「イルカ」 呼んで、眠る子供の細く柔らかな前髪を二本の指でつまむ。 麗らかな春の日差しを遮るものはなく、子供は勝手知ったる他人の家で居眠りをこいていた。先の青年の声には呆れと慈愛が混ざってた。それを聞く前から子供は目を覚ましていたのだけれど、覚めていたといっても瞼は下ろしたままで身じろぎもしなかったから、それは完全な狸寝入りで。 子供は彼の声が好きだった。青年の、己を呼ぶ声が好きだった。 その声は他の者に向けられるとき――誰であっても――幾分硬質であったが、子供に向けられるとき、ただ一色、優しさだけだったから。 「イルカ」 と、暖かな陽の光を閉じ込めた瞼の向こうで呼ぶ青年の表情を子供は容易く思い浮かべることができる。 この世にきっと二つとない、澄んだ瑠璃色の瞳は柔らかく細められ、真っ直ぐに伸びた鼻梁の下に天然の薔薇色をした形のよい唇は緩く笑んで、そうして優しい声で己を呼んでいる。 その声が好きだった。 好きだった。 あの頃を思い出すたび涙する。 未だ慣れないままかと、未だ諦められないままかと、未だ納得できないままかと。 いい年をして感傷に勝てないでいる。 父も、母も、同時期に逝ったというのに。彼らを思い出すことにさほどの抵抗はないというのに。ただ一人、彼を、彼の仕草、表情、声を。彼との時間を。思い出すたび込み上げる感情は泪を押し出しようやく落ち着く。 二親はすでに遠い記憶、褪せた写真の色の向こうで哂っているというのに。 彼は未だ鮮明なままだった。 きっと、彼自体が、光をはなっていたのだ。色を発していたのだ。 発してそれから、通り過ぎる人人に塗りこめては遺していく。 擦れ違ったその人は、振り返って彼の背中しか見た記憶しか確かではなかったとしても、彼の残していった色は形を成して網膜に甦る。網膜に、眼球に、映写機よりも鮮明な立体映像となって蘇る。 それほどに、強烈な存在色。 嘗ての子供は思い出す。 遠いが近い。今も続いていると錯覚するほどに同じ日々が続く中で、今も傍らには彼がいて、いつもの柔らかな笑顔して。自分のほうが安心するというように照れくさそうに笑って己の頭を撫でている。居眠りをしていれば何時の間にやらそこにいて、寝たふりをする自分を起そうと名前を呼んでは少し怯えるように頬に触れる。髪に触れる。瞼に、鼻に、唇に。 その感触があんまり微かでくすぐったいものだから、子供はとうとう笑いをかみ殺せなくなって悪戯っ気の存分に表れた顔で起き上がる。 起き上がりながら青年に両手を伸ばし、青年は何度となく繰り返される、数えることをやめたその仕草に応えて子供を抱き上げる。そうしてまた、安心したように笑うのだ。 「イルカ」 心底、救われたというように、泣きそうな目で笑うのだ。 春の日だった。 春の陽そのままの眩しい髪の毛を、心地よい暖かさの風になぶらせて。 青年の首に巻きつけた己の腕に、顔を埋めながら見上げた空は蒼く。 天上は高く、高く、蒼く、澄み渡って。 水彩の絵の具そのままの少し掠れた、少し滲んだ、深い蒼だった。 通り過ぎた男たち〜四様〜 2005/05/07 耶斗 |