風切羽―乱―




それは余りに突然だった。



アカデミーに入学して数日がたったある日、部屋の前にたつ
男に今日がその日なのだと思い至る。開いた玄関の扉ノブを
つかんだまま寄り掛かった姿勢で、ちらりと男の後ろを見や
れば、既に上弦の月は過ぎている十日月。
何を言うこともなく差し出された手を、同じく何を言うこと
もなく受け取った。
その小さな体をいささか乱暴に抱え上げると、見た目の粗暴
さとは裏腹に男は音もなく扉を閉めた。


ナルトはこの男が怖かった。
以前の『お役目』ならもう少し丁寧だったものを。
何も聞くな。何も云うな。
それが掟だった。
けれど今ではお役目は2つに増えている。
運ぶだけのお役目と、側にいて、遊んでくれるお役目と。
それでも山を下りれば会えはしないが、側にいてくれる義兄
ともいえる存在をナルトは大切に思っていて、それと同時に
提示されていた掟が希薄になっていた。
同じ『お役目』
一方は訊くな、語るな。もう一方は自由を、開放を。
いずれが真の掟であるか、ナルトには分からなくなっていた。
『お役目』は『お役目』
言葉は同じなのに、何故違う?


「ねぇ、俺ってば何のびょうきなんだってばよ?」


苦々しげに口といわず、顔全体を歪めた男は一言、知らんと
吐き捨てた。
吐き捨てておいて、だがそうだな、と考えるように口を開い
た。
己の腹に手を当てて、意識を集中してみろ。臍の上にだ。
男の嗤いは嘲笑に似て、ナルトに恐れと不快感だけを残した。



小屋に一人残されたナルトは言われたとおりのことを実行し
た。
腹の上に手を当てて、意識を集中して
しかし次の瞬間には全身にびっしりと汗をかき、悪夢から覚
めたばかりのように激しく打ち付ける心臓をおさえた。
ナルトの閉じた目蓋の裏、巨大な獣の影が浮かび、耳の奥に
は低く喉をならす声が響いた。
そして鼻の奥、痛むほどに強く残る甘い匂い。








「化け物‥って‥、そんなのいるわけないよ‥」
ナルトの言葉に、ネジは首を振った。

「ナルト、きっと夢をみたんだ。大丈夫だよ。何もいない。」
あやすように言葉を降らせるネジにナルトは酷く悲しげな瞳
をみせた。
それはふかく染み付いた彼の性質で。諦めのそれだった。
「ナルト?」
俯いて一言も音を発しないナルトにネジは訳がわからず困惑
したが、次にはにっと笑った顔をあげたナルトに頬を緩ませ
た。
ただその笑みの違和感に、しらず眉を顰めながら。



腹の底、臍の奥、己を見つめる紅い月
月の様な獣の目
納得するしかない理由

籠の鳥は飛び立つことさえ諦めた








「火影様‥っ!」
その日ネジは零れんばかりの涙を湛えて、火影の屋敷に飛び
込んだ。

何をしているんだ小僧。火影様は執務中でお屋敷には居られ
ない。と口々にいう大人たちに押さえられながら、それでも
ネジは小さな体を捩り抜け出そうともがいていた。
もういい、放り出せ。といった誰かの言葉にネジは己の身体
が浮き上がるのを感じ。門の外へ追い出されることを悟った。
それにより、いっそうの力でもって抗うが、多少の爪痕を残
すばかりでその腕を剥がすことはできなかった。
あわや投げ捨てられんとしたところに、件の老爺が姿をみせ
ネジは優しく地面に降ろされるに終わる。


「どうしたのじゃ、ネジ?」
優しい声音の里長の言葉に、ぐっと込み上げる涙を堪えてネ
ジは言った。
「何故ナルトは苛められているのですか‥!?」
「苛められておる‥?」
老爺は眉を顰めた。
「皆から弾かれ、誰からも庇ってもらえず独りでいるナルト
は苛められています!」
「おぬしがついてやって居らぬのか?」
訝るように紡がれたその言葉により口は引き結んだまま、目
を歪めてあらん限りの激情でもって叫んだ。
「私は‥ナルトに近づくことができません!!」








「さて‥、どうやら面倒なことになっておるようだの。」
ネジを落ち着かせ、帰した後に執務室の机につきながら火影
は零した。傍らの水晶を引き寄せながら供についてきた男を
見やる。
「入学当初はもとより、一月の半分も休んでいるのなら子供
たちの反応も仕方がないとは思っておりましたが、ここ最近
の子供たちの様子は確かに異常かと‥。」
「気付いておりながら報告しなかったのか?」
いつにない厳しい声に、男が竦む。
「明確な事も起こっておりませんでしたし。子供たちの親が
何かしら零しているとも‥。それに、なによりあの子自身の
態度もそれを助長させているとしか‥」
目で促した火影に、いいよどんだ彼はけれども口を開いた
「あの子供自ら周りを遠ざけているように‥私の目にのみそ
う見えたのかもしれませんが。」
「遠ざけている‥?」
それきり火影は顎に手を当て黙してしまった。本当に面倒な
ことが起こっているようだとその思いに馳せながら。







 風切羽―縁―




ナルトに近づけない。
ナルトの入学から二ヶ月、ネジはいい加減癇癪を起こしそう
になっていた。

見かけるのはいつも寂しそうなその姿。
頑なに他を拒むようにしていて、そのくせふいに泣きそうに
顔を歪めるのをネジは知っている。

なのに、近づけないのだ。
声すらかけられない。
特にここ最近は機会すら得られなくなっていた。



午前の授業が終わった。鐘とともに生徒たちは立ち上がり始
める。
思い思いの場所へ行き、そこで弁当を広げるのだ。
例に漏れずネジもそうするところであるが、ここ数日は違っ
ていた。
ナルトに会いにいこう
偶然に任せていてもどうにもならない。ならば己が行動すれ
ばいい。
そういうことで、ネジは少しでも時間がとれると黄金色の髪
をもつ小さな背を捜しにいくのだ。
今日こそ‥今日こそは。


手始めは教室。真逆に位置するそこに教師の目を盗みながら
駆け足で行く。
案の定黄色の頭を見つけることはできず、けれど落胆するこ
とも無かった。
毎度のことだ。教室であの子供を見とめることはない。
では次は?
次は、中庭。その次は裏庭、グラウンド、物置代わりの廃教
室、つまりはアカデミー中。

また今日も、昼飯は食べられそうに無い。








膝を抱えて蹲る。塵に差す昼の光はぼやけて翳んでより森閑
さを際立たせる。
アカデミーの敷地をぐるりと囲むようにして建てられた校舎
のある一角。特に用があるわけでもない道具、書物類が雑多
に積まれている物置とも教室とも見分けのつかない四角い空
間。その山の一つからナルトは見るともなしに、薄汚れた窓
を、外を眺めていた。
木々が鬱蒼と茂る。この先は岩壁だ。歴代の、誉れ高い里の
長たち。そこにあの人もいる。
あの男が言っていた。あの男‥
『四代目』
俺を見て、目頭を押さえた男

「小鳥」

そうだ、オレをそう呼んでいた。

音もなく開いた扉の向こう、深い影を被った男をみてもナル
トは驚いた素振りを見せなかった。
もう、あんたも怖くない。
ただ、耐えるような縋るようなそんな目で、唇を歪めた。








生気を失くしたと云うべきか、元に返ったと表すべきか。
兎に角ナルトの態は浮世離れしたものだった。

だからこの世界がよく似合う。
不自然なはずが酷く自然で、そしてそれ故に不自然な。
半月ぶりに古びた畳の匂いのする中、ナルトは手足を投げだ
し、壁に凭れていた。
寄り添うように、額を合わせるほどに側にいたあの存在は居
らず、ナルトひとり。
刻々と闇色を濃くしていく外から隔絶された籠の中、
外と己を繋いでいた少年を想い、ナルトは視界さえも閉ざし
た。
あの扉はもう開かない。真の意味で開くことは無い。
己の扉ももう開かない。

嘗て見た、光を連れて現れた少年。
黒々とした髪が、光を拒み、けれど染められ光を返す。
己をみて、笑ってくれた優しい人。
その目にもう一度映りたかった。

扉の向こうに光はあるのに、それを光と認識したのは彼の存
在を知ったからだ。
扉の向こうに光はある。それは彼が存在するがため。
ならば光などもういらない。
唇が戦慄いた。
それは静かなる慟哭か、それとも誰ぞの名を呼んだのか。
声も無く、彼はそれを繰り返した。








「‥大分満月に近づいたな」
3代目火影は、白い髭を揺らして今しがた現れた影に、窓に向
かったまま独り言のように云った。
「あの子を、役目から外させたと‥」
影の声は落ち着いていたが、非難を隠しきれぬものだった。
それに一つ嘆息して、老爺は振り向いた。天空の雲が飲み込
みきれなかった光がその輪郭を彩る。
「初めての、吾がままじゃったからの‥」
「‥‥‥」
「お前もあの子の側に居ったことがあるのなら知っておろう」
「あの子は生まれた頃から享受するだけの子供じゃった。け
れどな?けれど、やっと吾がままを云ったのじゃよ。」
老爺は愁いを帯びた目を床に落とし、笑んだ。
「それがどんな形であれ、貴方は嬉しいとおっしゃるのです
か。」
硬い声、濃くなった眉の影が、彼の心象をあらわしている。
それを見はしなかったが理解した火影は目を影にもどし云っ
た。
「まさかこのままで終わらせる気はないわい。」
でなければ、お前に教職をとらせた意味もない。
そう哂えば、影も微かに笑い返した。
「手を打っておいででしたか‥。」
「いいや、こればかりはさすがに運じゃて」
その言葉に、分からないと滲ませる気配に火影は哂って
「あの子らの縁にまかせよう。」








2年前のあの日と同じように、唐突に任は解かれた。
「ネジ、アカデミーに遅れますよ。」
母の声に、はっ、と持っている箸に目を落とせば、抓んでい
たはずの飯は落ちていて己の前に並べられた皿を見てもそれ
らに盛られた朝食は一向に減っていない。だからといって慌
ててみても時間は無情である。ネジはご馳走様、と箸を置い
て傍らの鞄を掴むと立ち上がりながら駆け出した。


呆けてしまっていたのは思い出していたからだ。
火影の言葉。
『ネジ、今日を限りにお前の任を解く。』
開いた口が塞がらない。
『な‥』
何故、と質そうとして、己の肩を掴んだ骨と皮だけの節くれ
だった手にそれを阻まれた。
『ネジ、分かったか?』
何を‥?
何を分かったかと問われるのです。
声は出ないまま、驚きに見開いた目を覗き込みながら火影は
云った。
『お前はお役目としてあの子に近づくことは罷りならん。』
分かったか?
―役目として
彼はそれを強調した。
―役目として だ。
そうだ任は赦しがあればこそ会いにいけるもの。
任を解く、それは枷をはずすということか。



ならば行こう、あの聖なる禁域へ