05.苦




   苦い‥
口の端に伝った血を思わず舐めて眉を顰める。冷えた空気に麻痺していた皮膚がようやくぴりぴりとした痛みを頬に送り始める。
随分容赦のないものだ。嫌がらせにしては度を越している。
逃げ込んだ隠し部屋の冷たい石壁に緊張した背を押し付ける。
「どこだスネイプ!」
ばたばたと派手に足音を立てながらドアというドアを開けて回っているらしい音が響く。
何故誰も止めないんだ‥
諦めているのか、恐れているのか。
教師たちも引き払っている塔の隅では、そう人間も残っていないためか。
面倒くさい。
スネイプは思う。
面倒くさいのだ。けして対抗できないわけではない。
やり返してやろうと杖を取り出しもするけれど彼らの後ろにいもしないあの人間の顔がちらついて気がそがれる。しかしながら当の本人は気が付いていないようだが。
いつも困ったような、申し訳なさそうな顔をして己を見つめてくる甘ったるい匂いをさせるあの男。
――――気が削がれる。
「ここか!」
思わず眉を顰めたくなるほどの大きな音を響かせて石壁を蹴りたおした人物に目を奔らせる。逆光に輪郭さえ覚束なくさせているくせにぎらぎらと輝く目だけは顕在で。
「しつこい男だな貴様も。そんな熱心に追ってくれなくとも結構なのだが?」
「ぬかせッ」
手にしたままの杖も向けられて、とっさにスネイプも杖を構えた。
「「エクスペリアームス!」」
二人の中心で火の爆ぜるような音とともに閃光がはしった。魔法の衝突によって生まれた風が二人のローブを吹き上げる。
「なんだ、練習してたのか?スネイプ。いつもは手も出せないくせに」
「出せないのではなく出さないのだ。野蛮な行為で自寮に迷惑をかけたくないからな」
ふん、と鼻をならして笑う男にスネイプも顎を持ち上げて見下すような視線を向ける。
「負け惜しみかよ。言い訳は見苦しいぜ?」
「言い訳でもないし負け惜しみでもない。正統な『理由』だ」
『理由』‥ね
男が喉の奥で呟いて、歪めた唇からまた魔法の呪文が紡がれる。そのはしりの言葉に呆れと感心を半々にスネイプも己が身を守るため杖を振るった。




ちらつくのだ。
目蓋の裏だか眼球の表面だかに焼き付いたあの影が。
ちらついて眩暈さへ起こすのに、それでも飽き足らずにこの腕を止めようとする。
迷惑この上ない。




「ふん‥。結局こうなるんじゃねぇか‥」
自分も大概ふらふらだろう。
言い返したかったが、重い息だけが吐き出される。仰向けに寝転がって普段よりも重く圧し掛かる大気を全身でうける。
このまま踵をかえして去ってくれるかと眺めていれば、くそっと悪態をついて男も埃を巻き上げて腰を落とした。
「使いすぎた‥」
荒い息をつきながら溢された言葉は、本当にそう思っているのだろ苦々しく、男を煽るだけだとは分かっていながらスネイプの口から笑いがついて出た。
「何笑ってんだよ」
喉をふるわせるスネイプを、面白くないという目をして男が睨む。
「必死だと思ってな‥、我輩を軽くいなせなくて驚いたか?」
息をつめる気配がして、スネイプはまた笑った。
「別段驚くこともあるまい。我輩もけして劣等なわけではないからな。」
自慢ではない。事実を述べているだけだ。だのにますます深くなる眉間の皺をみてスネイプはさらに笑いを誘われたけれど、直に表情を払って問うた。
「で?貴様が我輩を追いかけた理由は何だったんだ?」
突然喧嘩を売られるのはいつものことだけれど、今日のようにしつこく追いかけられたのは初めてだ。多大なる被害を被ったが、それ相応のものも返した。楽しませてやったといってもいい。だから、理由を尋ねてもよかろう。
「なんだ、云えないような理由なのか?」
それとも本当にただの憂さ晴らしだったのか。
鼻で笑えば、強い眼光が睨め付けた。
「リーマスにもう関わるな」
思いもかけない返答とはこのことだろう。不覚にもそのままの表情が現れてしまって、慌てて目蓋を引き下げる。
「我輩とあの男が‥なんだというんだ?」
歪めた口から出た声は震えてはいなかっただろうか。
「薬草学で席が隣だからと手を貸すのは仕方がねぇ。
図書館で出くわせば二言三言も交わすだろう。けどな‥」
一息おいて、男は一段と声を強めて言った。
「夜中にあいつと二人っきりでなにやってんだ」


云われたことにしばし唖然としていたが、直に自分を取り戻してスネイプは嗤った。
「‥その語調だと、大体察しがついておられるようだが?」
「てめぇ‥」
「心配するな」
「あ?」
そうだ心配には及ばない。
スネイプから嗤いは消えて、平常の過ぎるほどに落ち着いた声が戻った。
「貴様の懸念しているようなことにはならん」
行け。
そういってごろりと身体を返した。
背の向こうで戸惑うように逡巡する気配が伝わり、ついで影が頭の越えて伸び、静かに立ちさる音が床を伝って耳に木霊した。



そうだ行け。立ち去れ。
あの男の匂いをつけた人間など、視界の端にも入れたくない。

スネイプの脳裏に数日前に交わされた校長との会話が思い起こされた。












2005.Winter  耶斗