思い出せる限りの優しい記憶。埃の舞う、茶褐色の部屋の中。それが、あなたと見た最後の景色。








   午後の陽は優しく、アカデミーの廃教室は喧騒から遠く。
 静かだった。
 呼ぶ声に振り向いて、その子供が珍しく穏やかな笑みを浮かべているものだから嬉しくて、イルカの頬も自然と緩くほぐれた。
「どうしたんだ、サスケ?」
 卒業して以降、こうして会いに来ることなんて初めてだ。受付で顔を合わせることはあったが、この大人びた子供は自分と目を合わそうとしたことがない。
 彼の過去を知っているだけに、アカデミー在学中でもそれを強く窘めることはなかった。
 できなかった。
 けれど必ずしも拒絶と同意ではなかったから、時が移ろえば変化もあると考えてきたのだ。
 それが、今実を結んだということだろうか。イルカは入り口を開いたままの姿勢で立っている元教え子に歩みよった。そしてふと思い当たる。
 あぁ、これは夢だなーー。
 イルカは自分がどうしてこの場所にいるのか、その理由を思い出せなかった。そもそもアカデミーの空き教室になんの用事があるのだろうか。
 わからないから、イルカはこれを夢だと判定した。そうすれば、この元教え子が自分に会いに来るというーかなしいがー非現実的な現象も納得できる。体を包む奇妙な浮遊感だって、それを肯定しているに違いない。
 頭がぼぉっとする。目の前にみえているもの以外、聴覚も嗅覚も働いていないようだった。
 イルカは未だ身じろぎもせずに自分を見上げたまま笑っている元教え子の頭に手をのばした。それは既に彼の癖になっていたもので。イルカは必ずといってよいほど、自分の教え子たちに会うとその頭を撫でてやっていた。しかし伸ばした手は元教え子の頭に乗ることなく、また掠めることもなく。空を掻いただけだった。
「あれ?」
 思わずそんな間抜けな声がでてしまうほど意外で、恐らく気が抜けていて。
 だってこれは俺の夢じゃないか。
 そう思ってしまう理不尽さもあった。
 振り返ってみても薄汚れた教室の窓が褐色の陽に照らされているだけで、空気だって深閑として、まったく、今の今までもうひとり人間がいたことなど覚えていないようだった。
「サスケ?」
 どうして心細さなんてものを感じているのだろう。おいて行かれた子供でもあるまいに。
 第一子供はあの子のほうじゃあないか。
 それでも不安は焦りになってイルカを急かした。
 見つけなければーーー。
「サスケ?」
 か細い自分の声に泣きたいような気持ちになった。





 目を開いて、まず背中の汗が気持ち悪いと思った。
 それから自分の寝ているのが見慣れた自分の部屋で、窓から聞こえるのが雀の声だと、思い至ってようやく息を吐いた。
 のっそりと、そう表現できるほど億劫気にイルカは身を起し、首を回らせて外をみた。
 白い朝の光が街に注いで、まさしく一日の始まりといった具合だ。それと相まって身体は気だるい。
 ふと己の指先に目を落とし、イルカは寂しそうに目を細めた。


 強く深い想いは相手の下へ届くという。
 あの子は俺を想ったろうか。それとも自身の望みだろうか。
 それならば俺はあの子の夢へ渡ったろうか‥。







夢魔の幻想








 堅い寝床から起き上がって、昼夜問わず闇の眠る洞穴に少年は目をしばたたいた。
 醒めたばかりの眼は大気にさえ敏感で、暫く彼はそうやって目を慣らしていた。そうしてようやく空気にも、暗闇にもなれた彼は岩盤に直接寝転がって凝った筋肉を伸ばした。ついでとばかりにこみあげる欠伸はかみ殺して。
 なにやら懐かしい人を夢にみた。
 どうやら自分はあの人の後姿ばかりをみていたらしい。
 思い出すのは彼の背中と、特徴的な、高く結い上げた髪。
 そうして時折お目にかかる、自分に振り向いて笑う顔。
 せんまで彼がみていた夢には古びた教室と、ひとり窓の前にたつ彼の人の背中があった。目線の低さにどこまで記憶は忠実なのだろうと今になって考えてみては可笑しい気持ちになる。
 あの場所は嘗ての学び舎。あの人間は嘗ての恩師。
 こんな夢見は久しぶりだ。
 自分の見る夢といったら9割が悪夢なのだから。気持ちのいい夢なんて、本当に‥
 それから少年は冷や水を飲んだような、しんとした冷気が喉を過ぎるのに息を止めた。
 あぁ、そうだ。忘れていたな‥
 目覚めがいいとき、それは必ず寂しさを呼び寄せるのだ。
 そこで彼は機嫌悪げに吐息して、後ろ髪を乱暴に掻き毟った。
 自分に訪れた感傷が面白くなくて、それを押しつぶそうと胃が落ち込む感覚に眉を寄せた。
 洞穴は湿って、冷気は流れず凝っている。
 外の空気を吸おう、と立ち上がって、ふと夢の最後にみたあの人の指先を思い出す。
 無骨な男の指だったけれど、爪の先までお人よしの性が滲み出ているような、優しい、あの人の指だった。
 茶褐色の記憶の中で、彼は己に笑いかけてくれたようだったのに。
 己はその手に触れることさえ叶わなくて――‥。
 宙を仰いで暗闇の中、その光景を彼は眼前に思い描いた。
 唇が微かに動いて、それはひとつの言葉を紡いだようだった。











 終

2005/06/13 耶斗