華宵 宵闇にはらはらと桜の花が散っている。人里離れた森のなか、獣道の果てにただ一本。巨木に紛れて漫然と花弁を散らしている。 年を経て、大木となった櫻の袂に一人の男が立っていて、なんと不吉な男なのだろうと眉を顰めた。白の袂を引寄せて、腕組みする男の背中はやけにまっすぐ伸びている。 よくもこんな場所を訪れたものだ。 桜の花弁は不気味なことこの上ないというのに。 白の花弁は夜ともなれば淡く発光し、夜闇に淡く浮かび上がる。種を明かせば月の明りが浮かび上がらせているだけなのだろうが、月といえば太陽の光を反射しているのだから、さらに反射されて地上におりる光なんて屍骸じゃないか。 月の光は死んだ光だ。 そうでないなら何故白い。 白は死人(しびと)の色なのだ 白の面は弔いの意味だと、考えるようになったのはいつの頃か‥ 殺す者は、同じに死んだ者なのだと、仮面が己を幽鬼に変える感覚を覚えるようになったのはいつの頃からだろう 朱の隈取りで狐に化けた白面は、余計な紅に汚れながら金糸の頭の側面にずりあげられている。朱線に黄金の見事な調和が白面の上で踊っている。欠けた端々は使い込まれた年月を教えるようであり、よくよく見ればうっすら皹の入っているのも窺える。 しかしそれらは少しも精彩を欠くことなく、むしろ威風堂々とした存在感を与えている。 桜の花弁は死人の色に発光して、あたかも女の爪のようだと思う。淫蕩な女の蜜がいっぱいに詰まった一枚の爪。 そのくせうっとりするほど儚げに散り落ちるのだ。 散って大地を白く埋める。真白の絨毯を敷き詰めて――――真白の棺を準備する――――太い根が土の上に盛りだしてその幽玄さを醸すのは、まったくもって春の霊を招いているようじゃあないか。大きな腕(かいな)を広げて、惜しむ様もなく盛大に花弁の風を吹かすのは、祝っているようにも嘆いているように見えるじゃあないか。 月は朧に雲の向こう。恥かしげにしなをつくる処女のようでいて、手練手管を知り尽くした花魁のようなしたたかな艶やかさで天空に滲んでいる。 空を見上げていた顎をゆっくりと下ろして、ナルトは微動だにせず花をみている男へ視線をくれた。別段月の在り処を探したのではないが、目の前の男から視線を外したかったのだ。そのくせ厭きもせずまた目を戻したのは、すぐに踵を返さなかったのは、嫌に網膜に残る残像から逃れられる気がしなかったからだ。 男は、後姿だけでも人物を割れるほどには見知った人間だった。 あるかないかの風にゆれる髪はたっぷりとした黒髪で、ときに女も羨むほどではないのかと思うほど繊細な、真っ直ぐな髪だ。腰まで届くそれは、今は結われず彼の背に広がっている。 ぶらりと散歩を思い立って家を抜け出たような出で立ちだ。白の着物は思わず背を正しそうになる高貴さを彼に与えて、振り返ってその目にみられたなら、計らずもそうしてしまうのだろうけれど。 何時だって嘘のない目でものをみる。その瞳の前では、偽りで身を護っていた頃の己が身の内に甦り、叱られているようで居たたまれなくなる。 彼は正しいから、余計に。 知った人間と認めたのだからこのまま声もかけずに去るのはなんだか礼を欠く行為のような気がして、ナルトはその場でたたらを踏んだ。振り返らない男は己の存在に気付いているのかいないのか‥なんとも意地悪な男だと心中で詰った。 しかしながら生真面目な彼がそんな行いをするとも思えず、ならばやはり気づいていないのか。それならば黙って去っても差し支えあるまい。 けれどナルトの思考を裏切って、足は勝手に男の方へと向かった。 「ネジ」 風に乗った花弁が爪先に届こうかという処で足をとめ、夜の静寂を邪魔しない声で名を呼ぶと男は振り向かず、目線を下ろしただけだった。顔を俯けた格好は、まるで己を哂っているようで、罠に嵌ったような居心地の悪さを覚えた。 ――――嫌な‥男だ‥ 嫌ってはいないが苦手な男だ。性格がまるっきり違う。興味を抱かせる相違でも、倦厭させる相違でも、尊敬させる相違でもない。ただ説明のつかない違和感となってナルトを惑わせる。戸惑いに、饒舌なはずの口は失語したかのように言葉を探さなければならない。 苛立ちに舌打ちしたいけれど、奥歯を噛み締めることで堪えて、わざとへらりと痴呆のような哂いを浮かべ、ナルトは居直ったように顎を上げた。 「偶然だってばよ。散歩か?」 揶揄る口ぶりで、相手が相手ならば売り言葉と捉えるだろう。 けれどナルトは傲岸な態度を崩さず、振り返らない男の背中をじっと凝視する。ありったけの恨みのこもった目をして見下すように睨み付ける。 やがて、祭司の神を祀って謳うような声が朗々と空気をふるわせた。ナルトはそれが何なのか、咄嗟の判断ができなかった。 ――――歌っている‥? 男は歌っているのだ。歌いながらまた宙を仰いでいた。 戸惑った。拍子抜け、などというものではない。思わず本人かと疑ってしまうほど彼には相応しくないと思ったのだ。あるいは正気かとさえ勘ぐった。 長々とした音律は、この国の言葉を語っていながらまるで異国の言語のようにも流れる。ときどき喉の奥で掠れる男声独特の痺れるような音程は、櫻の花弁舞う夜の夢幻に相応しい神楽となって天に昇っていくようだ。神々さえも誘われて降りてくるようだ――――。 ――――あぁ、そうだ‥ 恭しくさえある歌声に、訝って、緊張した心はやがて解れていった。まるで子供をあやす眠り唄のように、すぐには止まないそれに聞き惚れるように眼を閉じて、とろとろとまどろみの浮遊感がそぞりよって来た頃消え入るように声は細くなり、溶けるように止んだ。 ナルトに思考する力は消えていた。ただ、歌の余韻に浸っていた。 そうして、男はようやく声をかけた 「おかえり」と。 ささくれた心にその声は抵抗なく沁みこんで、ナルトは緩く瞼を開き、己が立っているのを意味なく知覚すると再び、今度は眼球を刺激するように固く瞼を閉じ、一度だけ頷いた。 呼気とともに開いて閉じた視界には、先に立つ男が振り返っていたのかどうか知れなかったが、妙に包まれた温もりを感じてナルトはやはり思考する気が起きなかった。そのまま眠りに入りたくさえあった。夜気はまだ冷えて、身体の熱を漫然と吸い取っていくというのに。ナルトは夜気に強張った指先を、何気なくつくった拳で知った。 ――――これだからお前は厭だ 花弁はただの花弁で、過ごした時の分だけ重くなり、役目を終えた満足に自ら枝を離れて土を寝床と定めて堕ちる。気まぐれに風にのり、最後の演目を舞い終えてから地へ下りることもある。 花は――花で――、月は――月でしかない――。 当たり前のことを、当たり前に男は還る度教えてくれる。 「ありがとう」 細い吐息を洩らしながら、微かく呟いた。 今、男は満足に哂っている。少しだけ口端を持ち上げて、安堵したように微笑んでいる。 ひらりひらりと舞い落ちる花弁は二人の髪、肩に、積もり始めたばかりだ。 終 歌う兄さん |