何の睦言も期待してなどいないから ねぇ、だから 「愛しているよ」とそれだけ言って 陽にかざした手は大きくなった。 言霊緊縛 空が、高い。 季節はまだ春のはずだけれど、蒼く澄んだ空に雲はひとつも無く、ただ一色に。 遠くへ向かうほど淡くなる空の色に、思い出せなくなって久しいあの人の顔貌が思い出せそうでもどかしい。 狂気の中で夢みてた。 あなたは誰であっても、何があっても その微笑を失わない。 微笑っていた‥ その事象だけしかもう、思いだせない 貴方の貌がみたいよ 貴方の声を聞きたいよ きっと今なら俺も 貴方を腕に抱きこむこともできようはずなのに 変わらぬ艶やかな黒髪を風になぶらせて、少年は下界を一望できる岩山の突端に佇んでいる。 瞳は遥か遠くをみやり、時折唇がなにごとかを呟くたびに、切なそうに眼を細める。 故郷を離れ、2年が過ぎるころからそれが彼の習慣になっていた。 彼は直に『その時』がくることを知っている。 動くときが近いことに気づいている。 それだからかもしれない。高揚とは違う、焦燥とも違う、喩えれば飢餓。満たされないのは腹ではないが、足りなくて仕方がない。満たしたくて、日に日に貪欲になっていくようで、腹の据わりが悪くなっていく。 『その時』を迎える前に――――‥‥ 煩わせるものを取り除きたい、と、考えるけれど。 ふと、少年が目をふせた。狭めた視界に鬱蒼と生い茂る緑の木々が梢を波打つように蠢かせていて、その奥に垣間見る森の影は暗く、深く。不意に彼はその腕に抱かれたくなった。天上に突き出した幹はけして彼を優しく抱きとめてくれはしまいが、せめてこの身を受けとめてくれはするだろう。 じゃり、と足元の砂が啼いて、彼は少しだけ目線が低くなっていたことに気づく。 飛び降りようとでもしていたのか それに彼は自身を嘲笑う。 馬鹿馬鹿しい、と。愚かしい、と。 けれど同時に思い知るのだ。 もはや自制の利かぬほどにまで己に巣くう病巣は拡張している。いずれ自我をも奪われる。 そうしてしまうことがいかな甘美を与えてくれるかもまた、彼は気づいている。 耐え切れなくなったとき、彼はきっとこの崖から地底へと堕ちるのだろう。 腕を広げる大木に、その時ようやく求めた人の影をみて、彼は微笑み目を閉じるのだろう。 己の名を呼び、微笑ったあの人の声を 記憶の中の風を、匂いと光とそこに在る全てが混ざり融けて出来上がった嘗ての風を 思い出しては、思考を忘れ 僅かな一瞬に全てを捧げるのだ。 なんという誘惑。 呑まれることを選べない苦艱(くげん)。 ----すべては貴方が刻み込んだ ぎり、と爪を掌に食い込ませ きり、と唇に歯牙をたて 彼は堅く、堅く目を瞑るとそのまま目蓋から自身を縛る景色を引き剥がすように踵を返した。 背を向けた空の彼方が、肩に腕にその手を張り付かせているけれど。もはや眼前の岩しかみない。 枯れた土の、研磨するように滑ってゆく黄砂しかみない。 歩き出した足がどこか浮ついているようなのは、燻り続けてやまない幻想のせいだと彼はますます眉をしぼりながら力任せに磐石を踏みしめた。 終 2005/05/07 耶斗 |