夢路 「ここにいたんですね」 帰りましょ。 云って、カカシは男の手をとった。里の外れの尾根の岩場に紅 い陽は近く、その熱を間近に覚える。高く結い上げた黒髪を風 に揺らしていた男はゆっくりと振り返り、さも今気づいたとい わんばかりに目を剥いた。 「帰りましょ、イルカ先生」 縋るような声音の、幼子のような甘えた仕草にイルカは微笑ん で、そうして口を開きかけ、考えるように、僅か眉根を寄せて、 そうしてようやく声を紡いだ。 「えぇ、‥カカシさん」 帰りましょう。 笑った貌は彼のもの。細めた黒曜は、靡く黒糸は、弧に撓む唇 は彼のもの。 彼はまさしく海野イルカ けれど、あぁ 「イルカ先生?」 「なんですか?カカシさん。」 男の手を引きながら、ざくざくと山の道を下る。砂利と枯れ葉 と夕陽でまだらに染まる。 喉がひりつく、緊張にか 項を焼く陽の熱さにか 「もう、あそこに行ってはいけません。行かないでください。」 「何故ですか?カカシさん」 握る手にこもる力を逃がしながら、強張る腕をそれでも平静な 顔して緩く曲げる。引かれたイルカはリズムを乱してカカシの 隣によろめいた。 「あそこから見える景色は良くないです。」 「山をみるのがいけないことですか?」 「里との境界が曖昧です。」 「結界を越したりはしませんよ。」 「抜け道通ってきてるでしょ?」 「表からは出られませんし。」 ざくざくざくと渇いた小石が足裏で磨れる。 さわさわさわと微風が葉々を擦らせる。 どくりどくりと耳の裏の血管が脈打つ。 「見つかったら、怒られちゃうから」 窘める風でなく哂って隣に顔を向ければ、同じく哂って見上げ る黒い瞳。 どくり、と心臓が肥大したような息苦しさにカカシはぴくりと 繋いでいないほうの指を震わせた。 背中に紅の陽を受けて、頸を捩ったイルカの半面が朱に染まる。 黒い瞳に朱が混じる。 あぁ、これは、この人は 細まる黒曜、靡く黒糸、弧に撓む唇。 陽を鈍く照り返す額宛。 木の葉の印を戴く彼は、里の『イルカ先生』 視線を戻せば紫がかった碧い空。紅に追われて逃げていく。 紅が、迫る。 「もう行かないで。」 泣きそうな声を、けれど震わせまいとカカシは前を見つめたま ま掌に力を篭める。 待たないで イルカは何も云わず、何も応えず、微笑んだままカカシに倣う ように顔を戻した。 両脇に聳える木々を枠に、宵を迎え始めた里の屋根屋根が眼下 に広がっていた。 終 2005/02/10 耶斗 |