My sweet Late riser




 久しぶりに仕事がない日(頑張りすぎだと部下に横取りされた)、のんびりと庭に出て池の鯉を眺めていた。時折、鯉の尾びれが水面を叩いて涼やかな余韻を残していく。金や朱色に錦の鯉。苔生した岩に囲われ優美に泳ぐ。囲われながらその鰭手は伸びやかに、自由な風に優雅に泳ぐ。
 鯉は、世界を知らぬのだ。
 俺が知るおよそ世界と呼ぶものを、彼等は知らぬと冬獅郎は嘲るでもなく羨むでもなく思う。
 狭くは無い池をぐるぐると回るばかりの彼らにそれを理解するだけの知能があるとは思わないけれど、彼らに現状以上の住処を望むほどの、他と比較して考える能力も欲もあるとは思わないけれど
 下手に世界を知っている冬獅郎は、鯉の目で世界を見ようとする。
 緑に濁った水の視界に見えるものは?
 仲間の身体と揺らめく藻草だ。
 つまらなかろう。冬獅郎は吐息つきつつ疲れたように首を傾げた。
 無意味に回せば、秋の蒼天の高くを雲が漂い、自分もまた塀に囲まれた敷地の中にいるのだと思い出す。
――――外に出よう
 家で休めといわれたって、働くことに馴染み過ぎた身体にそれはやや酷というものだ。気を紛らすために庭へ出ても、内外を隔す塀を意識してしまえば息が詰まる。まるで焦がれるように外を思い、身支度のために部屋へと引き返した。




 屋敷の外に出てもそこはまだ塀の中なのだと、私服の冬獅郎は行き過ぎる人々の何も考えていないような顔を眺める。半ば勝手に動いている足が己を何処へ連れて行こうとしているかなど冬獅郎は考えなかった。空が誘っているから、ただその方向へ向かっている。太陽は真上にあった。まるで標のように虚構の世界を照らしている。あまねく世界を包もうとするような熱の塊は傲慢だと、地面に反射する眩しい光に目を細めた。視界がまるで他人のもののようだ。自分は誰かの身体の中に入り込み、その水晶体を通して世界はまったく無機質だ。
 忙しい人間に暇はよくない。
 考えることがないのは苦痛だと、痛くはないが鬱陶しく思えて足の裏に意識を向けなければその場で眠ってしまいそうだった。
 普段気にかけることのない街の人間たちは塀の中で笑っている。




 生家―――正しくはないだろうが、この世界での生の初めを過ごした家屋は相変わらずそこにあった。あったけれど既に知らぬ人間が住んでいた。どれだけの時間が流れたかと、敷地の前に立つ冬獅郎は数えようと思って定かな記憶がないために諦めた。匂いとして思い出は甦るのだけれど、映像にして見ることはできない。見たとしてそれは、己が勝手に構築した影でしかあるまい。
 執着するということがなくなって、それを特別と感じることもなかったけれど、過去が希薄なことに何とはなしに寂しさを覚えた。物足りなさが不快だ。
 だからまた、塀の外のこの場所でも目の前に壁の構えているような圧迫を覚える。急かされるようにその場を離れた。




 だんだんと妙な具合になってきた。
 行き場をなくして彷徨しているような様に冬獅郎は自身、何故だか分からず焦っている。
 何処か行きたい場所があるはずなのに‥
 それが確かかどうかも分からないなんて。だけども迷うほどの余裕もないから冬獅郎は探す。何処か、何か、それは疎薄な記憶の端々に焼き付くようにあるものだ。忘れてはいない、そこに見える。なのに象となって己に示されてはくれないことがもどかしい。
 気付けば景色は流れるように脇を通り過ぎていて、風を切る音に自分が走っているのだと知る。それだからといって速度を緩めることはなく、むしろ一段と速度を増して冬獅郎は流魂街の、もはや街ではない森の中を、枝に衣手を引かれ引かれそれにも構うことなく一心に駆けた。
 何を目指しているというのだろう。何を追っているというのだろう。
 けれど向かう先に求めるものはあるのだと、それが裏切られることもまた予想しながら後ろを振り返ることなく駆けた。
 屋敷からは随分と遠く離れていた。




『刀も持たず無用心だな』
 憤るようでありながら泣き出しそうな顔は冬獅郎の愛刀を押し付けながら哂おうとしているようだった。
――――探していたものは見つからなかった
 何処ともしれぬ森の中で月の沈むのを冬獅郎は木の梢に腰を下ろして眺めていた。遠く幽かに窺える灯りが流魂街のものなのか、それとも己の住まう瀞霊廷のものなのか判然とはしない。
 何故彼がここにいるのか?
 後方から近づいてくる気配があることは知っていたけれど、纏う霊圧が誰のものかと注意を傾けることはなかった。それをも含めて彼は非難しただろうか。太陽の下では痛いほど明るい橙色の髪も、月の影には柔らかく色を変え風にそよいでいる。夜風は肌に沁みる程度には冷たくなっていた。
『一護‥』
 呆けたように呟いた冬獅郎へ少年は困ったような顔になる。驚いたのかもしれないし訝ったのかもしれない。それとも、純粋に心配しただろうか。可笑しくてふ、と冬獅郎は頬を緩めた。そうすればまた少年の表情は変わった。
『探したんだぞ』
『他の奴らも?』
『俺一人で』
 刀を受け取り、その感覚を確かめるように目を落とせば少年は踵を返した。付いて来いよとその背は言っている。走り続けることに飽きた身体は程好く疲労していたが、枝を移った背中が己の動くのを待っているから重い腰も上げる。零れた吐息は安堵のものに似ていた。
 立ち上がり、枝の先まで行くと少年が振り返る。見上げる瞳が縋るようで冬獅郎は微かに後悔を覚えた。あぁ、心配させたのだ。意地っ張りな彼がそれを正直に口で伝えることはないと知っているから、そうさせないよう予防線を張る役目を争ってまで手に入れたのは自分なのに。直ぐに行って謝らなければならないのに足を踏み出すことを躊躇った。
――――探していたものはなんだった?
 ‥わからない。
 ”そんな気分”になることは時折あるものだ。酷く昔を懐かしんでみたり、酷く今を儚んでみたり、現実感を伴わない時間を無為に過ごす。
 逃避だったのか。
――――何からの?
 わからない。
 おそらくは、なんでもないものからの。
 表すなら、壁。四方を囲み不愉快な閉塞感を与える高塀。
 少年は冬獅郎を見つめている。陰の被さるその貌を、探るように見上げている。どうしたのだと問うようだった。気付いているのだ。冬獅郎が躊躇していることに。月の影に清かなその瞳を直視できなくて冬獅郎は曖昧に視線を逸らした。心臓の鼓動が明瞭に鼓膜を打つ。己が存在しているという実感が指先を震わせた。
 何から逃げたいというのだろう。そんな妄想はとうの昔に解消されたはずだった。ただ前だけを見て、前を‥後ろは、過去は
『冬獅郎‥っ!』
 慌てた声に現実へと引き戻されれば冬獅郎は少年の腕の中にいた。
『一護?』
 抱きしめる腕の強さに冬獅郎は呆気にとられた。何を必死になっている。
 どうしたんだと訊ねる冬獅郎に腕が強張ってしまったかのようにぎこちなく彼は腕をはずして『ごめん‥』と弱弱しく呟いた。謝ることはないと思ったけれど、呆気にとられたままの冬獅郎はあやふやな返事を返しただけだった。
『帰ろう‥早く‥』
『あぁ‥』
 離れた熱が名残惜しく思えたが今度は向けられた背を直ぐに追うことで誤魔化そうとしたのだけれど、意志とは関係なく少年の足が枝から離れようとした時彼の腕を取っていた。
『冬獅郎‥?』
 池の鯉。
 水面を隔てて揺れる空。
 焦がれ、焦がれても届かない。
 口を開いてから科白を考え、そうして意識の外で舌は言葉を紡いだ。
『お前、今日はなんでこっちに?』
 くしゃりと歪んだ顔をどう理解すればいいか分からなかった。




 冬獅郎の頭には大きな縫い痕がある。豊かな銀髪に隠れてそれはもうまったく目立たなくなったけれど、肉の盛り上がった白い縫い痕の奥で頭蓋は一度剥れそうして再び接がれた跡を残している。
――――命を落とさなかっただけ幸運でした
 その時の彼の状態を診た卯ノ花はそう表現した。それは彼女の力不足をいい訳するものではない。彼女は他から秀でた存在だ。彼女は、己へ覚悟を求めていたのだ。己を痛ましいものとでも見るような目は見返すに堪えるものではなかったけれど。
 彼女の治療は完璧だった。結果、身体機能に支障は残らなかった。事務処理能力も下がらなかった。以前のままの彼だった。
 ただ、時間を逆行する。
 ある過去からこっちを行ったり来たりしている。
 昨日は100年前だった。一昨日は50年前だった。
 だけども過去は積み重ねられていくのだ。時計の針が狂い始めたあの日から重ねられてきた時間が、その定められた過去の時点を狂わせないと何故いえる。俺がこの世界に渡ってきてからの時間をいつか越えてしまわないことがないとどうしていえる。
 それが今日起こったのだ。
 一護は不安に胸が押しつぶされそうになる。吸い込む空気が重くて、吐き出しているはずなのに溜まっていく。
 明日は、どうだろう。今日より昔に行くのだろうか。俺を覚えては‥いないのだろか。それともつい今しがた別れたばかりだというように親しげに笑いかけてくれるのだろうか。
 怖くて、恐くて、堪らない。
 今、冬獅郎は部屋の中で眠っている。一護はその部屋と障子を挟んだ縁側に座り、冬獅郎の寝息に耳を澄ましている。不安に駆られたとき、彼はこの背を抱いてくれた。後ろから優しく抱きしめてくれた。その彼は、確かに今己の後ろにいるというのに。
 何故、こうも独りなのだろう。寂しいのだろう。
 切ない、のだろう。
 生きていてくれるならそれでいいと、己はあの時確かに云った。
 後悔している。嘘をついた。だけどもあの時には真実だと思っていたのだ。思っていられたのだ。
 冬獅郎‥
 抱えた膝に顔を押し付け、明け始めた空へ瞳を上げる。
 込み上げるものが泪だと知っているから、泣くことを拒んで目を開く。零れる前に乾いてしまえばいいと、暁の凍えるような空気に眼は痛んだ。






 終

『unskillful』さんからタイトルをお借りしました。

2005/11/27  耶斗