数年ぶりのその顔は、相も変わらずつまらなそうに、そのくせ興味深そうに、ただその容のまま紅の陽に照らされて。



 [紅の約束]



 立て付けの悪い引き戸は格子模様に曇りガラスをはめ込んでいて、荒く光を受けている。イルカは丁度開け放したその前にたって、玄関先に植えてある草木に水をやり終えたところだった。
 ブリキの如雨露を片手に彼は時間の感覚を失う。黒々とした瞳が、吸い込まんばかりに、見つめるのは久方ぶりの、己と並ぶほどになった背丈の青年。呼気さえ奪わんとするほどにその眼光は強く、イルカは真実体が痺れた。
「イルカさん‥」
 呼ばれたと思えばその男はイルカを玄関へ押し込み、そのまま上がり口に押し倒した。
 あっけなくも倒れてしまったのはイルカの萎えてしまった足のせいかもしれなかったし、覆い被さる影が思いのほか大きかったせいかもしれない。
 音もなく、痛みもなく。
 イルカは背にあたる板敷きの硬さも真綿のやわらかさのように思え、目を細めて笑うと、男の首に腕をまわしキスをねだった。
 「待ってたよ‥」
 眦から一筋、滴がこぼれ、こめかみまでを濡らして落ちる。
 「ずっと‥ずぅっと待っていた。」
 待ちつづけてこのまま、二度と逢えないままかと思っていたよ。
 攫ってくれ、彼は強請り、長い髪を首筋から垂れさせた男は頷いた。




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 [蒼の約束]



 五月雨に紫の紫陽花が濡れていた。
 傘をさし掛けた青年に男は笑って、形ばかりの会釈して好意に甘えた。
「まさかこんな処で会えるなんて思わなかった」
「こんな処って‥?」
 イルカは商店街で買い物をして帰るところだった。店をでた先で今にもと思っていた空模様から案の定雨が降り出して、濡らすわけにはいかない書類を片手に持っていたものだから軒先で立往生していた。そこに額宛をはずした平素な身なりをしたイタチが通りがかったのだ。
「こんな処はこんな処だよ。お前の買い物する姿なんて想像つかなかったから」
 想像してみると面白い。云ってイルカは笑った。
 滴が傘を打つ音はいつのまにか随分柔らかくなっていた。横路に入った二人の周りに人は一人も歩いておらず、旬の紫陽花が咲き誇っているばかりだ。
「そうですか?俺もたまには買い物のひとつも頼まれますが‥」
 確かにそう頻繁にはしませんね。と考えてイタチも微苦笑した。別段目的があって街を歩いていたわけではなかったから当然買い物をする予定もなかったのだが、雨が降り出したところで丁度イルカを道の先に見つけたのだ。イルカもまた傘を持っていない様子だったから、このまま濡れて帰ろうと考えていたイタチは方向を変えて笠屋に入った。
 そうしてイルカを送ることに成功したのだ。
 雨を吸った立ち昇る土の匂いが二人の鼻腔をくすぐる。雨に濡れる分だけ強くなる草いきれをイルカは好んだ。小雨の庭を眺めながら呑む酒も普段と違う情趣で旨いと思う。雨上がり、濡れ縁での月見酒もいい。
 そんなことから手元の仕事も忘れ、晩酌へ思考を飛ばしていれば、同時に忘れられていたイタチが僅かに劣る身長を伸ばしてイルカの顔を覗きこみ、咎めるような響きを込めて訊ねた。
「何を考えているんですか?」
「え?うわぁ!?」
 間近にある貌に驚いたイルカが仰け反るように身を引くと、濡れますよと云ってイタチはその腕を掴んで引き戻した。そうすれば否応なしに顔を近づけざるをえなくて。先ほどよりは遠のいたものの、十分に近いといえる秀麗な貌にイルカは辟易する。
「俺が傍にいる時は俺のことを考えてください」
「あ、あぁ。わかった」
 だから早く放してくれ、と言いたげな目でちらちらと掴まれた腕をみやるイルカに、何か思うように目を細めたイタチは一段強く手に力を込めて爪先立った。
「‥‥‥っイタ‥」
 掌で口を押さえたイルカは買い物袋を落としたことにも気づいていなかったようで、腰をかがめてそれを拾い上げたイタチにまた慌てた。
「う‥お、お前‥っ」
 礼を言えばいいのか、怒っていいのか分からなくなったイルカは差し出された袋も直ぐには受け取れなかった。
 それでもぎこちなくそれを受け取れば、色も変えずに己をみつめている年下の青年にいつものことながらやや悔しく思う。とりあえず文句くらいは云ってやろうと落ち着きを取り戻したイルカは口を開きかけ、それより僅か先だったイタチの言葉に阻まれた。
「俺は貴方のことしか考えていませんから」
 そのまま応えもきかずイタチは歩き出して。腕を引かれてついていくイルカが、腕を掴む力が緩んでいないことに気づくのは自宅の門が見えた辺りだった。




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