を開くのを待っているようだった。一護もまた彼が口を開くのを待っていたのだが、彼から先に喋ることはないのだと悟ると口を開いた。
「知らないままでいろと、浦原さんは言ったんだ」
 ぴくりと冬獅郎は反応したようだった。揺れた彼の髪にそう思った。
「知らないままの方が、慰めになることもあると、言ったんだ。‥冬獅郎。俺は何も訊かない。知るなと云うなら探らない。でも、俺はお前の側を離れる気はない。お前が苦しむまま放っておきたくもない。
 冬獅郎、俺はお前から何を訊き出そうとも思わないが、知れというなら俺は聞く。お前の言葉全部受け止める。だから‥」
 お前を慰められるか、支えられるか、護って、やれるか
 一度、息を継いで一護は一つだけ質問した。
「俺は、どうすればいい?」
 動いた冬獅郎を一護は認識していただろうか。あまりに自然に彼は男の動きを目で追って、その手が自分に伸ばされ、そうして己を捕まえるのを待っていた。抱きすくめられ顔に胸を押し当てられた時初めて、その強さに意識したのではあるまいか。それでも彼は身動ぎすることなく男の為すがままに任せていた。
 体を引き上げるような腕の力に顔を仰のかせると唇を塞がれた。熱い男の息が直接口腔に流れ込む。滑った肉の熱が押し入り一護の舌を絡めとる。
 切なさだか愛しさだか分からなかったが、一護は男の背に腕を回した。口付けは深く、深く。互いの体に根をはるように、互いの内臓まで潜り込む様に、どこか、必死に。互いの熱を奪い合う。
「は‥ぁ」
 唇が解放されたとき、濡れた銀糸が自分達を繋げていると分かった。熱の離れた唇に、重力にならい撓んだそれが触れたのを知ってまた無性にその口へ喰らい付きたくなった。
 体を引かれてボンネットの上へ倒される。乱暴な力だった。だけれどそれを一護は意に介すことなく、むしろ陶然として被さる男を見上げた。
 奇蹟のような一体感
 これからすることを、されることを、互いが互いに理解していた。それを得るのだと分かっていた。
 重なった重みは悦びだった。コートを剥ぎ取りシャツを捲り上げる手も、パンツのボタンを外し、中へ侵入する手も、自らの肌に触れる熱全て。
 肩口に埋もれていた顔が、聞かせるつもりだかそうでなかったのか判然としなかったが、安堵するように息を吐き出した。
 あぁ   救われる   と。




 死のうと思った
 全てを思い出して、それでも生きていくことが赦されるとは思えなかった
 あの場所で‥仲間達と同じようにこの命を、命と呼べれば、だが、絶とうと思った

――――ガラスに蒼白いライトの光が映るだけの暗闇は墓の中にいるようで、その耳を痛くさせるほどの静けさはそれを待っているようだった。

 だけどお前を思い出したんだ

――――乾いた眼に繰り返す瞬きで、反射されるばかりのライトの明りが明滅しているように見えたその視界の中で

 お前の、鮮やかな髪の色が目の前に見えた
 じっと目蓋を閉じても現れた
 まるで穴の中に縮こまる俺を引きずり出そうとするみたいにそれは目蓋の裏から眼球へ、眼球から視神経を通って脳全体を包み込むように広がった

 帰らなければと、思ったんだ‥

 いつでも俺の側にいてくれたお前のもとへ帰らなければならないと‥
 門の向こうにお前が立っているのを見たとき驚いた。驚いて、待っていてくれたのかと思った。嬉しかった。‥安心した。俺は、帰ってきて良かったんだと。どこかで‥怯えていたから‥
 待っていてくれる人間がいると、お前は俺に教えてくれたんだ。安心させて、くれたんだ‥



 冬獅郎の鼻が匂いを嗅ぐように橙色の髪へ擦り寄った。一護の肩を抱く手は冷気の中でもしっとりと湿り、コートを羽織った薄い肩を撫ぜた。ボンネットの上、フロントガラスに背を預け、彼等は互いの熱で温めあっていた。
 髪の中で冬獅郎が口を開く。吐息が頭皮に触れて、一護はくすぐったいと思った。そうしてそれが、心地好いと、思った。
 冬獅郎が身体を押し付けた背骨の付け根辺りは未だ鈍い痛みが染みこんでいたが、徐々に薄らぎつつあった。ボンネットに押さえつけられ、一護の背中へぴったりと冬獅郎の身体が被さってひとつになった。一護を穿つとき彼は一護の耳元へ優しく言葉を吹き込み続けていた。
 二人とも初めての行為のはずだった。たどたどしく繋がりに使う孔を解し、押し入るときには焼け付くような痛みに一護は猫のように背を丸め、奥歯を食いしばり、鉄の板へしがみ付かなければならなかった。だけれど冬獅郎の凡てが収められる頃には自然と力が抜けていた。もっと強い抵抗があって当然だった。二人の身体はまるでそうあるべきであったかのようにフィットした。
 朝が来る。男を待つ間休まることのなかった胸中は食事も受け付けず締め付けられるばかりだったけれど、それももう一切の踵が抜け落ちたように安らかだった。安心させてくれたのは冬獅郎もまた同じなのだ。
 東の空が白々と闇を染め変えていく。肌寒さに腕を抱く手に力を増した。二人とも服を身につけてはいたが、閉めるところは開いていた。ボタンを留めることも、ジッパーを引き上げることも億劫だったからである。それにかける僅かな手間よりも、相手の身体を抱きしめることを望んだためである。
「冬獅郎‥部屋に戻ろう」
 さすがにこの格好で外にいるのは恥かしい、と汚れてしまった衣服が暁に晒されていくのを見て一護がはにかむ。激しく互いを求め合った後、己を抱いてポツポツと語った冬獅郎の話を一護が凡て理解することは出来なかったが、いずれ話してくれるかもしれないいつかのために心に留めておけばいいと思った。
 雲が黄金色に染まっていく薄碧い空の下、笑い返した冬獅郎の顔は総てを受容したかの如くに強く、どこか諦めの滲むように穏やかだった。






 一護を部屋へ送った後、自分の部屋へと向かう途中の廊下で浦原と出会った。突如としてそこに現れたような彼は冬獅郎を待っていたらしかった。
 夜はまだすっかり明けてはいなかった。愚図るように夜は薄い膜となって空を蒼く覆っている。冷気の中窓から差し込む明りは白く絨毯の上へ落ち、小禽の囀る声がガラスを通り抜けて鼓膜を擽った。
「落ち着いていらっしゃいますね」
 彼の内心を窺い知ることはできない。微笑するその面の下の表情がどうなっているのか想像することもできない。相変わらずの笑顔で彼はそこに佇んでいた。ただ、朝の光の中蜜色の瞳と髪をもつ彼は忠実に使える執事だった。
 冬獅郎は己が彼に対しもはやなんらの恨みも憎しみも抱いていないことに気付いた。すべて流れさってしまったかのように。その水を与えてくれたのは一護だ。灼熱の太陽に焦された砂のように乾いていた心は与えられた水のために潤っている。
「死など、所詮夢のようなものなんだろう?」
 冬獅郎は微笑(わら)い、浦原も笑みを深めた。
 止めていた足を再び動かし、浦原との距離を縮めながら冬獅郎は問う。
「浦原」
「なんです?」
「お前、どこまで知っていたんだ?」
「どこまで、とは?」
「俺が乗っていた飛行機、何処行きだった?」
 しばし考え込んで浦原は首を振って言った。
「‥‥さぁ。調べますか?」
「いや、いい」
 それより、と微笑みとともに足下へ落としていた視線を上げて
「就任式の用意をしておけ。一年の喪が明ければ俺が次の当主になることを発表する。」
 おや、と驚いたようにひょうきんな蜜色が開けば
「襲名披露パーティーは盛大にな」
 通り過ぎ様彼は哂ったのだった。
 仕切りなおしだ、と。






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