同情しようものなら食い殺してやると
 いわんばかりにぎらつく眼で世界を威嚇していたのに


――――お前はいつから




 そんな狡猾な狐の目を










夜の残滓










それは自身でさえ騙しようのない罪








 貧相な胸だった。
 発育途中の少年特有の
 扁平な胸だった。

 肋骨なんて浮き出ていたし、
 肘や指も関節は尖って刺さりそうだった。

 そうして猛禽を思わせる渇欲を湛えて
 その両眼は炯々と光っていた。

 舌なめずりするでもないのに、紅い舌が覗くとき
 身体が凍えたように身震いするのは
 視線を捕われてしまうのは

 捕食者を前にする恐怖ではなく。
 だましようのない劣情が事実身の内に沸き起こっていたから。



 それは明確に”罪”だったのに










 瑞々しい青草の匂いが漂い始めた春の終わり。雨の匂いが濃くなった。
 どんよりと凝った中庭の大気は雨戸を閉めていない縁側から部屋の中へ侵入した。それはまるで精液のようだと、思ってイルカは自嘲した。
―――あれは、服につくとなかなかとれない
 今も肌に纏わりついている渇いたそれは、凝縮に巻き添えにした皮膚を引き攣らせて。掌で擦ればぱらぱらと衣擦れに似た音をたてて畳に落ちた。

 しどけなく羽織った着物から覗くイルカの背中は畳に擦れた痕が消えずに残っている。擦過傷から伝わるむず痒い痛みに初め、衣を羽織るのを躊躇っていたが、夏が近づいていても肌寒い夜風にそれをやむなしとした。
 脱力感と倦怠感が共に身体を支配して、それでなくとも立てない腰とこの結果を導いた過程とにイルカは腹立たしさを覚え、そしてそれを押さえ込む不満感にこの場から駆け出したい衝動に駆られる。それでも急き立てられるまま行動を起こせないから、結局は平素な顔をつくって何気なく月を眺めている態をつくろうのだ。けれど、やはり、衝動は治まってくれない。彼はさっさと、とっとと、この場から逃げ出したかった。
 自分への情けなさが恥かしくて。誰にも詫びれないから赦しも得られない。救いようがないから悲しくて。
 イルカはそれらを与えるこの場所から逃げ出したい。


 この部屋で嘗て一組の夫婦が布団を並べて眠っていた。
 間に子を挟み、川の字で眠ったこともあったろう。
 けれど彼等はこの部屋から離れた板敷きの一間で、折り重なるようにして死んだのだ。
 間に挟まれて眠っただろう子供は独り、修羅の道へ押し出されたのだ。
 その子供が少年から青年へ成長を遂げ、今自分を抱いている。




 跪いて赦しを請いたい。
 誰へでもいい。この卑小な男の所業を赦して欲しい。
 ―――――赦されることは、ないだろうけれど
 嘗ての教え子に組み敷かれ、悦んでいる己のなんと浅ましいことか




 明日生まれ変わる月は細く、地上へとどく光は儚い。
 手を入れられていない庭園は名のある花もただの雑草も好き勝手に生茂って秩序なんてものはない。しかし同時に無常を表しているようで、雅でさえあるのは、ひとえに夜の陰影によるものなのか。
 イルカの目は、いま、月から地の陰へ移されていた。
 清かに風が流れて木々の葉を揺らし、影が移ろう様がまた、いい。
 魅せられたように見つめているうちにイルカの劣等感は治まっていた。
「イルカ‥?」
 眠らないのか?と部屋の中央に敷かれた寝具に眠っていた青年が夢から覚めないまま訊ねた。
 それにくすりと――まるで彼の職業そのままの貌で――イルカは笑みを溢した。
「目が覚めたのか‥?」
 それからややして、ゆるりと開いたイルカの唇は戸惑うように震えた後
「俺は‥こんなことを望んではいなかった‥」
 否定の言葉は酷く滑らかに滑りでた。
 その言葉に反応して、青年の瞳は明瞭と眠りから覚めた。
「俺は、お前とこんな関係を結ぶことなんて‥本当は望んで――」
 イルカの言い訳の、逃げの言葉をとめたのは、イルカの臆病を赦さなかったのはその唇に触れた青年の指だった。憤怒の色がその瞳を朱に変え、イルカはその強さと禍々しさに身震いした。唾液を飲み下したが、引き攣った粘膜が痛みを伝えただけだった。
「サス‥‥」
「アンタ、俺のこと、好きだろう?」
 瞳の色はそのままに、甘えるような声音が恐ろしい。
「俺の眼も、俺の貌も、俺の身体も
 アンタ、俺に欲情するだろう?」
「やめろ‥っ」
 制しようと唇を開こうとするイルカを無視して重ねられる言葉に叱咤のつもりが甲斐なく。イルカの声は哀願に近かった。
「あの頃アンタが俺に手を出さなかったことは誉められることだと思うぜ?」
 語調を変えた彼の台詞がイルカの核をついて、イルカは目に見えて身体を強張らせた。
「お‥前‥なにを‥」
 言っている?知っている?
 問いたいのはどちらだろう。
 隠していた秘密を探り当てられた羞恥と緊張に呼吸さえ乱れた。
「知ってるぜ?アンタは、俺を、そういう目でみてたんだ」
「違う!
 違う‥そんなこと‥‥‥俺は‥」

 ではあのときの情動は

「俺に、あの頃のアンタのような良心は、道徳心は、同情は、ない」
 男はイルカの顎を鷲掴み、噛み付くように唇を合わせた。そのまま拒む唇をこじあけて口腔へ侵入する。
「ん‥ぅ‥っ」
 蹂躙する舌を噛み切れないイルカの腕を掴んで、逃げるからだを引寄せる。まるで駄々をこねる子供を押さえつけるように。男は嗜虐の笑みを浮かべている。
「アンタ俺を好きだろう?」
「この貌が。この手が。この身体が」
「アンタ、俺に抱かれて悦んでんじゃねぇか」
「俺の咥えこんで腰振ってんじゃねぇか」
「やめ‥て‥くれ‥っ違う!」
 違う違うと首を振って。けれど着物を肌蹴させる、肩から落とす、身体を這い回る手を拒めない。
 どこを触られても、どんな風に触られても、イルカは甘い痺れを感じて身を震わせる。
 肩が‥強くなった‥
 掴んだ彼の肩は固く、確かに成熟した男の肩だ。
 腕も‥太くなった‥
 強靭な筋肉をまとってすらりと伸びるしなやかな腕
 胸も、背中も、脚も――――
 被さる影に嘗ての面影など、微塵も、ない。
 イルカの望む面影など、微塵も残っていなかった。
「サスケ‥」
 強い瞳。
 地べたに這い蹲りながら、それでも高みを目指していた。
 奈落の底から這い出る方法を復讐にかけた。
 手を、のばしてやりたかったのだ。
 お前を救ってやりたかった。
 役不足だと分かっていながら、きっと出切ると思い上がって。
 結局、何もせず、哀れな子供から目を背けた。
 俺にはできぬと、突き放す眼をして縋る瞳から、逃げたのだ。
「俺を‥恨んで‥」
 いるのか‥?
「何故?」
 男はさも可笑しそうに笑って
「俺はアンタを愛してるんだぜ」
 諦めた身体にゆっくりと自身を埋め込んでいった。
「ん‥っぁ‥ぁ」
「アンタのなか‥気持ちいい‥」
 うっとりと呟いた声が甘くて。
 イルカは己の頬に落ちた泪が、喜びからのものなのか悲しみからのものなのか、解らなかった。











  終

2005/05/07 耶斗