君ヨ、笑へ 目を閉じれば目蓋の向こう、鮮やかに景色は広がるのに それらを捨てて直の頃は、それを後悔しないでもなかったが、 よくよく思い出して考えてみれば、己を悩まそうとするその人 の存在など己の思想と比べるには値せず、重くなりがちの己の 足は膝は、やがてすっかり軽くなった。 己なら頬の筋肉が攣るんじゃなかろうかというほどに口端を引 き上げて笑う男は、陽だまりの中で手を広げ、お前も来いと白 い歯を覗かせる。 こちらはといえば、みれば分かるように影に潜むが相応しい格 好をしているのにまるで気にしない素振りだから、俺も彼が盲 目だと思うことにして溜息つきつつ黒い布を引きずりながら陽 に透ける緑の草を踏む。 しかしながら盲目の彼は実に軽やかに野を歩く、石があれば越 えて歩き、花があれば避けて歩く。 だから己は余計嘆息して、重くなる肩を持ち上げ後をついてい く。 「お前暑くないのか?」 振り返りながら指差す先は己の纏う黒の衣装。 別に、脱いでもいいんですけどね。唯でさえ物騒なものを背に 抱えているのにその他のものまで晒すのはこの場を考慮してや めているんです。 「いいえ。慣れてますから。」 素っ気無いまでの涼しい返事に、けれど男は満面で笑って、高 く結った黒髪を散らしながらまた前へ向き直った。 ひょい、ひょいと森の入り口に差し掛かるにつれ増え始めた大 きな岩を危なげなく渡りながら男は楽しげに語り始める。他に 気を紛らすもののないからと耳を傾ければ、やれ近所の子供が 可愛いだの、昨日初めて通った道で綺麗な花が咲いていただの、 およそ彼の周囲には綺麗なものしか存在しないらしい。 「幸せですね。」 「幸せだな。」 自身のことを指して云ったわけではない言葉も、彼にしてみれ ば違ったらしく。幸せを共有するものとして認められてしまっ たようだ。けれど訂正するきにもなれなくて、男の軌跡を辿っ ていく。そしてそれは単なる気まぐれで、けして己の胸を暖め はじめる不確かな存在のせいではないとそれを追い払おうとし た。 男がようやく足を止めたのは、己の住まう里の外に臨む尾根に 出てからだった。 岩場でところどころ切り立つ先を覗かせるその端へ悠々と彼は 歩いていき、くるりと身体を反転させると、さぁみろと云わん ばかりに両腕を広げた。事実、自慢することもできるほどに彼 の背に広がる景色は広大で、山々を越え地と空の境がぼんやり と浮かぶのを望める。 「晴れてないとなかなかみれないんだ。」 遠くの地平を指して男は笑う。まるで秘密をみせる幼子のよう に嬉々とした表情で。そしてやっと気づく。 「里から‥出てしまったのですか?」 そうだとすれば不味い。早く引き返さなくては誤解されても仕 方がない。 それを気取ったか、けれど男は目を細めて 「里の境界の上にいる。」 越えてはいないが入ってもいない。 そんなぎりぎりのところにいると、そして俺だけが知っている のだと、男は笑って。吹き上げる風を抱きとめようとするかの ように腕を広げた。彼の黒い髪が、脇をすりぬけた風にぱさぱ さと舞う。 隣に並ぶ男の長く垂れさせた一本の尾も、風に浚われぱさぱさ と背を打った。 綺麗だろう?綺麗だよなぁ。 問いかけているのか、こぼしているだけなのか。ひとり問答し て、また男は笑っていた。 「陽が落ちるまでここにいよう。ここからみる夕陽がまた格別 なんだ。」 嬉しそうにまた笑って、そう云いながら男は踵を返し、岩を伝 ってさらに上へ登ったり、降りて下を覘いたり、木々の間を散 策したりと、既に岩のひとつに腰を下ろして休んでいるもうひ とりが忙しないと呆れるほど、立ち動いていた。 そうしてやがて訪れたその光景は目蓋の裏に脳裏に焼き付いて、 この胸を焦す。 紅が迫る絶壁の世界で、佇む男の輪郭は朱に溶けて。黒々とし た影を落す背中が捩れれば、同じく朱に染まった貌が哂ってい た。 目を閉じれば目蓋の向こう、鮮やかに景色は広がるのに。 そこで笑っている貴方を擁くことはできないのだ。 終 2005/02/11 耶斗 |