微笑む貴方が好きだった。



[掌の恋]



 家はあっても寝床はあっても、ぬくもりの無いその『家』に『帰る』という意味が分からなくて。


 ひとりの子供が独り、教室の窓から熟れたように紅い夕空を頬杖ついて眺めている。
 頭痛がする。耳鳴りのせいだ。
 何時いかなるときも離れることなく。鐘を打つように脳を揺さぶり、竹林を抜ける疾風のように頭頂を突き抜ける。
 それでも枯れ萎んだ涙腺は、目を潤すことはない。
 一心に見つめすぎるためか、瞬きは少なく網膜が乾く。それでも涙腺は緩まなくて、目蓋に擦れた眼球が充血する。
「サスケ」
 開けられたままの教室のドアからその人物は顔をだし、灯りの無い部屋、紅の陽を背に黒く塗りつぶされた小さな子供をみつけてくしゃりと顔を歪ませる。
 表情が豊かなのだ。良い意味でも悪い意味でも。けれど今のその子供に、彼の感情を読み取ることなど億劫で、呼ばれて向けた視線も面倒臭さげに外へとめぐる。
「まだ‥」
 帰ってなかったのか?と訊こうとして、彼は言葉を飲み込んだ。云ってはいけない言葉が、その子供の年頃にしてあまりに多く。次の言葉を続けられなくなって、踏み出した足もそのまま止まる。
 その気配が鬱陶しくて、子供は嫌悪も露に杖にしていた手をとき、背を伸ばして男をみた。
「もう帰るよ」
 いい様、これで満足だろうとでもいうように鼻を鳴らして、机の中の荷物を乱雑に取り上げる。
 沈黙も、独りならば結構だ。けれど二人になると途端に重苦しくなっていけない。
 サスケはガタガタと大きな音を立てながら椅子と机の間を抜け、酷くかったるそうに階段を、一段一段踏みしめながらおりた。
「サスケ‥ッ」
 そうしてすり抜けようとした小さな、薄い肩を、彼は思わずといった風に掴んで、それから決まり悪そうにはにかんだ。
 無理に作っただろう笑顔を、やはり子供は何の感慨もなく見上げて、直には言葉を継がない男に焦れた頃
「飯、ちゃんと食ってるか?」
 事の終りにサスケが与えられたものは、生まれて数年を過ごした身に染み付いた匂いのするあの家ではなく。閑散とした白壁の、酷く冷たい部屋だった。
「最近、よくぼうっとしてるだろ。栄養いきわたってないんじゃないか?どうだ、うちに来て一緒に食べるか。」
 とは言っても、大したものは作れないんだけどな。
 云って、今度は照れくさそうに笑う男が、そういえば己の担任教師だったとようやく思い出す。
「いらない‥。」
 だからといってそそられる興も既に残っていないから。サスケはやっぱり冷めた眼をして、イルカの手を、手の甲で押して外させた。
「来る気になったら言えよー?」
 歩き出したサスケをとめず暫くその背を見送っていたイルカだったが、小さな背中が廊下の暗がりにまぎれはじめたのに何故だか胸を騒がせてそう、声を投げていた。静寂に声が撥ね返るなか子供はやっぱり応えることなく、茹だるような暑さの廊下を床を軋ませながら消えていった。
 ところどころで教室を通った紅い日はドアの小さなガラス窓から板張りの廊下に差し落とされ、けれどその灯しは彼の足跡を残さなかった。





2006/02/15 耶斗