――――ぱらりと形だけ頁を捲る指先を見ていた。
――――焦点を彼に合わせるときだけ周りの景色がぼやけてしまうのはまるで夢をみているようで、ひらひらを宙を泳いでいるようなのはきっと蝶の見ている夢なのだ。
――――蝶の見ている夢を己(おれ)は見ている。




「毎度のこと…」
 少年の唇が呆れとも諦めとも取れる吐息を転がしながら開かれる。五月の暑気に彼の肌は汗ばんでいるようで、瑞々しく滑らかだ。瞳も蕩けたように己を見るのは、梅雨前の熱気に参っているのだろうか。それとも嘆息の通り嘆いているのだろうか。
「凄い人気だな。何万部だって?」
 小説の価値を数字に直そうとする卑俗さをその口に乗せる無礼に眉を顰める代わり、口端を持ち上げる。眇めた眼が剣呑であることを悟らせないならばカーテンを引いた薄暗い室内、優しげに微笑んでいるように見えるだろうか。
 少年が己の書いた小説を一片も読んだことないのを知っている。いつだってテレビや週刊誌や平積みにされたそれらへのポップから読み取る大衆的で表面的な他人の評価しか知らない。知らないで、お前は凄いと褒めてみる。今だって本に巻かれた帯の嘘か真か定めようの無い数字と謳い文句をだけ見たのだ。己の言葉など一片辺も覗いてやくれない。
 それを隠しもしない。

 その証に、自ら言い出した質問も初めから関心など無かったとでも云うようにそっぽを向いて、その癖、分厚い装丁のそれを恭しくテーブルへ戻した。銀鼠色のざらりとした表紙を撫ぜた指先の、指紋の感触を思い出せる。
 想いを交わしたあの頃の、甘やかな空気は今はもう無い。余所余所しい他人めいた遠慮と牽制が己たちの間に一定の距離を取らせる。一方的に少年の側から。

 何時から不信は在るのだろう。



「何時になったら読んでくれるんだ?」
 思っていたよりも丁寧な声音にぞっとする。棘を窺わせないほど切っ先の鋭いことを悟って、嗅ぎ取られてはいないかと臆病が頭を出す。柄にも無いなんて、その柄を作ったのは誰なんだ。

 声を詰まらせる彼の正直さを愛している。
 けして読書家ではない彼が、己の本だけでなく他人の本をも読まないことはささやかな慰めだ。己でない誰かに現を抜かすことなど許せない。己が小説に従ずる者であればこそ。いずれ殉ずる者であればこそ。
 己の分身とも云える、己自身とも云える、彼へ贈る己の容を何時になったら紐解いてくれる。
 魂を削って作品を生み落とす方法はお前が教えたのに。

「……読んだんだよ…」

 読んだんだよ。それはただ一冊だけ。彼と己とを引き合わせた最初の短編集。それを読んで彼は己を認識し、心に留め、出会った時その偶然を喜んでくれた。
『日番谷…先生?』
 あの喜色に染まった頬の麗らかだったこと。春の雫が落ちたかのように、己の胸を暖めた。
 サイン会に並ぶことも出来ないほど秘かなファンであったのだと遠慮がちに握手を求め、目も合わせられず細身のスニーカーの上を迷う視線は、己の靴先に差し掛かることさえ憚るようで。握った手を離せなくなったのは閉店間際の駅前の本屋の一角だった。細雨が降っていることに気付いたのは二人並んで出た軒下でのこと。夜に振り出す雨は頃合を判じ難い。暗い空を見上げて困っている彼の言い出したい言葉を必死で推理し、思いが重なっていることを願い、『駅まで走ろうか』と一度握った右手を今度は左手で握り雨の中へと引張った。
『ひつ、がや…っ』
 驚きと困惑と、自惚れでなければ悦びと。辿り着いた地下鉄の階段で息を切らしながら
『俺…反対方向…』
 と可笑しそうに笑う彼へ
『あぁ、俺も反対方向だ』
 と答えたときの、丸められた目の無邪気さ。直ぐに溶解して声を上げ笑った彼本来の明朗さ。
 緊張の糸を結びなおす必要などないと、お互いに分かっていた。
 名刺を持たないから電話番号を。
 携帯電話は持たないから自宅の番号を。
 住所を教えてもいいと言ったなら、そこまではと遠慮した。警戒の色が滲まなかったことに安堵した。
 最初に出した短編集。集めた作品には同性への友情を超えた愛を思わせる一本が含まれていた。

 己へ向けられない横顔が迷っている。別れることなど言い出せないのは二人一緒で。
 躰を重ね、言葉(うた)を重ね、確かめ合い、通じ合った。皹が二人の距離を割いたのは何が切っ掛けだったのか。

「冬獅郎…俺は…」

 彼の目が重大な告白をしようと彷徨う。道に迷った子供のように悲壮な顔つきになっているのは、彼自身絶望しているからかもしれない。何に絶望するというんだ。己は今もお前への愛を、証としての作品を、著し続けているというのに。
 恋愛小説家の名を冠された己の手になる登場人物たちの悲喜劇は、肉を搾るような叫びは、全てお前を思えばこそ生まれているというのに。
 恋を告げ、愛を誓い、キスをした。
 約束は今も息づいているというのに。

「読んでるんだよ……、読んでるんだ。お前の本。
 読めずに……閉じるけど……。読んでるんだ」

 冬獅郎、と口に出して呼んだのではないけれど、己へ向いた彼の眼は前置きのように己の名を呼んだ気がした。

「単純なことなんだ。酷く、単純で、子供っぽい…。本当、嫌になるほど馬鹿馬鹿しいことで…」

 喉仏を上下させる彼は緊張に喉を嗄らしている。飲み込むのは空唾か。懸命に自身の心を説明しようとするたどたどしさは彼の口下手も手伝っている。我慢が得意で、我儘も言えなくて。けれど曲がったことは許せなくて。我慢などしていないと大口を叩く彼は、傍からはそう見えてしまう潔癖な人間なのだと自覚しない。
 自覚しない彼の瞳は綺麗だ。

「俺はアンタと別れたいなんて思ってないけど、俺はアンタの言葉が本物なのかどうか分からなくなるんだ」

 不意を突かれた言葉に反応が鈍る。彼の目は己を見ている。今や真っ直ぐに。必死な顔で見ている。

「アンタの言葉は綺麗過ぎて。アンタの作品と変わらなくて。俺はアンタが本当に、俺に向けて言ってくれているのか分からなくなる」

 ブラウンの目、黒い虹彩、孔の空いたような瞳。詰っているのか、縋っているのか。あるいは試しているのだろうか。いいや、問い掛けている。ただ純粋に問い掛けている。彼の目は見極めるために開かれる。
(見極めるも何も――――――)
 彼は怒り出すかもしれないと懸念しつつも、まず答えたのは抑え切れなかった失笑だった。
 彼が僅か瞠目し、訝しげな眼差しが向けられる。自分が困った表情をしていることは分かる。眇めた視界に彼がぼやけて、笑みに曲がった口を戻すことも出来ない。
 これが現実だ!個人の妄想など敵うべくもない!


「どう説明しようか悩ませるなんてお前くらいだよ。お前の方が余程小説家だ」 

 瞬かれた彼の目は、今度こそ己の正気を心配するものだった。





 俺自身を本にしてお前に贈る、そのつもりで書いていたのにと云ったのは仲直りだと強引に引きずり込んだベッドの中で。
 睦言のつもりで囁いた告白にあろうことか『俺は生身のアンタがいい』なんて付き返された。『素直な気持ちで言ってくれ』と。
 生身の俺と云われても骨の髄まで小説家なもので、気取った口説き文句から陳腐な死語まで一気に噴出してしまうので

「……………なんて言ったらいいのか分からない」

 降参すれば

「それでいいんだよ!」

 最高の笑顔と力一杯の抱擁を頂いた。










小説家の思うこと

2009/05/13  耶斗