何度となく診て貰った傷のうち、ただ一つ、未だ消えずに残っている痕がある。
 残していくものがないからと、己の一部を切り取って置いていくように、男は俺の皮膚に痕を残して俺の前から消えた。






 優秀だとわが子の自慢話を聞かされている酒の席のこと。
 部屋の隅、付き合い程度に酒をなめている青年。溶け込んでいるような顔をして、ひどく浮いてるものだから「あれは誰だ」といい気分で話続ける男に聞けば、「あれが今話してる息子だ」とこれまた、否、さらに上機嫌で教えてくれた。
「やっぱり存在感が違うか?あいつはきっとでかくなるよ。けれどまだ中忍にもなれていないけどな」
 育ての親は赤ら顔して嬉しそうに、けれど少し残念そうに息子を眺めやりながらそうこぼした。
「そうですね。もうすっかり一人前な風格さえありますよ。年はいくつでしたっけ?随分落ち着いているようですね。このような席に慣れているのですか?」
「いやいや。あいつは酒より本が好きな奴だからなぁ。晩酌に誘っても勉強がしたいからと部屋に閉じこもるような奴だ。けれどまったく付き合いが悪いというわけじゃあない。こちらが忘れた頃にひょっこり現れて、『お付き合いさせていただきます』と屈託のない笑顔で新しいお猪口をもってくるんだ。台所からかすめてくるんだな。けれど誰も、何も、気づかない。上手くやるんだあいつは」
 まったく油断ならない奴だよ。
 と、自慢したい父親はそれはそれは嬉しそうに酒に痺れた舌を動かして。傍らのイルカはいつもの人好きのする笑みで相槌を打って。ときたま件の息子をちらりと横目に覗いていた。
 妙な存在感をもつ青年。
 くせのある長い髪を首の後ろで一つにまとめて、分厚いレンズの眼鏡の奥はレンズに反射する電球の光で、傾げる首の角度で、レンズに横顔に隠されていた。楽しげに仲間と語らうその横顔が、自分から顔を隠しているようにもみえて。イルカは結局宴が終わるまでちらりちらりと窺っていた。






「これは酷いですね。一体どんな授業をなさっているんですか?」
 眼鏡の奥の眼を一杯に開いて、通算5度の中忍試験を落第した青年が云った。心配するというよりも呆れたような声だった。
「授業中にこさえた傷じゃないよ。授業の準備をしていてつくってしまったんだ」
 おろしたての制服の袖を裁ちばさみで切られながら、イルカは腕の傷よりも廃棄処分になること間違いない服を思って眉を顰めた。
「すいません。傷にあたりました?」
 眉間の陰をそう解釈してみせた青年はまったく善良そうにみえた。
「いや、この服おろしたばっかりだから。勿体無いなぁって‥。はは、貧乏性でな」
 少し決まり悪げに笑って、無事なほうの手で頭を掻いた。
「ものを大切にするというのはいいことですよ。なんたって、僕等には使い捨てのものが多いから」
 簡単に言ってのける青年の言葉はたわいのない世間話な調子であったが、イルカには多くの意味を語っているように聞こえた。
「使い捨てって?薬だとか包帯だとか、忍具だとか?」
「ははは、それと、命だとか」
 やっぱり青年は軽い調子で世間話を続ける。
「僕等『駒』は命を与えられた道具に過ぎませんよ。命っていうのは頭が働いて、身体が動くことをいうのでしょうね。命令どおりに動く便利な道具です」
「そうかな。駒は駒でも自分の意志で道をえらべる駒だろう?命というのはただ血を通わせるだけのものではないはずだよ。心を生む始まりの力だよ」
「心?面白いことをおっしゃいますね。僕等忍に心があると?ところで心ってなんでしょうね」
「さぁ、明瞭したことはいえないさ。心は複雑なものだからね。色んなものが綯い交ぜになって一つの形をなしているんだから」
「まるで見てきたような言い方ですね」
「そうかい?」
「そうですよ」
 互いに哂いあって、気づけば腕の治療は終わっていた。
「相変わらず手際がいいな。お前なら中忍にならなくとも医療で上へいけるよ」
「しかし中忍にならなければ大きな任務へでれません」
「リスクの大きい任務を望むのか?」
「いいえ。そうではなく、リスクの大きい任務へ赴く仲間の手助けをしたいんです。そのためには一緒にいけるくらい強くないといけないでしょう?」
「お前は十分強いじゃないか」
「そんなことはありませんよ」
 謙遜して笑う男の実力をイルカは確かには知らなかった。
 けれど淀みなく宣言できるほどには、彼の力を知っているつもりだ。
「お前ほどの腕なら、階級など関係なしに補助へ呼ばれるさ」
 他の誰より上手いと思う、綺麗に巻かれた包帯に手を当てながら痛みがないことを確かめる。拳をつくって腕の筋を動かしても痛みという感覚を神経は運ばない。
「いつも思うんだが、傷は塞いでくれたんだろう?なぜお前は包帯を巻くんだ?」
「ちゃんとは塞げていませんよ。僕はまだまだ半人前ですから。お願いですから包帯をとって傷の具合を確かめたりなんてしないでくださいね?未熟な腕を見られるのは恥かしいんですから。今日風呂に入るときも濡らさないようにしてくださいよ。明日にはきっとふさがっているでしょうから」
「あぁ。わかったよ。いつもありがとな。助かるよ」
 流した血液は服の袖を半分以上染めてもまだ足りぬほどであったのに、包帯に血は滲んでいない。痛みもないのだ。当然ではあろうけれど。青年の傍らにあるゴミ箱に捨てられた、元は自分のものだった衣服の切れ端をイルカは椅子から立ち上がるときちらりとみた。もとは自分の腕にありながら、離れてしまえば、それもゴミ箱という、廃棄物だけを集める箱に入ってしまえば、こんなにも無感動になるものなのか。血の固まった布切れはきっとぱりぱりに渇いているに違いない。赤黒いその色はもとの衣服の色と似ていたけれど、やはり別種のものだった。
「じゃあな。カブト。また何かあったら頼むよ」
「何かがなにように気をつけてくださいよ」
 最後の言葉だけ苦笑ぎみに笑って、青年はドアをくぐるイルカに手を振った。
 数歩進んだ先で、扉の閉まる音を背中に聞き、イルカは巻かれたばかりの真新しい包帯を丁寧に外す。くるくると片手に巻き取っていく先から、左腕の包帯の厚みはなくなっていき、最後にはきれいに血の拭われた、怪我をする前そのままの腕が現れた。
 それをようく確かめるように目の前へ掲げてみたり、窓から差しいる昼下がりの陽に照らしてみたりして。それが、まったく、元通りの腕であることを確認し、くっと鼻に抜ける息で笑った。
 それからまた、今度はどの時間にあの部屋を、医務室を訪れてみようかと、いつもいつも行く度に待っている眼鏡の青年を思って思考を回らす。
 どんな日の、どんなタイミングで行ってみても、待っているのはあの男なのだ。他の人間の匂いも残る部屋で、イルカを待っているのはただ一人、あの男だけなのだ。
 まるで、他の者には見せないとでもいうように。
 まるで、他の者には触らせないとでもいうように。
 それがどれだけ真実に近いのかを、確かめるため、イルカは怪我をこしらえ治療にいく。今日の怪我は誰が治してくれるのか。今日の怪我もあの男が治してくれるのか。
 たわいもない会話のふりして己を挑発しようとしているような、生意気な年下の男を思って。イルカはひとりの廊下で静寂に遠慮するように密やかに、声を立てて笑った。






   あの男が里を抜けたと、否、間諜だったと聞かされたとき、イルカはなんらの感慨も抱かなかった。なんらの感想も述べなかった。あぁそうか、と。だからなのか、と。今までで、治せなかった傷のなかった男が唯一残した傷痕に掌を被せて。そういうことか、と静かに納得したのだった。







  通り過ぎた男たち〜薬師〜


2005/05/07 耶斗