風切羽-騒- 何かが動き出すとき、それはゆるりと風をおこす。 そしてその風は怖気がたつほど、不気味にぬるいのだ。 されど乗れば風は風 羽を持ち上げ身体を浮かす 風切羽は風を切る 飛べよ、再び 嘗ての出会いを思い出す。酷く静かに、酷く鮮やかに、朧 気でありながら眼を衝いた金色の子供。あのときより抱き続 ける感情は、未だ廃れることなくこの胸に息づき、この身体 を突き動かす。 己は信じて止まぬ。 己はあの子供を守るために在るのだと。 純然たる黒の髪を風に煽られながら少年は走っていた。 空はすでに夜の帳をおろし、家々は寝静まり、そして森は 死んだように横たわっている。鳥獣たちの声も風の揺らす葉 ずれの音さえ殺してしまったかのように、その森はただ奥深 き闇を抱いていた。 今朝、朝食を其方退けで思い耽っていたネジは、行動を起 こすなら夜だと決めていた。 もはやナルトのあの小屋で過ごす周期は把握している。 だからこそ、だからこその今夜なのだ。 赤々と、不吉にけれど美しく、見るもの全てを狂わせるほ どに毒々しく艶やかな、真紅き円かの月が天上を支配する夜。 会いにいく。会いにいくナルト。 傍に居ると誓ったのだ。あの約束をよもや忘れたはずはあ るまい。 ぬるい空気を冷たく感じるほどにネジは大気を切り開くよ うに駆けた。 □ □ □ その日、アカデミーは一切授業に身の入っていなかったネ ジにさえ明らかに異常ととれるほど、尋常ではなかった。 教師たちが皆どこかそわそわしく、それが生徒たちにも感 染したようにそこいらじゅうで、息を潜めて葉影に隠れる獣 がいるかのような、そんな漠とした恐れを抱かせる空気が漂 っていた。 だからその日のアカデミーに常のような活気はなく、子供 たちのひそひそと囁く声を除けば、気味の悪いほど静かに授 業は進んでいったのだ。 「なんだか嫌な感じがしますね‥」 誰かのその呟きは、嫌に粘っこくネジの耳に残ったのだっ た。 里全体を望める高台、その手すりの際で3代目火影と一人の 青年が並んで山と空の境を睨むようにして立っている。 といっても、睨んでいたのは青年のほうで、火影のほうは 貌を笠でかくしぷかりと煙を呑んでいる。 「何が‥起きているのでしょう‥」 「正確には、何が起きようとしているか、じゃな。」 老爺の未だ鋭き心眼に、否応なく胸中の黒い予感を沸きた てられ青年はぐっと口をつぐんだ。 「恐れるな。」 「‥‥‥」 「時が、迫っておるのじゃ。」 変革は風を呼ぶ。 「風を‥」 青年がその言葉を口腔で転がしたとき、背後に乱れた息を 整えることなく現れた影があった。 「申し上げます火影さま‥ッ、‥動きました。」 火影はそれに云と頷き、ついで隣の青年を見上げた。 青年もまた、その意を汲んで頷くと見事な俊足でその場か ら消えた。 夕刻、夕陽が紅く山々の稜線を照らしながら溶け入りつつ あった。 □ □ □ 陽は落ちて、影の時間が訪れた。 丑寅の方角に一 そこを一つの点として正三角を形作れ。 印は戌・卯・戌・酉・子・寅・未・午・辰・亥・巳・申・ 子・丑・壬‥‥ 一つの陣にそれぞれ5人 死しても印は崩すな―――――― 男が円陣の中心で指示を出している。否、指示ではなく確 認といおうか。それぞれがそれぞれのなすべきことを把握し ており、それを果たす覚悟も全ての貌に刻まれている。 全身を黒に覆う男は、対する人間の視界にその身を隙間ほ ども見せぬけれど、声のもつ威圧感はそれだけで男の全てを 語るようだ。男の腕は脇に子供を一人抱えている。 「あの時より5年、もはや火影様の御意志は我々を隔された。 里は脅威をその胸に暖めたまま安寧を得ようと考えている。 そんなことが可能なものかッ。 なにより憎しみ、怨み、怒り!諸悪の根源を身に宿した童 がいつの日かその本性を表さぬと誰が云える! 実がなる前に、花が咲く前に、芽が出る前に。我らがその 根を完全に封じようではないか!」 応と影らは答えた。 封ずること。それが目的。 主の力を見誤っているつもりは無いが、網膜を侵すことさ え許しがたいのだ。 ――理性に感情が追いつかぬ。 逞しい体躯の、子を抱いた男は、奥歯をかみ締める。 ――追いつかぬのだ‥ 腰に携えた小刀にこびり付く血塊を、男はいとおしむ様に 親指の腹でなでた。 「位置に就け――。始めるぞ」 だがその時子供がぴくりを身じろいだ。 そして、開く。朱に染まる、獰猛な光宿した獣の目。 目覚めるとともに洩れいずる、底冷えのするチャクラ。 男の腕が凍りつく。 子供は、笑った。 大地の轟きの如き咆哮が空を割く。 木々が薙がれ、屋根を吹き飛ばさんほどの突風が里を襲っ た。 報告を待っていた火影以下一同は悲鳴をあげる窓に振り返 り身体を強張らせた。 「もはや待ってはいられません‥っ、火影さま!」 10名前後の影らがざわめき、里長の応えを求めた。 それに窓から視線を外した老爺はじっと腕を組み瞼を閉じ た後、ならぬと首をふった。 それに再び大きなどよめきが起き、それを制したのは常に 火影の傍らにいるあの青年だった。 「静まられよ」 細波を抑えるように片腕を広げた彼は火影の言葉を代弁す る。 「既に相応の仲間たちが発った。我等の役目は万一のための 里の警護である」 それでも仲間の安否をも知れない状況に、役目を与えられ たとはいえ黙って従えぬ者もいる。なおも言い募ろうとする その者たちに青年は言葉を継いだ。 「信じるんだ。仲間を。四代目の胤を」 影たちの声は静まり、本来の役目に戻った者たちの神経は 辺りへ延ばされていった。 「凄い衝撃だな」 森の奥へ向かいかけていた一団の先頭に立つ男が呟いた。 風が壁をつくったかのように進めぬ彼等は一時その場に立 ち止まらなければならなかった。被さる銀の前髪を掻き揚げ ながら、男は細めた眼でその先を見る。 凡ての命を平伏させん豪風は聴覚を遮断して、折れんほど に押し曲げられた木の幹にもしがみ付かなければ足を掬われ る。 その風の出処。 怒りと悲しみの主。 わずか5つの幼子を思い、男は焦りに身を乗り出す。 はやく、止め。 はやく、この風を止めろ。 「隊長!」 後方から己を呼ぶ声とその声音に、男は何事かと振り返っ た。声の質は明らかに予想外の出来事が起こったことを知ら せている。 「どうした!」 そして、事実、彼は部下の言葉に驚愕する。 「子供が‥っ」 「なに‥っ!!?」 部下の指差す方向、殆ど折れたように地に被さる草草に隠 れるようにして地に身体を伏せ豪風をやり過ごそうとしてい る小さな影があった。 行かなければ、守らなければ。 なのに、前へ進めない。 己を屈服させようと吹き付ける風が忌々しく、そして恐ろ しく。ネジは悔し涙さえ浮かべて足と膝と手で地に身体を繋 ぎとめていた。 「ナル‥ト‥」 一度、離してしまったけれど。 また、離してしまうこともあるだろう。けれどそのときは 俺は空を選ぶ。 けして薄暗がりのあの小屋の中じゃない。 お前を蒼天へ放してみせる。 「ナルトォ!」 「子供、お前、日向ネジか」 空から降ったと思えた声にネジが顔を仰がせれば、風から 己を守るように立つ影が、自身木に片手で捕まりながらネジ を見下ろしていた。 声の出せぬ子供に影は肯定なら頷けと云い、ネジは男の与 える父親のような力強さに我知らず頷いていた。 弱まった風に銀髪の男は子供を背に負い斜面を駆ける。そ の後を部下たちが追い、目前の開けた場所に1層強く地を踏 んだ。 『お前、日向ネジか』 頷いたネジに男は暫く考え込むように視線を外し、風の向 こうを透かし見ようとでもするようにその一点を見つめてい たが、再びネジに視線を落とすとただ一言。 『あの子を連れ戻したいか』 その問いに肯定で応える以外の答えをネジが持っているは ずはなかった。 その場所に近づくにつれ早鐘をうつ心臓がさらに落ち着き をなくすの抑えようと努めながら、ネジは胸中からの圧迫感 に克つためあの子供の顔を思い浮かべた。天で月は嘲笑うよ うに紅く。ネジは蒼天の眼を固く閉じた瞼に描く。 もうすぐだ そう思うとともに風が温度を下げ、目的とする場所へ着い たことを教えた。 しかし、踏み込んだそこで彼等は硬直する。 血と、泥と、呻きを抱えて蹲る。獣に蹂躙された者たちの 瀕死の態。 その中心で泪を流しながら哂っている。紅の月に祝われる 子供。 朱の影がその身を染め。 禍々しく。神々しく。 風の主は立っていた。 『ナルト‥』 男の背の上で、ネジは驚愕の眼を閉じることができなかっ た。 もう一度みれるかなぁ――― 初めて共に月をみた晩のことだ。 もう一度見れるかなぁ――― その月は、いま天高く俺たちを見下ろしている。 現実と、記憶と。 心が齟齬に悲鳴を上げているかのように息がつけない。 けれど、その奥から滲み出るもの。 俺はあの子を守るのだ 使命も役目も俺は知らない。 風が吹くのになんの意図もないように――― ネジは己を背負う男の肩を押した。 銀髪の男もまただらりと両腕を解き、ネジを地上に降ろし た。意識は既に背に負ぶった子供へ向けられていなかった。 渇く喉に唾液を押し込み、米神に浮かんだ汗が重みに震える のを感じ、そしてめまぐるしく思考を展開しているのだろう。 己の足が震えていることにも気づかない子供がひとり、己の 思考の中心である存在へ向かい歩いていく姿も視界で認識す ることができていなかった。 薄笑いを浮かべて覗かぬ牙で威嚇する獣。その双眸が招く ものと己の背にあるはずの重みがなくなっていたことに気づ いたとき、彼は咄嗟に手裏剣を抜き放っていた。 身体が浮いているような感覚だった。恐怖と呼べる感情が 一体どんなものだったのか、考えようとして結局それも放棄 した。 ネジは歩を進めるにつれて、内に湧き上がる喜びと、そし て眼前の子供の不安を感じるようだった。 まるで野良猫みたいだ。 眼はきっと何者も認識していないし、思考してもいないだ ろう。本能だけがむき出しに警戒と自尊心とで震える猫だ。 大丈夫だよ。僕は君を傷つけない。 そうやって本物の野良に手を伸ばし、引っ掻かれたことも ある。けれど、大抵根気強く続ければ上手くいくものなのだ。 「ナルト」 このときも、ネジはいつかしたように、両手を彼へ差し出 した。 その瞬間風を割く無機物の音をネジは察するや、すべてを 見通していたとしか思えぬすばやさで子供を庇うように突き 飛ばした。 腕に熱が走り、己の生き血が宙に散るのを見た。そして、 腕をまわした子供の背が酷く小さいことを思い出した。それ から“それ”をはなっただろう誰かをみるために首を回し、 状況を思い出す。弧を描いて並ぶ影。その中心で印を組み始 めている己を負ぶってくれた男。その男に続こうと間合いを 計って移動する彼の仲間。その足下、己等の周囲。銀髪の男 の面持ちが己の自信さえ打ち砕こうとしているようだった。 だからネジは叫んだ。あらん限りの声を張り上げて、彼ら へ訴えた。 「やめて!!」 けれど、彼らの動きを止めたのは鳴動する大地だった。 裂け、盛り上がり、足場を崩し。けれど自分たち二人の周 りだけは守られるように堅く、ただ岩石や土塊が互いにぶつ かり擦れあう衝撃を受けとめるだけだ。ネジは倒れた体勢か ら身を起し、己よりも先に半身を起こしていた子供を振り返 った。 「ナルト!やめろ!」 蒸気が噴出しているかのように岩が高く持ち上げられ振動 している。大地は不気味に唸るまま治まらず。ネジは地盤の 激しい揺れに必死で身体を支えながら子供の両肩をつかみ声 も荒げて揺す振った。 ナルト、ナルトと子供の名を呼んだ。その瞳の狂気の奥へ 閉じ込められているのだと子供をよんだ。でなければ何故、 子供の目からは次々と泪が溢れ流れでるのか。この声が聞こ えているからに他ならないだろう。 けれど地は啼き、風は荒び、天は哂う。 大地の口に呑み込まれる者、噴出する大地の息に投げ飛ば される者、 「ネジっ」 己の名を叫ぶもの‥ それが己を背負ってくれた男のものだと気づいたネジは後 ろを振り返り、彼がこちらへ向かってこようと懸命になって いるのを見た。 男は自身の投げた手裏剣が少年の二の腕を掠めたことを知 っていた。今も傷口から血があふれているが、少年がその熱 さを気にもかけていないほどひとつのことに捕われているこ とも。そして、少年が肩を抱く子供がこの惨状を引き起こし ているもので、今少年の声に応えようとしていることも。 それでも暴走した力が収束するのは難しい――― そのための揺れが大地の鳴動を呼んだのだ。力が放出され たのはおそらく少年が傷つけられたからか、目の前に少年が いることに動揺したからか。 どちらにしろ、あの子供が呑み込まれるのは時間の問題だ と思われた。それだから直ぐ傍にいる少年が危険なのだ。今 彼が危険から守られているのはなんとか子供が持ち堪えてい るからだ。 その時、男はネジの名を呼びながら、子供と視線がかちあ ったのを知った。それは一瞬のことだったけれど、確かに子 供の自我が己に語りかけたと思えた。 男は頷き、風が阻む割れた大地の途をまたじりじりと前進 し始める。無機質な音で擦れるクナイのひとつを傍らのポー チから抜き取って。 里を守るため残ったものたちは持ち場で西の果ての紅い月 と、その懐の山の一端を呆然とみつめていた。ぞわぞわと不 快感が恐怖と不安ともろもろの感情とともに爪先から迫上が りそれらを打ち消そうと拳を握った。足が地についているこ とを確認し、己の意識を引き戻す。 いずれ、強大な獣が山を駆け下り里を襲うだろう。数年前 の復讐を果たしにこの里を蹂躙するだろう。自分たちを救っ た彼の長はもういないのだ。敵わぬかもしれぬとその思いが 誰しもの胸に重く圧し掛かった。 しかし、次の瞬間。鳴動する大地も耳鳴りのような風の音 も、月さえ色を変えて、静かになった。 寝静まったような静けさのなかで、彼等は自分たちの身体 から緊張が解かれるのを感じた。 『あの人を殺さないで』 ネジの言葉である。 辿り着こうとした銀髪の男にネジは子供を殺さないでと請 い、子供に男を殺さないでと請うた。 子供は既に自我を取り戻していたのかもしれぬ。男もそれ を知っていたのかもしれぬ。ただそのどちらもネジには分か らなかった。 ネジは己の目前で、男のクナイが子供の身体へ穿たれるの を、まるで時がゆっくりと流れるように逐一を認めることが できた。 反動で俯いた子供の唇は笑んでいたが、それは先までの笑 みではなく安心したような微笑で。眼は既に森のしじまのご とく安らかだった。 ゆっくりと仰向けに倒れた子供を見下ろしながら今度は己 が狂気に呑まれるのかと目の前が朱に染まろうとしたとき、 傍らに片膝をついた男は子供の身体から抜き取ったクナイか ら血が滴るままネジの肩を強く引いた。 「この子は死なない」 切っ先が頬を掠めるほど近くにあるというのにネジは気に かける風もなく男の色違いの双眸を見つめ返した。男もまた そんなネジの様子を確かめるかのように切っ先を動かさず、 もう一度言い聞かすようにその言葉を繰り返した。 「この子は、死なない」 驚異的な回復力は必ずこの子を救うだろう。それを確信し ていたから男はクナイを突きたてる瞬間も迷わなかった。な んらかの歯止めをかけなければ子供はそのまま獣に変じただ ろう。その歯止めを男は衝撃によって与えた。貫かれた子供 の右肩の鎖骨付近は既に治癒を始めている。それを示して、 男はネジにその意味が染み渡るのを見守った。 ネジの顔に泣き笑いの表情が浮かぶのを見守った。 風切羽-終幕- 緊張の糸が切れ、崩れ落ちたネジと、既に傷の治癒を始め ていたナルトとを抱えた男は彼らを火影の私室へと運んだ。 そこで二人は二台の寝台に横たえられ、治療を施され、月 影だけを光源とする部屋の中、白い包帯はぼんやりと浮かび 上がるようだった。 「さて…どうするかな…?」 母上殿 傍らの女性へ火の印を頂く老爺が軽く首を向けた。笠が揺 れ、部屋の静寂を示すように床に投射された彼の影もゆっく りと頷いた。 「火影様の…、火影様の思うがままに。私に依存はございま せぬ」 静かな目で、そう云った彼女は年に似合わず艶やかな黒髪 を背に流している。慎ましく頭を下げた彼女はその貧弱な身 体ながら確かに母親の容をしていた。 「日向の才を埋もれさせ、生涯をナルトの守人として生きる もよし。それも2 人にとって幸せの形であろうて。…じゃ が、それでは前に進めぬよ。」 最後の言葉は寂しげに溜息交じりであった。 「しばし…荒波に揉まれなさい。」 そうして強く、強くなれ。その想いの分だけ逞しく。 老爺の右手がネジの額に伸ばされた。 印を刻む。生涯をささげても足らぬほどの重い運命を彫り 刻んだその額へ。そろえた二本の皺だらけの翁の指が。 「いずれ‥2度目の邂逅はある。風はお前たちを優しくつつ んでおるからの。 我等先達はそのためにおるのだ。お前た ちの乗る、風を止めぬよう‥」 母は深々と頭を下げ、部屋の中央に横たわる2人の子供は 安らかな寝息をたてている。 何時の間にやら天頂に上り詰めた望月は、白く、静謐にぽ っかりと穴を開けていた。 従者らが二人の子供を運び出し、翁は窓辺に寄り添った。 桟に手をかけ、乗り出すように空を仰ぐ。 「綺麗ぇな月じゃのぉ。」 好き哉、好き哉。 幾度も頷きながら、そう云って皺くちゃの顔にさらに皺寄 せて日向の妻へ笑った。 好き哉 風は心地よく、里を優しく撫でていった。 終 2005/11/29 耶斗 |