相続人 〜epilogue〜







 この秘密を抱いていこう。君を胸に抱いて眠るように。君が安らかなるまま眠れるように。
 僕はこの秘密を永遠に抱いていこう。





 重厚な足の低い木のテーブルを挟んでソファに座る男。投げ出された書類が扇に広がり、彼はそれを見つめている。大学の教授に呼ばれた部屋から、目の前に座る男の使いだという男たちに連れられてきた屋敷の一室である。どうやら男の私室らしい。右手にあるドアは今しがた彼が潜った廊下への扉で、男の後ろへひとつ、さらに彼の後ろへもひとつ別の部屋へ続く扉があった。
 翳を被る男の表情は窺えない。ただ、引き結ばれた口元に整えられた口髭と長い顎鬚、気難しそうな面相は細く、禿げ上がった額に白髪が薄く残っている。
「知りたくはないか?」
 母を失ったとき、少年に残されたものは虚無だった。世話を焼いてくれる大人も慰めてくれる友人も多くいたが、彼の空虚を埋めてくれはしなかった。母がどれほどの存在だったのか、世界で二人、護りあうべき存在だと思っていた。彼が彼女を母として認識していたかは怪しい。否、母とは何か、どのように理解していたのかも。
 母という認識はあった。しかしそれは後になるほど薄く、”母”は”女”になった。同情すべき憐れな女。守ってやらねばならない弱い女。10の歳で少年は早くに自立を始めていた。
 だから女が死んだ折立ち昇った想念が、孝行と呼べる類のものであったか定かでない。
 父という男を捜す。
 それがその時彼の生きる目的となった。
「知りたくはないのか?」
 それを取れと男の目は云っている。
 男は己の祖父だと言った。
 お前の母親の父だと。
 知りたくはないのか?男が言ったのは彼の父親の情報だった。過去も現在も記されている紙が今目の前にある。探し続けていたものが呆気なく目の前に投げ出されたのだ。
 膝の上の握りこんだ掌に汗を掻いている。手に取れ、と己は云っている。強く望む心がある。けれど、
『父親の情報を知るならこの家へ戻れ』
 戻れとは異なことを云う。己(おれ)からこの家を出て行ったわけではないのに。
 男の家、屋敷は巨(おお)きかった。有する土地は権力を誇示するような広大さだった。金に埋もれるような生活をしている男、それが貧しさの中で死んでいった母の父だと聞かされたところで彼が素直に信じられるわけがなかった。しかし、男は母の幼い頃からの写真を持っていた。写真の中で母の面影をもつ少女が笑っていた。
 聞きたいことは山とあった。後から後からあふれ出て言葉が分からなくなるほどだった。そこには死んだ母への哀れみも紛れていたかもしれない。
 大学への入学も目の前に座る老齢の男が意図したことだったのだろうか。だとしたなら何故今まで待った。
 しかしそれも、全ては彼がこの家に戻るかどうか了承する証を見せなければ語られないのだろう。
 父の情報、それと引き換えにするのは自分に残された60年の時間。男の姓を継ぎ男の孫として、この家の後継者として生きる。
 有り余る金と約束された将来が待っている。
 何を迷うことがあるだろう。交換条件は至って己に対し優良だ。失うものは何一つとしてない。ただ、多少の自由を失うだけで。しかしそれがなんの問題になろう。
 探していた、父の情報。街の人間達は誰も知らなくて、手がかりなんて何もなくて、大学で研究に関わりながらもしこりのように取れなくて。
 諦めるしかないと、時折少年の顔に浮かんでいた憂いを認めた街の大人たちは言ったものだ。そうしてそれを少年も理解してはいた。大人に近づいた歳になり、自由になる金も貯まってきたところで嘗て母の話した『彼の国』へ父を探しにいくという計画を実行する無謀さも安定した日々の中に埋もれていった。無力感と自己嫌悪が針となって彼の身を苛むようだった。
 それを救うように、男は一束の書類を彼に提示したのだ。
(何を迷う)
 了解がなければ男の姓を継ぐことも男の孫だという話も全て無かったことになると男は言った。大学へはこれまで通り通えばいいとも。お前の人生を作っていけと。
 母の過去も父の現在(いま)も知らず、ただ未来(まえ)だけを見て生きていけと。
(迷うな)
 母よ、目の前にいるじいさんは恨むべき人間か?
 あんたが死ぬに至った経緯でこの男は何をした。あんたに何があり、運命はどう関わった。
 親父はどんな人間だった。あんたが惚れ信じた男はどんな人間だった。
 爺さんがあんたを殺したのか、親父があんたを殺したのか、俺が、あんたを殺したのか‥
 知る権利はあるだろう
 彼は一番上の一枚を手に取った。


 直ぐにその国へ飛ぶことは出来なかった。家に入ると共に帝王学を学ばせられた。2年。20歳になる年となり、その年の誕生日、正式な後継者として紹介されることが決まっていた。最後の自由だと、夏の一月を休暇に与えられた。
 その夏、冬獅郎は『彼の国』へ飛んだのだ。
 『彼の国』、父の、母を棄てた男の帰った日本へ。
 彼の手には一枚の写真。幾枚もあったそれらから彼はその一枚だけを選び、他はすべて燃やしてしまった。資料も、何もかも。目的の場所までの地図は頭に入っている。何度も見続けてきた写真の人間たちも些細な特徴まで憶えてしまっている。それでもその一枚は燃やすことなしに彼は手帳に挿み飛行機へ乗り込んだのだ。視線の合っていない、別の方向を向いている橙色の髪をした東洋人の少年の横顔と背中。西洋人である彼の目にその少年は年よりも酷く幼く見えた。13、今は15になっているだろう少年の写真だ。それも仕舞いには藻屑となっていまうのだけれど。
 日本へ付く前に彼の乗った旅客機はエンジンの爆発により空中分解し、海へ落ちた。





 ぐっと腕を伸ばし、背筋の強張りを解して冬獅郎は丁度良く背後の扉を開けた浦原を振り返った。
「お疲れ様です。一休みなさいますか?」
 そのつもりできたのだろう。手には銀のトレイに用意を整えた茶一式を載せている。冬獅郎は椅子を回転させて彼の方へ身体を向けた。机の上の書類へ正面の窓から格子模様の影が落ちている。
「あぁ。その前に、一護がこっちに来てるって?」
 襲名式から二年が過ぎた。今はまた夏の暑さを予感させる春の終わりだ。
「おや、情報が早いですねぇ。もうそろそろ此方に着くはずですよ」
 仕事に手中していただくために内緒にしておりましたのにと、テーブルの上へ茶を並べながら浦原が応える。そんなことが無駄だということは彼自身よく分かっている。浦原が運んできたトレイの中身を見て冬獅郎は軽い呆れの溜息を吐いた。食べきれないというのにあのコックはまた自慢の菓子を浦原に持たせたようだ。だがそれも一護が来たというのなら都合がいい。彼に食べさせよう。
「悪いがそれはもう一度下へ運んでくれ。一護と一緒に食う」
「あぁ、はい。かしこまりました」
 従順に頭を下げて、茶を片し始める浦原もそれは予測していたようだ。
 浦原が片付け終えるのを待たず、冬獅郎は部屋を出た。一護を迎えに出るためだ。
 一護はこの国の永住権を取ると言った。冬獅郎の側で、部下として、秘書として、共に働くためだと。そうして彼は時折故郷に帰りながら、冬獅郎の有能な右腕となっていた。
「一護」
 愛しい彼の名を呼ぶだけで喜びが胸を奥から暖める。忙殺せんと企むような日々から一時解放されるのはこうして彼の顔を見る時だ。
 開け放した玄関の向こう、丁度車から降りるところだった彼はその声に顔を上げ、冬獅郎の姿を見止めると微笑んだ。車から降りるとドアを支えていた運転手へ労いの言葉をかけ、冬獅郎の方を向いて立つ。その後ろでドアを閉めた運転手は一度冬獅郎へ頭を下げて車をガレージへと運んでいった。
「久しぶり」
 暖かな日差しをその橙色の髪に反射させさらさらと光の粒子を撒き散らしながら彼が笑う。
「茶にしよう。丁度浦原が準備している。温室にいくか?」
 彼の好きな場所へ誘うとき、彼は少しだけ悪戯っぽく首を傾げて笑った。そこに行くときは秘密めいたやりとりを交わすことが必ずだったからである。それへ、久しぶりに顔を見せた片腕は窘めるように笑って冬獅郎へ拳を突き出し、殴るような素振りを見せた。
 OKの合図だ。






 この秘密を抱いて逝こう。誰も知らない、この世界で己(おれ)だけが知る


 神をも畏れじ背徳の秘密を抱いて。










(終)





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