[掌の恋 2]



 雨に打たれ、溜まる水粒に頭を垂れる紫陽花はいかには物憂気だ。
 時間にしてまだ昼間だというのに暑く垂れ込めたねずみ色の雲は太陽の力を全く削いでしまった。教室には蛍光灯がつけられ、廊下も勿論蛍光灯が点けられているがその明りは弱い。大気さえ影を吸って重力を増したように、視界も気分も晴れなかった。
 彼が担当する授業はこの日一時限だけ空いていた。その時間を使ってイルカは授業の道具を資材室まで取りにいっていた。片腕に抱えているのは火の国、風の国、その他各国の勢力をみるように描かれた大きな地図だ。羊皮紙を繋ぎ合わせてつくったそれは黒板にかけて、教室の後ろの席からも見える大きさである。
 気分と同調したような冴えない足取りのイルカは眺めていた中庭に、紫陽花の群れに隠れて空を見上げている小さな石像をみた。否、石像にみえた影は人間の頭で、そう見えたのは雨にぺったりと頭髪のはりついた様がどこか人間くささを消していたからだ。
 それをみとめた刹那、イルカは殆ど反射的に窓を開けその人物へ叫んでいた。
「サスケ!?」
 その声の大きさに驚いたか、授業中の教師が慌てたようにドアを開けてイルカを質した。
「あぁ、いやすいません‥なんでもないんです‥」
 それにしどろもどろになりながら応えて、ちらちらと窓の外を気にしながらその教師が顔を引っ込めるまで粘ったイルカは、己を見る目がなくなるとともに手に持っている地図を放り出して庭へ飛び出した。
「何やってるんだお前、今授業中だろ」
 そうだ。アカデミー生である彼は今授業中のはずだ。それが何故授業場所とも思えないこんな場所でこんなふうに濡れそぼっているのだ。イルカはたしなめるように云ったのだが
「まさか授業抜け出してきたのか?ったく‥そんなナルトみてぇなこと‥」
 つづきは、きっと向けられた眼差しの鋭さに喉の奥へと飲み込まれた。
「まぁ、な。なんかあったのか?授業で気に入らないこととか‥」
 意味のない言葉で形勢を立て直した彼は、奇妙に語気の弱まった口調で――やや目を空し気味に――訊いた。サスケはそんなイルカからすぐさま目線を逸らしていたが、その最後の言葉にふっと鼻に抜ける声で笑った。
「なんだよ。なんか可笑しいこと云ったか?俺」
 けれどそんな子供に気を悪くした風もないイルカは、まるで同僚の人間にへまを指摘されたような顔をしながら子供の目線へと腰を屈める。
「‥んた‥だよな‥」
「へ?」
喉の奥から絞ったような声は、子供が普段から多弁でないことを説明するようで。声を発することに慣れていない証だった。
「アンタ、誰にでもそうだよな」
 小ばかにしたような不遜な態度でそう笑うと、止めようとするイルカを無視して中庭の外へと歩き出した。
「おい‥っサスケ‥?」
「心配すんなよ。忘れ物したから家までとりに帰るだけだ」
「忘れ物って?ちゃんと先生に許可とったのか?何を取りに戻るんだ」
「傘」
微かに振り返ってそう云った彼の背中は群生する紫陽花の陰に消えた。
「って‥‥、おい!」
 思わず言葉の意味を探したイルカは早すぎる足音の消失に慌てて後を追おうとしたが、同時に後ろから聞こえた扉の開く音にたたらを踏んで振り返った。
「イルカ先生!?何をしているんですかっ?」
「へ?あ。いやぁ‥」
「もう。はやく中に入ってください。風邪を引いてしまいますっ。あぁもう、ぐしょ濡れじゃないですかぁっ」
 2階の窓から叱る一つ上の先輩教師に決まり悪げに頭を掻いて、イルカはすごすごと元きた窓へと帰っていった。
「ってあなた!窓から出てきたんですか!?窓から!一体何をしてたんです!」
(まさか‥あいつこのこと見越して退散したんじゃないよなぁ‥)
 などと先ほどの子供が引いたタイミングの良さに、思わず大人気ないことを考えたイルカは頭上の声から逃れるようにして入った廊下で初めて自分がどれくらい雨に濡れたかを知った。
「うっわ、ぐしょぐしょっ。雑巾雑巾っ」
 掃除用に掛けられている教室の前の雑巾で靴裏を拭いて、そのまま床を掃除しているところで先ほど顔を覗かせて驚いた貌をみせた教師が授業を終えて現れた。ところで授業終了の鐘が鳴った。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 今度は濡れ鼠の態で、這い蹲るようにして床を掃除している同僚と目が会った彼は質問の言葉さえ浮かんでこないようだった。





1/6の日記に掲載
2006/02/15 耶斗