手タレと素人モデル 説明* まるいがある日言った。 「手タレでいいんじゃね?」 耶斗が食いついた。 そんな結果。 相変わらずタイトルが思いつかない。もういい。 高い天井には鉄の骨組みも露に光度の強いライトがぶら下っている。リノリウムの床は靴音を響かせ、人々の移動するときには実に賑わしいが、今は誰もが息を潜めて静まり返り、その中で機械の目の瞬きする音が響く。 表を白で塗ったベニヤ板で作るセットを基点に人が扇状に散らばっている。その殆どは静止し、動いているのは一人。共通しているのは彼らが一方向を向いていることであり、例外は彼らの視線の収束する先に立つ二人。 鮮やかな橙色の短い髪の跳ねる15、6の少年と、彼の背後に立ち、少年の顎へと手を添える20代半ば頃だろう銀髪の青年。顔立ちはどちらも整っているが、青年の冷然とした美貌に比べると少年のそれはどこか垢抜けない。前に立つ少年こそが主役であろうに、背後の青年の存在感の方が際立っている。姿勢も、視線も、表情も。身体に一本芯の通った立ち方は如何にもプロの自信を思わせ、右腕に囲う少年はオブジェか何かに見せてしまう。そうでありながら喰うか喰われるかの攻防が見られないのは少年にその気がないからか。青年にも少年にもそんな考えはないからか。少年にはむしろ戸惑いと、今にもこの場から逃げ出してしまいたそうな臆病が覗いている。 (うーーーん‥) 「日番谷サン」 カメラから顔を離した浦原が日番谷を拱く。面倒そうに眉根を寄せた日番谷は、それでも一護から、せいせいするというようにすっと身体を離して己を呼んだ男へと足を向けた。 「なんだよ」 「イエですね」 近付いた浦原は顎を抓むように手を当てて、思案顔だった。自分の思考は既に纏まっているが、どう説明しようか悩んでいる顔だ。 「大分良くなっているんです。最初と比べたら全然ね。ですがですね。ですが‥」 苛苛と日番谷は待った。浦原と日番谷とでは生きているペースが違うらしい。言いたいことがあるならさっさと言えと、喉元まででかかった言葉を飲み込んで日番谷は待った。ここで余計な一言でも発しようものならそれについてまた延々と浦原独自の論理を聞かされる羽目になるだろう。 「あれじゃ困ってる顔でして、色気とはとんと遠い」 もうちょっとこう‥何とかできないもんですかねぇ、と浦原はジェスチャーを付けて注文するが、顔の前ほどへ手を持ち上げてふらふらと腕を揺らす気のぬけた盆踊りのような動きでは何をどうすればいいのかさっぱり解らない。理解できたならそいつは浦原のクローンだろう。だからこそ日番谷は 「分かんねぇよ」 と至極素直に吐き捨てたのだが、日番谷の不愉快など意に介した風もなく、否、本当に気付いていないのかもしれない、浦原は暫し悩む表情になった後(それは帽子に目を隠して曲げた口許しか見えなかったけれど)、一瞬でぱっと、人を馬鹿にしたような間抜けた笑顔に戻った。 「それじゃあ仕方ないです。私もこれはどうかと渋っていたんですが、長引くと一護サンにも負担でしょう。徒に日を延ばして彼が慣れてくれるとも思えませんしね。出来ることなら一日で終わらせあげたい」 仕方ありません、と彼は二度繰り返して 「辱めてください」 「‥‥‥。ぁあ?」 あっけらかんと、そう言い放った。 (『辱め』てください‥?) 反芻すること数秒。やはり理解には至らなくて日番谷はやや勢いを殺いで問い返した。未知のものに遭遇したとき、人は慎重にならざるを得ない。 「それは‥どういう意味での辱めだ‥?」 まさか言葉通りのものではないだろう。そもそも男に悪戯したい趣味はない。言葉のままの行為を行ったなら、辱めはむしろ己が受けることになる。しかし浦原は、日番谷の懸念を正しく読み取った浦原は盛大に声を上げて笑ってみせた。日番谷の抱いた不穏を吹き飛ばそうとするように。 「いっやですねぇ!本番はよしてくださいよー?一応とはいっても女性のスタッフもいることですし、アタシはポルノを撮るつもりはないんですから」 切れてもいいだろうか。 日番谷の米神がぴくりと怪しげに蠢いた。この男はどこまでも人の斜め上を行ってくれる。馬鹿にしているとも取れる科白に、しかし揶揄の色を見出せないのは彼が至極真面目に理解不能の結論を信じているためだろうか。芸術に携わろうという者は多かれ少なかれ世間大多数の人間たちと常識を異にするものだが、変人でありながら憎めないという点では利得かもしれない。今、日番谷は目の前の男を殴り飛ばしたくて仕様がないが。 と、浦原は右掌を左方へ開いて左口端に当てたかと思うと日番谷の右耳へ唇を寄せた。思わず浦原へと耳を傾けた日番谷は、浦原が口を開く刹那罠かもしれないと背を強張らせたが、耳打ちは先の大音声が嘘であったかのように潜められていた。 「アナタのやり方で結構です。まだるっこしいのはやめにして、アナタの本気で彼の心を開いてください。どんなやり方でもいい。ポロリがなければ性的なことを仕掛けても構いません」 それは構っとけ。 「一護さんは警戒心が強い。幸い家族には弱い方ですから、母上殿の言いつけとあって大人しくしてくれていますけれども、ようやく出かけた色を封じてしまうのは時間の問題です。そこで助言はひとつだけあります」 ひとつだけ、と浦原は外へ口の動きを隠していた手の人差し指だけをのこして握りながら身を起こした。内緒話が終わる自然の成り行きに、日番谷も背を伸ばした。浦原は帽子の下から猛禽を連想させるような眼を覗かせて日番谷を見詰め 「警戒心はね、むしろ良い道具です。警戒心は彼の色を抑えもするし、増幅もさせる。想像して御覧なさい。しなやかな肢体をもつ獣を追い詰め、それがまだ闘志を失わずに睨み上げる様を。牙を剥き、唸り声を上げ、ぎらぎらと眼を輝かせてもその四肢は脱出口を探している。怯えを隠すための虚勢。……そそりませんか?」 悦に口角を引き上げた浦原に生理的な嫌悪を覚えながら、そそらねぇなと即答しようとして、日番谷は背後の少年を振り返った。肩越しに覗いた彼はセットの中から動いておらず、スタッフから掛けられる声に頷き返している。他愛も無い雑談だろう。スタッフの表情を見れば分かる。しかし黒埼一護の表情は会話を楽しむものではなかった。筋繊維の一本一本が強張ってしまったかのような硬い表情だ。 知ったことかよ。日番谷は思う。そもそも日番谷はプロのモデルでもなんでもない。ただの一般人だ。美術館に行く美意識もなければ触れる芸術だって高がしれている、本を読むくらいが精々の無趣味な人間だ。 他人と関わりたくないから殆ど外にも出ない、職場でだってカウンターは他の人間に任せて、自分は書庫で適当な雑務を拵えている。それくらい他人との接触を好まない。だからこそ他人の観察だってしない。一人の人間をじっと見詰めるだなんてことも無論…―― 「あいつはまだ怯えてもいないだろう」 浦原へ眼を戻さずに返答の形で呟やかれたそれは、日番谷の無意識のものだった。そうして静かに火の灯る気配を浦原に与え、本当に良い拾い物をしたと浦原が微笑んだのを、一護へ注視する日番谷は見なかった。そうして次に浦原が口を開いたとき、鬱蒼とした笑みは道化の仮面の下に隠されていた。 「さて。じゃ、以後私は口を出しません。日番谷さんの思う通りになさって下さい。頼みますよ」 はいはい、と手を叩いて、日番谷を押し出す手真似をして浦原は日番谷をセットへ戻るよう促した。日番谷の眼が一護へ向けられたままじりとも逸らされないのを横目に確かめながら。 こちらへと戻ってくる男に気付いた少年が視線を上げる。一体何の話をしていたのかと、日番谷冬獅郎と名乗った男の秀麗な貌はやはりそこら辺を歩いているような種類の人間とは思えなかった。高身長に見合った長い四肢、溌剌とした歩き方、不機嫌そうな眼差しでさえ他人の目を惹きつけて止まないだろう。 どうして彼ではなく己なのだろうと一護は不思議でならない。両親の友人であり、母の一瞬一瞬を封じ、刻みこみ続けた男が被写体にと望んで相応しいのは己でなく彼であるべきだと一護には思えるのに。どちらともひょっこり見つけただけであるなら尚更。 浦原喜助は人を食うのが上手い。あの男に掛かれば大抵の人間は絡め取られる。足元を掬われてそのまま、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされて運ばれる。スタジオに現れたときの日番谷冬獅郎の表情を見て、彼も己と同じ被害者に違いないと確信を一護は持った。だからこそ仄かな親近感を抱いてもいたのだが (何だ?様子が) 変わってやしないだろうか。嫌々、渋々だった男の表情筋はリラックスし、四肢の末端もまた余分な緊張を抜いている。己を見詰める瞳は凪いで、涼やかですらあり、恐ろしげでもある。突然の変化を理解できないためだろうと一護は結論付けた。 「撮影再開しまーす。ヨロシイですかー?」 問い掛けようと唇を開きかけたところで浦原の声が飛び、スタッフたちが持ち場へ戻る。物を持ち上げたり移動させるごたごたとした音が流れて、カメラを構えた彼へ眼を転じた隙に日番谷冬獅郎は再び一護の背後へと回っていた。 「あの…」 振り返って彼の顔を確かめようとしたが一瞬早く節くれだった長い指の、体温の低い手が一護の顎を留めた。あぁ、またこれから始まるのか…。他人との接触は不得手だ。殴る、蹴るは接触には入らない。触れて離れる一瞬の、あの嫌悪はまた別種の感情だ。 満員電車など鬼門もいいところで、なのに、満員電車でもないだだっ広い屋内で人もまばらな中、他人と密着しなければならないなど浦原喜助にモデルを応諾した条件には含まれていなかった筈だ。 男が撮影所へ現れて一番、唯のアシスタントではなさそうな風貌にカメラマンへ誰何を問おうとしたが、不本意だと如実に表現している顔の男に覚えず口は噤まれた。それでも損なわれることのない彼の美貌がこの時にも一護に助言をくれるプロのモデルなのかと思わせていた。浦原も『日番谷冬獅郎サンです。私たちのお仕事を手伝ってくださいます。一護さんは安心して彼に任せて下さいね』と言っただけだった。 「何の話…だったんですか」 仕方がないから背後から男に顎を捕まれたまま一護は訊ねた。内腑の落ち着かなさは背後に他人が立っている、その一因によるものだが、声音にまで滲んだ怖気は一護の望むところではなかった。 落ち着かない。顎に掛けられた手は先刻まで首を、胸を、腹を弄ったものだ。腕を拘束されて服の中にまで指を差し込まれて‥。 何がしたいのだと一護は惑った。坦々とシャッターを切る浦原に男の手を諌める気配はなく、これがむしろカメラマンの指示だと気付くのに長く掛かった。浦原は表情の硬い己にシャッターを切る合間合間、言葉を掛け続けたが、背後の男は黙したままだった。喋りもせず、また顔をよく見もしなかった他人に触れられることは気味が悪い以外の何物でもなく、浦原にリラックスを促されても出来うるものではない。シャッター音とフラッシュに意識を集中させて男の存在を忘れようとしても服の上から肌を押す男の手の形、弾力を憶えこまそうとするような柔い力には、意識を完全に引き剥がすことは叶わなかった。困憊も極まって浦原の声も上手く聞き取れないようになってきたところで、何事か浦原が男を呼び、漸く身を離した男への安堵に深く息をすることが出来たのだ。 その男が再び己の背後へと戻って一護は正直に狼狽した。また訳も分からず身体を弄られなければならないのかと、四肢は強張り、表情は不審に張り詰めた。モデルを承諾したのが根負けだったとしても、首を縦に振ったのが己ならばその責任は果たさねばならない、そう考える一護だからせめてもの打開策として男へ声を掛けたのだ。会話をすることで男の人となりが些少でも分かれば四肢の緊張も和らぐかもしれないと、一護なりの努力だった。だのに男は 「黙れ」 と切り捨てるように一護の耳元へ囁いただけで、驚きと無下にされた羞恥とに息を呑んだ一護の顎を、掴んだその手で持ち上げるとさらに耳朶へ唇を寄せて、口腔から吐き出されたばかりの微温い吐息を吐きかけながら 「今から俺がお前を追い詰めるから、お前はアイツへ助けを求めろ。口でじゃない。眼でだ。表情全部で奴へ訴えろ。体中で、訴えろ」 訳の解らないことを…言う…。 少年の瞼がゆっくりと見開かれ、固定を妨げるように浦原喜助はシャッターを切った。白い閃光が彼らを舐め、橙の髪の少年は喜助を思い出したようだった。思わずといった風に開きかけた唇は何をか言わんとしたのだろうが、隙間を塞いで男の秀麗な親指が噛まされる。瞬間に、惑い揺れるチョコレートの瞳。蕩けそうなそれはそのままで十分売り物にはなったろうが、喜助の求めるものとは違う。 (雌の匂いじゃあ…駄目なんスよねぇ…) ”可愛い”止まりじゃ満足されない。その程度の底ならこの頭を下げてまで頼み込んだりしなかった。 (真咲さんの子供だからじゃあ、ないんですよ) 長年愛し続けたモデルの分身だから期待を掛けたのじゃあない。血肉を分け、別個の精神を宿したそれが、母がついぞ引き出し得なかった可能性を、境地を、彼女の胎内から連れてきたと、そう夢想したから願ったのだ。 二度、三度とシャッターを切る。閃光を浴びせても浴びせても黒崎一護は戸惑いを殺せない。表情の作り方も度胸の据え方も彼の潜った修羅場とは性質が異なるらしい。喧嘩は常勝らしいけれど、中には無茶な勝ち方もしたと云う。武勇伝だと彼の両親は語るけれども、聞いている浦原としては感心半分心配半分だ。罷り間違って後々まで残る怪我があっては堪らない。その点を問うと日番谷冬獅郎のあの手も奇跡だ。絶妙の細さ、張り、骨は曲がることなく、関節は歪むことなく、全て計算されつくしたように彼の手指は完璧だ。爪の形、厚さ、色。手の甲に浮き出る静脈の青さ、病的には見せない健康的な白さの膚。人間、何かひとつ神懸って美しいものを持っていると浦原は思う。日番谷冬獅郎の場合それは手だ。あの手は紛うことなく神のギフトだ。類い稀な上品(じょうぼん)を損なうことなく維持してきた彼自身にもまた、敬意を払わねばならないだろう。 またひとつシャッターを切る。世界は一瞬だけ白に染まり、その空白はフィルムに閉じ込められる。形を整え、タイミングを測るのは喜助だけれど、フィルムに焼き付ける一瞬だけは神任せだ。計算しても、お膳立てしても、思い描いたままの画が現れることは酷く稀だ。他人が褒め称えようとそれが己の望みのままでなければ全くの無価値だ。無意味だった時間を知って失望したことは幾度あったろう。数え切れない辛酸を舐めて、舐めて、体中に塗りたくって、手放すことなど出来ないから何度もカメラを手にとって。 造る事にばかり長けてしまった己の眼を、光で焼いてくれたのが真咲だった。 あれ以上の感動を知らない。 日番谷冬獅郎が少年へ何事か囁いている。囁いては離れる一瞬に浦原はシャッターを切る。男から逃れようとしているのだろう、しかしカメラの前から逃げるまいという葛藤から踏みとどまりながら身体を捩らせる少年の、隠されてしまいそうな表情を押し戻す彼の手管は巧みだった。そうして撓う少年の筋肉の強靭さを魅せようとする仕方(しほう)はしたたかだ。 さして力は篭められていない指に誘導されてレンズへ向く視軸。逸らされる瞳に悩ましさが付加される。ファンデーションで覆われている目尻は朱を刷いているだろう。ジャケットを肌蹴させ、Tシャツの襟を広げ鎖骨を見せ付ける。裾から手を差し入れ臍をなぞり、引き締まった腹筋を曝す。俯いて、グロスに濡れた唇が艶かしく光を湛え、伏せた瞼に、睫の頬へ落とす陰が莢かな色を匂わせる。吐息さえ色づいたと思える錯覚に、知らず浦原の口角は釣り上がっていた。 (もう少し、ですね) 「イイでしょう!服を替えましょう」 ほっと、少年から緊張の抜けるのが分かった。その一瞬も抜かり無くフィルムに収めて、いつからか床へ着けていた浦原は立ち上がりながら衣装係を呼んだ。衣装替えと色直しのための数人が部屋の隅へ設置されたカーテンの間仕切りへと駆けて行く。衣装係の女性へ腕を引かれて部屋へと向かう黒崎一護は、どこか呆けたような表情だった。 ――――恋愛の経験は…? ――――…セックスの、経験は? 低い声で囁かれる。劣情を引き出そうとするものだと、本能で分かる。 (あの野郎…っ) とんだ食わせ者だ! 服を脱ぎ捨て、叩き付けたい衝動を、着せ替えるスタッフの手に必死で抑えて、一護は歯軋りした。 なんだあの男は、なんだあの男は、なんだあの男は! 幾度繰り返しても足りない。罵倒の言葉は後から後から溢れ出るのに飽和して形にならない。 (何がっ、何が…!!) 恋愛だ、セックスだ、経験だ! そりゃあの顔だ、ルックスだ。相手に不自由したことはないだろう。しかしだ!初対面の人間に向かってそれらの言葉の羅列はセクハラというものではないか、例え性別が同じでも!侮辱だ!不謹慎だ!軽薄だ!! もっと真面目な人物かと思っていたのに! 初めに触れてきた手は遠慮がちだった。戸惑い気味であり、思慮があった。 それが二度目になると薄皮は剥ぎ取られて恥辱のオンパレードだ! こんなにショックなことは稀代だ!あの男は稀代の詐欺師だ! はぁ、と一護は無理やりに溜息を吐いた。気を高ぶらせたままではスタッフの人に気を使わせてしまうだろう。これ以上の迷惑は掛けたくなかった。だから一護は、せめてと、せめてと憤りの懐柔策を探す。こんな目に合わせる男への譲歩を捻り出そうと頭を搾る。 せめて一言なりと説明をくれていれば良かったのだ…。そうだ。心の準備さえさせておいてくれればこれほどまでに動揺もしなかった。 無配慮な浦原に恨みの矛先が向く。しかしそれ以上に今もって動揺の治まらない己の不甲斐なさに腹が立つ。 (次は大丈夫だ‥) 一時でもあの男から距離を取って頭を冷やすことが出来た。冷静な思考が戻れば四肢の自由も取り戻される。 剥げた口紅を直されながら、薄められた理由を思って波立とうとする気配はあったが押さえ込む。 (次は大丈夫だ‥) 意識して抑えなければ激しく上下した肩も徐々に落ち着きを取り戻す。息をするのも易くなり、平静が帰ってくる。 (次は大丈夫だ‥) 瞼を閉ざして、仮初めの孤独に己を慰め、拳を緩め、強張った四肢の先まで解き解す。 (もう大丈夫だ) 次はもう、こんな無様な姿は見せない。 イイですヨ。と浦原喜助は言った。 ここからはもう、一護さんの好きにしてイイですヨ、と。 2着目に着替えて、3着目に。4着目だか5着目だろうか、何を撮られたか、どんな表情(かお)をしたか、何をされたか、何を見せたか。時間の経過さえ定かじゃない。 「え‥?」 「日番谷サン、お疲れ様です。あちらで休まれて下さい。サテ、一護さん」 一護の呆気の問いなど聞かなかったという風に、浦原喜助は日番谷冬獅郎を労わって、 色々と溜まってらっしゃるでしょう?好きなだけ発憤なさってよろしいですよ。 と、一護へと繰り返した。 発露ならばその瞬間だ。 なんだアイツ、これを狙っていたんじゃないかと呆れに日番谷冬獅郎は眼を細めた。 成程、色々と鬱憤が溜まっていたらしい黒崎一護はまるで別人のように根底に押し込めていた性を爆発させた。圧巻だ。背が粟立つほどの感動を味わうのは、より良い小説に出会った時だけではないと思い出される。 肌に触れる布など邪魔だというように、否、己が触れた箇所が煩わしいのか、引き千切らんばかりに服を引き、眉間に篭る嫌悪はまるでこの世の存在全てへ向けるようだ。彼自身を含めた。 (壮絶‥だな) 凄絶と云うべきか。野生の獣の美しさは斯様だろうと云わしめさすほど、黒崎一護の本質は猛々しかった。 雄だ。本物の、雄だ。若獅子のような勇壮さ。柔軟な筋肉に危うさはなく、育ちきらない雄勁は将来を嘱望させる。惹き付けた目を彼は離さないだろう。離れることをさへ許さない傲慢を、彼の若さは当然のものとして醸し出す。 この手に触れていたのが只の殻だったと知った時、日番谷冬獅郎の身の内でもまた、騒ぐものがあった。 (なんだ‥?つまらないな) 日番谷は首を傾けた。心情を表して、同時に、衝動のまま動こうとした身体を誤魔化そうとするものだった。 どうやら己はつまらない戯れに興じていたらしい。そう考えれば煮え切らない想いが湧いてくる。不興は不穏に煮え立って、飲み下すには少しばかり難儀だ。撮影現場という普段の日常ならば近付くことも侵入することもなかっただろう特殊な場所に居る事が彼の心地さえ変えていたろうか。平常の彼ならば有り得なかっただろう足が、黒崎一護へと踏み出された。 (おんや) 何でしょう。アタシはまだ撮りたい画を撮り終えていないのに。 神のギフトを宿した幸運の男が、この場の監督である己の許可も問わずに神聖なるフィールドへと踏み入る。シャッターを切る指を止めて顔を上げれば、表情を読んだ男がすかさず答えた。 「悪いな。俺のプライドに関わる」 なんだ、彼も負けず嫌いなのだ。 負けん気の強さで態勢を立て直した黒崎一護と同様、男も擽られた矜持には敏感らしい。こんなことで奮起する男だとは思わなかったが。 浦原はだらしなく口許を弛緩させて了承の意で笑うと愛機を構えなおした。ファインダー越しの世界は小さく広大だ。無機物の眼を借りて世界は本質を見せる。取り繕うことの出来ない本性を。上辺を写し取ることには厭きてしまった。本物しか要らない。本当しか求めない。闖入者を無視しようとして出来ない少年の眼が染みた反射か構える。それでも彼の体を支える芯は折れないまま胸を張らせて、虚勢ではない威嚇で男を迎える。男の足取り一瞬一瞬にまでフィルムを使うことを厭わず、喜助はシャッターを切り続ける。こうなってみると先ほどまで目に入っていなかった男の容姿が視認されてくる。 (なぁんだ。彼、いい男だったんじゃないですか) 全然そんな気配がしないものだから気付かなかった。手にばかり気を取られて顔を見ていませんでしたねと、改めて男の貌へファインダーを覗くとなかなか魅力的に思えてくる。 (捕って喰いそうな顔をして………。イイですね。イイ) これが、あの男の本質だ。 少年の挑発と青年の揶揄が交錯する。絡み合って、縺れ結ばれる。少年の肌を辿る手の気配が違えている。マネキンのように生気の無く、ただ容として美しかっただけのそれに血潮が通う。筋肉に弾力が生まれ、骨の隆起に大気が唸る。流れるままの時間に浮いては沈む映像の一点一点を描き残すだけの価値が今のこの時にはある。 (あぁ…っ) 喜助は嘆息したかった。片膝でなく両膝で跪き、諸手を掲げて感謝したかった。もはや角度、距離を計算する思考などなく感ずるがままにシャッターを切った。浮世の夢幻を神の手から掠め取るかのような背徳的な恍惚感に漬される。 日番谷冬獅郎が喜助の思い描く通りに動いているのか、喜助が日番谷冬獅郎に撮らされているのかも判然としない。彼らは一幅の絵だった。彫像だった。喜助はその周りを廻る道化に過ぎなかった。この陶酔は久しくなかったものだ。再び見えると確信を得られずにいたものだ。そうだったものが! 男が少年に耳打ちした。雄雄しく気高い獣は自身に触れる無遠慮な闖入者を憎み蔑んでいたがその口角が吊り上がる。獣が哂う。炯々と光る眸で、閉じられた唇を弧に撓む。嗜虐の悦びを湛えて、凄艶に、嗤った。 『嗤え』と囁いた男の吐息だけを憶えている。 呆然と我の抜けたように壁際のパイプ椅子へ身を任せ、一護は滞りなく片付けられていくセットを眺めていた。一時と動くことを止めないスタッフたち、天井からの強い光に影が躍る。人が動き、声を発し、巨大なセットから細々とした小道具は取り払われていく。影が揺らめけば光は瞬く。喧騒は取り留めのないようでいて細波のようにうねる。微睡がいざり寄る。 身体が内側から温まっているのは眠いからに他ならない。疲れたのだろう。撮られるということは思っていたより重労働だ。浮遊感の混じる倦怠感は心地好い。委ねてしまえば心安い夢を見れるだろう。けれど、足の間で組み合わせた指へ力を篭めて意識を繋ぎとめる。腹の中が絞られるような不快感。自ら課す忍耐であっても、眉間の陰は見る者へ要らぬ気を使わせてしまうかもしれない。思っても、解き解す余裕がない。 薄い背凭れへ乗せた背がずり下がるに従って座っている位置も前へ押し出されれば、一護は腰と首で椅子に留まっているといっていい姿勢になった。流石に苦しいのとだらしないのとで身体を引き上げようとしたとき、右の上方から声が降って来た。 「だらしのねえ」 呆れた声はあの男のものだ。散々己に触りまくってくれた不躾な男。日番谷冬獅郎…。 「すぐ起きる…つもり、だ、たぁっ?」 クッションに肘を押し付け上体を引き上げようとした。同時に足にも力を篭めて一気に態勢を正そうとしたのだが、位置が悪かったか、勢い余ったか、右肘が滑り、パイプ椅子を巻き込みながら派手に転倒した。 「い…、つつ…」 「間抜け」 「んだと…っ」 直接床で殴打した右肘も痛んだが、パイプ椅子に打たれた肩と背も鈍く痛んだ。とりあえずは手近な肘へ手を当てたが、背を庇っているのも明らかだった。 嘆息とともに吐き出された無情な一言に言い返そうと顔を上げた一護が驚いたのは、対象とした本人が既に目前に膝を着いていたからだ。 「…――っ」 覚えず意気を殺がれて言葉に詰まれば、男はさらに屈みこんで一護の腕を覗き込んだ。 「強く打ったのか?立てるか?」 変わらず呆れの混じる口調ではあったが心配してくれているらしい人間に無碍な態度を取れるほど一護も礼儀知らずではない。喉元で引っかかった悪態を飲み込んで頷くと、大儀そうに身体を起こした。背筋はやはり少し痛んだ。 「大丈夫…です。さんきぅ…」 しかし、衝撃と痛みで眼が冷めたかと思えばそうではなかった。むしろ余計に疲労が募ったようだ。それを察したのだろう、日番谷冬獅郎は一護が立ち上がるのに手を貸しながら 「これから打ち上げらしいが…どうする?」 無理そうだなと続けるつもりだったのだろう、一護の意向を問うた唇は寸前窄められたようだった。どうするも何も…と一護は肩を落とす。疲れているのだ。そんなものは傍目にも明白だろうに、それをわざわざ訊ねるなんてと、男の気遣いを読み取りながらも八つ当たりに考えてしまうのは、この男に対して未だ警戒心が溶けていないからだろう。男の貌を見ていれば思い出されてきた。撮影の佳境にはベッドだったかソファだったかに押さえられて、浦原に跨がれて上からフラッシュを焚かれた。一体何のためにこの男が必要だったのか今もって一護には理解できない。ただ己の苛立ちを掻き立てただけではないか。 あー…と一護は面倒臭そうに唸って、断るだけなのに何を間を取らなければならないのかと、自身さえもが不可解だった。 「寝たい…」 回答は実にシンプルだった。疲れた息を吐きながら、男を見上げてそれだけを返した。寝たい。実に単純にして明快だ。分かり易いことこの上ない。 しかし日番谷冬獅郎はというと何故だか釈然としない表情を浮かべていた。怪訝そうな、腑に落ちないというような。日本語で返したつもりだが、舌が縺れて上手く伝わらなかっただろうか。応えない男への懸念にもう一度答え直そうかと口を開いたところで 「浦原」 と男は喜助へと呼びかけた。部屋の中心辺りで5,6人と輪を作って何やら話し合っていた浦原喜助が振り向いて笑い掛ける。 「なんですかぁ?」 上機嫌だ。浦原喜助が相好を崩していないということはそうあることはないのだけれど、今ほどの崩れっぷりは中々に見られない。一護には初めてだったかもしれない。 「謝礼はいい。コイツを貰っていくぞ」 「は?」 とは、一護と喜助の二人の声が重なった声だった。同じ反応を示した二人はともに呆気に取られて、咄嗟の対応に出られなかった。結果、一護は日番谷に正面から首をホールドされる形で引き摺られていくこととなり、追い縋るべき喜助はその一歩が出遅れた。 「ちょ、ちょちょちょっ、ちょっと待ってください日番谷サン!?」 輪を飛び出そうとした喜助へ伸びた手も振り払って喜助は二人を、否、この場合は日番谷を追い掛けた。一護は如何にも本意ではない格好で男に引き摺られていっている。せめて前を向かせてやればいいのに、後ろ向きでは転びかねない。 「待って下さいってば、ねぇ!」 『コイツを貰っていくぞ』男の発した科白の意味を理解しないほど唐変木ではないつもりだ。己の読み解いた通りの意味で男が言ったのなら、それはお子さんを預かった身として親御さんに顔向けできないというものだ。 喜助は必死で男に追い縋った。袖に纏いついて男の足を止めようとした。少年を抱えて、大の大人にしがみ付かれては流石に男も窮まったのか、玄関ホールへと続く廊下の半ばで3人は立ち止まった。 「困りますよ。お礼ならちゃんとしますって言ったでしょう?一護さんは預かりものなんですからアタシの勝手には出来ないんですって」 無茶言わないで下さいと、喜助は焦燥感たっぷりの表情で訴えた。しかし男に堪えた様子はない。もはや一護を連れて行くことは決定事項として不動のようだ。そうして男は出会った頃から変化しない仏頂面のまま、心持ち喜助へ身体を傾けて云った。 「変な勘繰りは止せ。コイツが寝たいっつうから部屋を貸してやるだけだ。お前らはこれから打ち上げだろう。今にもぶっ倒れそうなコイツを一人で帰らせるのか?それなら善意の俺が部屋を貸してやるのが当然ってもんだろうが。幸い俺の家はこの近くだしな。車を使うまでもねぇが…歩かせるのも何だから使うか。足代も要らねぇぞ。全部俺が持ってやる」 嘘だ。後半部分はどうだろうが、前半は、特に冒頭部分は嘘だ。喜助の第六感が訴えている。全神経が警鐘を鳴らしている。 「それならアタシがちゃんと家まで送らせていただきます!遠足はお家に帰るまでが遠足!撮影はお家に帰すまでが撮影です!」 それお前、今考えただろう、とは男も云わなかった。代わりにどうしても譲れないと、意志の篭った一言を投げた。 「次もこの手を貸してやる。まぁ、使う予定があればの話だがな」 ひらりと、一護を捕らえていない方の手を喜助の眼前で振って、それは喜助にとって大きな魅力を放った。否と返すに短くない時間を必要とするほど。そうして、結局、喜助の口は引き結ばれたままだったのである。 「じゃあな浦原。ただしコイツ限定って条件を付け加えておくぜ」 悶える一護を絡め取って引き摺る男が玄関口で繋げた言葉に、はっと我に返っても、それまで身じろぎもせずに見送っていた喜助には今更の話だった。 2009/02/12 耶斗 |