「なんでネジってーーー」 君影草 真昼間にとんでもない質問をされて、日向ネジは絶対に崩れないと思われていた貌を歪めた。僅か顰めるだけのものではあったが。 「いきなり何を言い出すんだお前は」 呆れているようにも聞こえるが、心中はひどく焦っている。もしかすると憤っているのかもしれないが彼らをとりかこむ待合室の面々は窺い知ることができなかった。というよりも正直なところ関わりあいになりたくない彼らはネジの指していう『お前』の発した一言を聞いていないという態を装おうとしているので、ネジの表情をまじまじと観察するわけにもいかないのだ。 「だぁ〜ってよ。俺ら歳いくつになったと思ってんだってば。18だぜ?19だぜ?そろそろそれらしいのあったっていいじゃねぇかってばよ」 『18』『19』と交互に互いを指差して、ふてたように唇を尖らせるナルトは台詞の意味するところとは裏腹に全く子供子供している。 「馬鹿をいうな。今はやるべきことが山積みだ」 お前にだって構っていられる時間はないんだ そう、突き放すようにいいやって彼はばさりと手元の書類を振りざま立ち上がり、傍らのナルトへ一瞥もくれることなくその場から去っていった。 なんとも冷たい態度だな、と入り口で一部始終をみていたらしい友人が歩み寄りながら同情気味に声をかけたが、受け取ったナルトは憮然と、消えたネジの背を追うように入り口を睨んだままだった。 泰然と、しかしその実逃れるように待合室を出たネジはその足で屋上へ向かっていた。鉄製の扉を抜け出た途端、強い風が顔に吹き付け目を庇う。 春へと渡る洗礼のような風だ。毎年のことながら長い髪を掻き乱すそれをネジが歓迎することはないのだけれど。すっかり定着してしまった眉間の皺を今もそこに刻んだまま、穏やかざる面持ちで街を見下ろす屋上の手摺へ歩み寄った。 柵もまた鉄製で強固な太さであるが、赤錆に殆どを食い荒らされて、体重を任せると不快げに軋んだ。 『なんでネジって俺に手ぇ出さねぇの?』 掌に指ではさんだ紙束が風にあおらればさばさと音をたてる。逃れようとでもするような暴れ方に、たわいも無い抵抗ながらネジには面白くなく感じる。それというのも先ほどのナルトの発言の所為なのだ。感情表現が皆無に近いネジである。うちに溜まるストレスは肉体を動かすことでしか発散できないが、あいにくここ最近はデスクワークが詰め込まれて部屋の外へでることも罷りならない。 ーーー他事ならば体内で消化させることもできようが 只一人、それが敵わぬ者がネジにはいる。 今のこの苛立ちも理不尽なものだと分っているのだ。やんわりとかわす術さえ彼は知っているというのに。けれど、感情が理性を凌駕しようとする不快感に苛立ちを押し込めず、誤魔化すこともできないのだから逃げるしかない。 ーーーまだ、時間が足りない 長く、腐心している。長い年月が経っていながら今も衰えることなく衝動となって己を突き動かそうとするそれにネジは抗い続けている。時間が解決すると、理由もなく信じて。 見下ろす街の喧騒はネジのもとまでは届かない。行き交う人々を点にみながらネジはだんだんと気持ちが治まっていくのを待った。 深く、深く息を吐く。溜まった濁りを吐き出そうとでもするように、ネジはゆっくりと長息する。それに合わせて眉間の陰も薄まるが、その目に宿る昏い影はすこしも晴れることはない。 空を仰げば快晴だ。一片の雲もなく、太陽は思う様光を振りまいている。風は強いが心地良い暖かさで肌をなぶることにようやく気が付いた。正面から風をうけ、結わえた髪を膨らませながらネジの目は雨の降り出す前の鼠色に垂れ込める雲を思わせる重苦しさを宿らせていた。 待合室。壁に沿ってしつらえられたソファの、窓の下にあるそこを選ぶともなく座ったナルトは腕組みして剣呑な空気を振りまいている。 向かい合うシカマルは膝に頬杖をついて呆れたようにそれを眺めている。 勿論、その一角へ近づくものは一人としておらず、奇妙な円が出来上がっていた。 「なぁ‥、いい加減機嫌直したらどうよ」 「うっせぇってばシカマル。今はもう誰も彼も憎いっ」 なんだよそれ‥と自分の耳にも届かぬ声で呟いて、 「ありゃ駄目だって、ナルト、お前もわざとけしかけんのやめろよ。もしくは他所でやれ」 『あれ』とは言わずもがなネジのことであり、『他所』は当人以外誰もいない場所をさしてのことだ。けして場所を変えればいいというニュアンスを含んではいない。 「ここ以外どこで捕まえろっていうんだよ。あいつ俺とふたりっきりになろうとなんてしねんだもん」 これにはシカマルも瞠目した。初耳である。 よもやそこまで事が進行していようとは思いもよらない。もしくは切迫しているの間違いか。 それでもシカマルは内心の動揺を押し殺し、何気ない口調で問うた。 「んだそれ。いつからだ?」 「知らねぇ。しょっちゅう会ってたわけでもねぇし、飯も外で食うことが多かったし‥」 それでもたまには家で食うこともあったのに。 ナルトの目に寂しげな色が混ざった。ふと足元に傾いた目線に、シカマルはおもわずそれを追ったがすぐに顔を上げて目線を元の位置へ戻した。 ナルトの表情は拗ねた子供のそれと大差ないが、内面の様相は穏やかではないだろう。荒れまくっているとまではいかないだろうが、整理に手を焼く程度には荒れていそうだ。 そんなナルトの背中に広がる快晴の空をはっきりと目に止めて、今眼前にある二つのギャップにシカマルは暗澹とした気分になる。 何かとかかわっては痛い目をみるくせに、我ながら呆れるほど懲りないのだ。 これもひとつの性だろうと、半ば諦めながら割り切ることのできないシカマルはあがきつつも結局は放って置けないで自ら火中へ飛び込んでしまう。 自分はこんなにも物好きな人間だっただろうか‥ 幾度思ったか知れない問いを反芻しながら、どうにも自分を惹きつけてやまない二人へのおせっかいをシカマルは今回も見送れそうになかった。 「しゃあねぇな‥」 と嘆息して 「あいつの考え聞いてくるくらいはしてやるよ。だからお前はもう人前であんな質問すんじゃねぇぞ」 どちらかというと付き合いの多いナルトへ肩入れしてしまうのは人情というものである。 云い終えて彼はさっさと椅子から立ち上がると、入り口へ向かって歩きながら背にかけられたナルトの焦りの混じる礼へ手をふった。 「サンキュウってばシカマル!」 けれどその瞳は素直に喜びきれない複雑な感情に乱れてもいた。 □ ーーーきっと、抱き殺す 一度触れてしまえばもう離せない。 その肌の匂いを嗅いでしまえば、手放すことなど自らできる自信はない。 彼の人の艶姿を想像しては、嫌悪する。己の浅ましさに。いっそ突き放しはどうかと考えて、そうできぬ自分が情けなく、けれど言い訳しては自身を庇おうと腐心する。 弱い心と知っていながら、正当化できる狡猾さも持ち合わせているのだ。 ぐずぐずに腐れきった心の毒で、大切な人を殺したくはないのにーーー それは正当な欲求だった。誰でもが持ちうる、抱いて当然の、必然の欲望だった。 けれど彼は否定した。 彼の目に映るのは、ただの『愛しい者』で収まりきれはしなかったから。 神聖視すらしてしまった。 ーーー神を汚す それは計り知れない恐怖と、陶然とする誘引力をもって彼を襲った。 そうして確かな願望へと変質して彼の内へ根をはった。 『肉欲の枷で繋いで、俺だけのものにしてしまいたい』 既に無視できない表層まで望みは浮上して彼を苦しめる。 胸張り裂けんほどの愛しさに暴力をもってしてでも己の手へ堕としたい。愛しさ故に護りたい。己を憎んで恨み殺すほどに傷つけて自分のもとから去ればいい。どれだけ無様な格好をさらしてでも彼をこの身の元へ留めおきたい。望みの齟齬は危うい均衡の上で、噛みあうことも瓦解することもなく留まっている。 『平常』は今だ保たれたままーーーー 嵐の前の静けさよろしく安穏と日々は過ぎていた。 土埃を舞い上げて通りを渡る風はどうやら春一番ではなかったらしい。勢いの死なぬまま次の日も吹き荒んでいる。どうやら嵐がきているようだ。葉桜もこの分では予定よりはやく青一色に変わるだろう。資料室の窓からネジは中庭の緑を眺めている。 許可さえとれば持ち出すことも可能である機密度の低い書物は、棟の端に外廊下で繋がれた小ぢんまりとした二階建ての書庫に収められている。倉を改造したと聞くが、外装もすっかり立て替えられもとの面影は残っていない。唯一夏場でもひんやりとした空気がながれる内部だけが倉の特性を守っているといってよいのか‥。 古書独特の饐えた匂いに包まれて、ネジは早朝から昼も過ぎようという今まで一食も摂らずに書庫に詰めていた。 「よ、ネジ」 そこに旧知の友人が陰より溶け出したように現れて、ネジは振り返った。 「シカマルか。なんだ」 用件は、予想出来ている。だからこそネジは迷惑そうな顔をして肩越しに見やっただけで直に紙面へ顔を戻した。 「想像ついてんだろうけど、ナルトのことでな」 心構えが出来ていなかったわけではないのだけれど、いざ、彼の人の名を出されるとネジの身体は強張った。 「そうか」 応えるのが、やっとだ。 「お前ナルトと付き合ってんだろ?恋人不安にさせんのはどうかと思うぜ」 「あぁ」 「まさか手放す気でもなさそうだが‥、お前本当に何考えてんだ?」 シカマルは男の真意を測りかねていた。元より己の感情を人に悟らせまいとする男は忍とし優秀ではあるのだけれど、勿論任務に出れば己だってそんな仮面はつけている、けれどこの男は、日向ネジという男は根本から忍なのだ。仮面と貌(ひふ)は同化して、元形がどうだったのか、知り得ない。 今、書物に専念しようとしている背中は、どこか頼りなげだというのに。それは午の光がさせていることなのか、と。 「ネジ‥、一度、ちゃんと話し合え」 結局、云えることなんてこれくらいなのか。 心のうちを僅かでも話してはくれないほど、自分は彼の友人ではなかったらしい。けれど、 (ナルトもお前も、俺の仲間だ) 馬鹿馬鹿しいといえばそうだろう、奇妙で歪な縁は自分たちを繋いでいる。同年代に生まれたと、そうしてこの里に生まれ、同じ忍という影に成長したと、それだけで絆は固く。結ばれて。だからこそ 「このままじゃ‥いけねぇ」 シカマルはまた陰へと溶け入るように、そこを去った。 嵐がきている。廊下の窓を不穏に鳴らす風の音に、シカマルは別の嵐もまた、訪れつつあることを予感していた。 □ 護りたければ自身を殺すしかないのだ。 後悔ばかりが明瞭に、眼前へ現れる。 最悪の夢見だ。 跳ね起きたネジは月の影さす褥に蹲り、その明りから隠れようとでもするように頭を抱えた。気のせいに過ぎぬかもしれぬが、頭痛がする。湯を浴びれば覚めるだろうそれを、しかし深夜という時間には解消させるのも難しい。頬を伝う冷たさに、寝汗をかいていたと知る。寝巻きの背中が気持ち悪い。長い髪もこのときには鬱陶しいばかりの何物でもなく、項に貼りつくそれらを掻き退けた。 はたと気配に気づいて、ネジは枕下の忍刀を引き抜いた。掛け布を蹴り上げ窓と距離をとる。肌蹴た裾から夜気が内股を撫ぜ、下肢の昂奮を知覚して夢の余韻に舌を打つ。しかし、動揺した窓外の気配に意識は逸れた。予感に渇いた喉は唾液を押下したが固いものでも飲み込んだように引き攣った。眉間に力を込めて予想が外れることを願った。なのに なんて残酷だろうと、彼の影が現れたとき、闖入者から身を守る刃も放り出して皮肉に笑い出したくなったのだ。 「ネジ‥」 迷っているのか責めているのか泣いているのか。 月を背に、濃い闇被るその顔から、透けるような色もつ瞳から読み取れるものなどネジにはなかった。 それでも保たねばならないのだ平静を。 護りたければ自身を殺すしかないのだ。 蛍光灯のわざとらしいほど白白とした明りは予想外にもネジの心を落ち着かせてくれた。湯気をたてる茶を運びながら、ネジは押し黙るナルトの横顔を盗み見た。 罪悪感はまだ湧かぬ。己の性格は熟知していると自負するネジである。やがて訪れるその時が何時頃かを計算しながら、自身の落ち着きように苦笑した。耳に届く音さえ失くなってしまうほど、心は静かだった。 「俺は‥、嫌だ‥」 泣き出しそうな声に声変わり前だった頃の記憶を思い出して、ネジは懐かしさに目を細めた。そうしなければ何か都合の悪いことが起きそうだとでもいうように。湯気が入っただけのようにも見えただろう。 向き合って座ることは避けた。直面することなんてできはしない。簡単に目を逸らせる位置にネジは座った。 「もう決まったことだナルト。今日受理された」 正確には昨日だけれど。 この男は‥、とナルトは思う。 この男はこんなにも勝手な男だっただろうか。そうだったとしたら己はどれだけの間騙されていただろう。 憤懣さえ殺ぐほどの静けさをその口は語り、立ち上がる勇気さえ萎えさせるほどの清涼さでその眸はどこか、己ではないものを見つめている。 いつから‥ 彼を変えたとしたならいつがその転機だったのだろう。 「なんだって俺に内緒でそんなこと決めたんだってばよ‥」 自分が弱いなどとは思わない。現に、己は里の中枢にも食い込むほどになった存在だ。誰もが、俺を、喜び称え、必要としてくれている。なのに今俺は堪えきれない感情を泪として現そうとしているのだ。昨夜切り揃えたばかりの爪は自制には少しばかり足りない。拳を叩きつけたいのは卓袱か男の面か、衝動を抑えようとする理性はそれも曖昧にさせた。 常に、己を理解しようとしてくれた人だから。 今こそ己が彼を理解しようと努めなければならいのだと、それは本能に似ていた。 黙した男は応える気がないのだろう。その心を覗かせる気がないのだろう。なのに拒絶を、確かな拒絶を与えてくれないのは何故なのか。追い縋りたい己の心がそう思わせているだけなのか。 座を、立ってはいけない。そんな気がする。 「ネジ‥」 俺は、お前にとって、何なんだ? 座を、立ってはいけない。 けれど、打ちのめされた気分は意志に反してナルトの身体を動かした。逃れたいと、幼少の頃の名残、癒すことも捨て去ることも出来ずにいる存在否定への怯えに。 自分が弱いなどと、思いたくはないのに。 『他里へ草として侵入する』 短くとも3年。 待っていてくれとは云わないと眉一つ動かさず言い切った男に感傷なんて探すだけ無駄だった。 続く 2005/09/23 耶斗 |