寝静まった市街、一般の建物から離れた特別な邸へはものの数分で到着した。建物の入り口へは壁にまきつくようにして設えられた階段を上っていかねばならない。省略できない道程を駆け上がった先、建物の入り口からその人物は唐突に現れた。春野サクラだった。 ふわりと柔らかそうだった髪の毛は乱れ、血色のよかった顔は疲れに翳っている。シカマルは思わず怪訝な表情を浮かべた。 「今日受け付けに怒鳴り込んだって?」 申し訳程度に点された回廊の薄汚れた蛍光灯が、やはり煤けたような光を落としている。虫の羽音に似た機械音が耳障りだ。 「シカマルってさ、あの二人のことになると人変わるわよね」 「何の用だよサクラ。悪ぃけど俺ぁ今急いでんだ。そこ通してくんねぇか」 「あんたっていつも冷静じゃない?熱くなることなんてないと思ってた。熱くなっても上手く隠してる奴だって。なのにあの二人のことになると人変わるのね」 顔色が蒼く見えるのは、蛍光灯のせいじゃない。蛍光灯の灯りのせいでいや増しているとして、その貌は確かに蒼褪めている。怯えたような色さえ、その眼は帯びているのに。 挑発するようにサクラは哂うのだ。憤慨するよりも心配になってシカマルは問うた。 「お前、大丈夫かよ。どっか調子悪いんじゃねぇか?根詰めてるって聞いたけど少しは休んでんのか」 「ねぇ、なんでよ。なんでアンタそんなにあの二人に関わろうとするわけ?」 「‥‥‥」 「ねぇ‥」 歪んだ貌が醜悪だ、とシカマルは思った。女は男よりも狂気に近いと思う。男よりも寛容で、男よりも他人に感情移入するから容易く女は壊れるのだ。今目の前にいる旧知の女はまるで自我を失ったような引き攣った笑みで自分を見つめている。 面倒は後から後から起こるものでも、次から次へと続くものでもない。ひとつ起こった面倒事があまりに大きすぎるだけなのだ。 「‥俺よぉ、チョウジやイノと幼馴染なんだよな」 シカマルはひたりとサクラを見据えて口を開いた。 ぴくりと女の瞳が動いたようだった。 「親同士が仲良くてさ。イノシカチョウなんつって事ある毎に酒盛りしやがんだよ。俺らガキども巻き込んで夜遅くまでだぜ?成長に悪いっつの」 そらとぼける様のシカマルに彼女はついていけないというように怪訝な影を眉根に刻む。 「だから俺ら3人仲良いんだよ。他のどいつらより互いのこと分かっててさ。仲間っつーより家族に近い。だけど‥」 一度、言葉をきったと思えば、次の言葉をだすのを渋るようにシカマルは目を泳がせた。 「ナルトとネジは‥違うんだよ」 ようやく搾り出した声は、それまでの声音とは変わっていた。気が進まない、とここまできて彼はまだ逃げ道を探しているようだ。 「あいつら2人、チョウジやイノに対する感覚と違うんだ。チョウジやイノはむしろ兄弟みたいに思っている。長く一緒にいるしな。けどナルトとネジは違うんだ。それなりに長く付き合ってるが、俺はあいつ等を兄弟みたいには思えねぇ。‥‥なんつぅかな、見守ってる感じ。保護者とか‥それも違うのかも知れねぇけど、放っておけねぇ。いっそ縁きりてぇぐらいに思うときもある。でもそれができねぇ。一度踏みこんじまった俺に、それはできねぇんだ」 夜の帳が沈黙となって二人の間に落ちたようだった。それから数秒、シカマルは言葉を探した。 「サクラ‥お前、あの時の事件覚えてるか‥?」 「あの時?」 彼女には『あの時』とされる時のことも『事件』と呼ばれる出来事についても、何一つ見当がつかなかった。 「お前は‥いや、お前等は知らねぇか‥」 「何のことよシカマル。あんた何のこと云ってんの」 「‥‥‥‥。2年くらい前かな‥、ネジが消えたことあったろ」 しばらく考え込んで、ようやくそれに該当しそうな記憶を引っ張り出した。 「重度の怪我を負って、ぎりぎりで命取り留めたところをどこかで療養してたってあれ‥?あの時は私も治療に加わったから知ってるわ。消えたなんてことは‥」 「お前、そん時のネジに会ったか?」 「会うはずないじゃない。第一面会謝絶なほどの怪我だったし、何処で療養してるか私には知らされなかった、し‥‥え?」 長らく覚えなかった違和感を、初めて彼女は抱いた。 「面会謝絶の患者を無理矢理動かしてまで人のいない場所に移す必要があるか?」 「‥あんた‥何知ってるの‥?」 恐怖が、サクラのたおやかな脚を這い登る。あの時己は師から「治療のため」とだけ聞かされている。師の言葉だ。疑うべくもない。 「あれは里の判断じゃねぇ。ナルトがやったんだ」 サクラには言語中枢が故障したかに思えた。言葉の意味が解らない。 (待って‥) 「独断てもんじゃねぇ。ガキの我侭みてぇなもんだ。ナルトがネジ連れ出して監禁したんだよ」 「なによ!それ‥ッ」 はじかれたようにサクラが声を上げた。けれどシカマルは動じる風もなく、むしろ己の思考に堕ちたように顎に指さえあてて淡々と言葉を続ける。 「監禁とは、違うな‥。軟禁だった」 「シカマル、なによ、何の話?あんた何の話してんの!?」 訥々と語る男は落ち着いていて、だからこそ言葉の意味と噛みあわないと思った。サクラは彼の言葉を拒否しようとでもするかのように首をふった。 「サクラ、あいつらは危うい。どちらかが欠けてもいけない。どちらかが欠ければ確実にもう片方もぶっ壊れちまう。あいつらは、命懸けて相手を自分に縛りつけようとしてる。それも無意識にだ」 危険なんだ。全身全霊であいつらは、己の限りを尽くして相手を愛す。 どちらか欠ければ、残りも粉々だ 「待って‥待ってよシカマル‥話が‥」 片翼をなくした鳥は飛べない。巣を持たない鳥は飛ばない。 片翼のような存在。宿り木のような居場所。 ―――――シカマル、俺はこれでいいと思っている あの時の声がシカマルを追い立てるように背を駆け上がった。 「だけど、それが正常であるはずがねぇ。相手の自由奪ってまで一緒にいることが正しいあり方か!?」 声を荒げることで悪寒を完全に払拭できはしないが、衝動は治まった。いまや彼はサクラと目を合わせる気もないのか、衝動とともにずれた視点は床の上に留まっていた。 「それでも、それでも最近は落ち着いてきてた‥。俺らと似たような、ありきたりな、ほどほどの愛し方で、あいつら幸せにやっていこうしてた‥」 「シカマル、ねぇ話が見えないわよ‥」 サクラはもう泣き出さんばかりになっている。 それに一瞥もくれず、シカマルは過去を引きずり出すことが痛みでもあるかのように奥歯を喰いしばり、拳を震わせてリノリウムの床を凝視する。 「やっと‥落ち着いてきたと‥。互いに穏やかになったと‥」 「ねぇ、シカマル‥ねぇってば‥、ねぇ‥‥、ねぇっ!」 空間を震わせんばかりの叫びに、シカマルははっと顔を上げた。そうすれば、目の前で堪え切れずに涙を流す少女の姿。それでも耐えようとしている痛ましい姿。引き結ばれた唇が解かれ、歯の間から搾り出すような声で彼女は啼いた。 「シカマル‥、あんた何でそこまでナルトたちのこと知ってるの‥?」 感情を治めるために彼女は浅い呼吸を繰り返し、手で顔を覆って俯ける。それをシカマルは罪悪感に似た申し訳なさで見つめて、やがて小さくポツリと呟いた。 「俺が、あいつらに選ばれたからだよ‥」 あの時、あの場所に入れた人間は、里のどんな者をおいても唯一俺だけだった。 「話、するか‥。あんま時間ねぇけど。お前は知っておくべきだと思う。本当なら綱手さまから聞くべきなんだろうけどよ。話すぜ‥、あの時、あいつら2人に、そして綱手さまを含む里上層部に何があったか‥」 俺は全てを見てきたんだ サクラはただ、憔悴した眼をシカマルに向けなおすことで応えた。 ―――――― 一年前 ナルト、ネジ他3名の計5人編成のチームによる任務だった。内容は当初それほど機密とされるほどのものではなかったが、彼らが帰還した後極秘扱いとなる。 彼らは途中の戦闘の激しきにより3名が死に華を散らせた。生き残り、帰還した2名はナルトとネジ。しかしネジは右肩から左脇腹にかけ深い切り傷を負い、ナルトに支えられながら漸くの帰還であった。 意識はもう殆どなく、駆けつけた医療班の担架に身を横たえた途端昏睡に入った。 血は半分ほどが失われており、指先は既に冷たく硬直すら始まっているように思えた。唇にも頬にも紅はなく、ただ白く、蒼く、もはや駄目かと思われた。しかし、治療にあたった綱手、シズネ、サクラ、以下医療忍者の尽力により一命を取り留める。そうして当然ながら絶対安静、面会謝絶の札がかけられるドアの一室に彼は眠る‥はずだったのだ。 手術が終わったのは帰還した宵口から夜も明けきった朝、有明の月が中天に架かっていた。彼は、消えた。 一人で歩けるはずがない。否、そもそも意識を取り戻したとも思えない。 騒然とする関係者の中で、ただ一人落ち着いていたのは、ナルト――患者を連れ帰った彼一人だけだった。 考えようによっては、あまりのことに茫然自失していると見えなくもないナルトの様子に周りは質すことも、慰めることさえ憚られた。 一計が案じられ、ネジは病院ではないもっと静かで療養にむいた隠れ屋で長期の療養に入ったと、彼をあんじる全ての人間に伝えられた。彼の生家、日向家さえも欺く行為だった。 捜索は絶やされなかった。けれど一月経っても二月が過ぎようとしてもネジの安否はおろか、生死すらようとして知れなかった。 ナルトは何も云わず、何も訊かず、聞かされること、伝えられることをただ黙って受け止めているようだった。そして静かに座していた。その顔は無でありながら、いっそ穏やかにみえた。 彼の貌は、そのまま能面だったのだ。 けれどただの能面と違ったのは、演じることで見せ方を変えるのではない、見るものの眼によって貌を変える、そんな能面だった。 だから騒ぎが治まり、もう皆が諦めかけた頃、その顔は酷く穏やかに、酷く哀しげに、謝っているようにさえみえたのだ。 ――――彼はきっと一流の忍だったんだ‥。猫のように、人の前で死ぬことを好としなかったのだろう。独りで、死ぬことを望んだんだろう‥ そうナルトを慰めようとしていたのは誰だったか。彼の師のいずれかだったか。 兎に角、そう云った人間に応えて、ナルトは笑んだ。 笑んで、そして 大丈夫だ、と目を閉じた。 穏やかな記憶を思い出すように、幸せな顔して笑んでいた。 そうして、捜索は彼の言葉で打ち切られた。 ――――ありがとう‥ 暖かな陽だまりがいたるところに作られている日常に彼らは戻っていた。日向ネジの捜索が打ち切られて数日後のことである。 「ナルト」と風になぶられる金糸の頭を呼び止めたのは、硬質な髪を高くに結った叡智をたたえられる若き参謀だった。人を圧倒させるはずの三白眼も彼のものとなると人を安堵させることができる。面倒見のよい人柄がぞんぶんに醸しだされているからだろう。 「これから会議だろ。でなくていいのか?」 そう揶揄るように哂う彼の手には分厚い髪束が握られて、方に担ぐようにして持っている。 「すぐ行くってばよ。つか俺参加するわけじゃねぇし。後学のためにって綱手のばぁちゃんが無理矢理セッティングしたんだってばよ」 唇を尖らせて、不満をもらすナルトにシカマルは苦笑を混ぜながらも可笑しげに笑って 「まぁお前はもうちょい頭のほう鍛える必要もあるだろうからな。これで少しは隊長らしくなれんじゃね?」 「うっせー」 佇んでいた薬草園の花壇の前から、二人は並んで会議室のあるアカデミーの離れへ向かった。 「そういやお前上忍試験どうすんだ。推薦されてんだろ。いつまで中忍のままでいるつもりだよ?」 「う‥ん‥」 その反応に、シカマルは早まったかと危ぶんだ。 あの事件からまだ3月程しか経っていない。ナルトには大きなトラウマを残していても不思議はないのだ。 隊長たる素質を兼ね揃えたのが中忍だ。一個小隊を率いえなければ中忍にはなれない。 あの事件の発端、5人編成、隊長はネジのチームで帰還したのはナルトとネジの2名なのだ。上忍である隊長が瀕死の重傷を負ってなんとか帰還できたほどだというのに、あの時の隊長が自分だったらと考えては足踏みしてしまうのだろう。 「ま、気長に考えろ。急いで決断するこたねぇんだ。なろうと思えばいつでもなれるんだからな」 お前なら、とそれは云わず、「嫌味なやつー」と苦笑するナルトに哂い返しながら目の前に来た会議室の扉の前で大きく伸びをした。 「ほんじゃあ行くか。今回の進行役は俺が仰せつかってるからな。お前に意見求めねぇとはかぎらねぇぜ?」 「げーーー、勘弁しろってばよーー」 むしろそうするつもりだと表情をつくるシカマルにナルトは本気で嫌がり、それに意地悪気に笑ってみせて、シカマルは音をたてノブを押し下げると勢いよく扉を開いた。 「遅くなりまして申し訳ございません。勝手ながら早速会議を始めさせていただきたいと思います。進行役は私、奈良シカマルです。」 ほら行くぞ、と扉を閉めて己に振り返った面々へ向かい頭を下げたシカマルはナルトの腰の上辺りを叩くと、円卓に沿って並ぶ椅子の一つへと向かった。 異常なんて見出せなかった。それこそが異常だったのだ。 |