森は天上を覆う葉々の間から光を集め、しかしそれは霧の中で乱反射して溶ける。蒼白い明け方前の明りに霧は少しだけ温められるようだった。
 膝上ほどもあるシダ植物がネジの衣服を湿らせ、濡れた岩盤は殆どを苔に覆われている。水の匂いを含む空気の中に、せせらぎの音が混ざった。
 音に誘われ向かえば水の臭気は強くなり、やがてそこだけ霧が薄まり踝が浸るくらいの川があらわれた。しかしながら幅は広い。間にいくつか大きな岩盤を飛び石のように此岸と彼岸を繋げている。水は透明度が高く、川源のようでもある。
彼岸は丁度見えているが、その先はまた深い霧で、幾本かの巨木がその影を滲ませているだけだ。
――――こんな場所があっただろうか
 行きも帰りも同じ行路を選んだはずであるが、ネジはこのような場所を覚えていなかった。数百年も前からそこにあるようにしながら、突如あらわれたというのが正しいように思う。
 ここまでネジを誘ってきた誰とも知れぬ声に、今また不審を抱いた。男のものとも女のものともしれない奇妙に木霊しているような声。そして、その声はいつのまにか聞こえなくなっていた。
 しかし引き返す気も起こらず、なにより今この現状の引鉄となった出来事が一体なんだったのかを知りたかった。明確に己一人を狙ったものなのか、それならば何のために、何者が画策したことなのか、明らかにしたかった。己を呼んだ声―――あの声の主は己を襲ってきた同胞の真意を知っている。そんな気がした。
 任務を終え帰路の途中のこの森で襲われた。
 それが日向の者‥里の忍だと知ったのは殺した後だった。
 力を封じられ黒く濁った瞳がネジを見返している。
「な‥」
「日向上忍!」
 背後の声に振り返れば、男が手を大きく回してネジを呼んでいる。
 ニゲテクダサイ
 口を大きく動かして、唇だけでそう繰り返している。
 混乱した頭のまま、しかしネジは事を見極めようとその場から動かずにいたが、その男とは逆方向から刃物が空気を割き向かってくる音を聞き、飛びずさった。
 ハヤク ! コチラヘ
 薄闇の中で一方はネジを呼び、ネジは判断に迷い、もう一方はネジを攻撃する。
 地面に転がる同胞はどちらのものなのか、ネジには分からなかった。
 けれど、この同胞もまたネジを攻撃したことは確かだった。
 男の太刀は身を切り裂くことはなかったけれど、ネジの襟元をかすめ衣服を裂いた。
 首を、刎ねようとしたのは明確だ。殺す意思があった。
 呼んでいる男は己を救けようとしているのだろうか。だとしたら何者か。襲ったものが木の葉ならあの男はどこの者だろう。否、そもそも襲った男が確かに木の葉のものだという確証も無い。しかし、咄嗟に確かめた額にはまんじを模した呪印が消えつつあった。見慣れたそれは己の額に刻まれているものと同じものに間違いなかった。
――――どの道話を聞ける相手はとりあえずのところ呼んでいる男だけのようだ。
 襲い来る手裏剣を避けて、ネジはその男の方へ枝を蹴った。



 川を渡りながらネジはふと奇妙な気分になる。既視感――ではないが、一種懐かしい気分を覚えたのだ。胸が騒ぐといおうか、還らぬ故郷が前触れもなく思いだされたとき人がそうなるような、ネジは落ち着かなさに戸惑った。
 足はもはや彼の意志を離れたようにひとりでに歩き出していた。それをネジは知覚できずただ牽かれるまま森の奥へ分け入っていく。
 奥も過ぎれば出口になろうが、いま彼がいる場所に出口なんてものはないように思われた。視界を閉ざす霧はまるでネジを招き入れるように歩く先から割れていく。
 奥へ―――奥へ―――――
 先に何があるかなんて考えられないまま、ネジは己の意志と錯覚しながら固い岩肌を踏み締めて歩いた。


 「やぁ、いらっしゃい」
 いかにも待っていましたといわんばかりに、奇妙な格好をしたその男は両手を広げてネジを出迎えた。
 森の出口と思しき開けた場所は森との境を綺麗に標すように霧は途切れ、芝の敷き詰められた敷地が広がっていた。数歩もいった先にはそこから先を遮るように横一文字に人の背丈よりも高い垣根が延びる。ネジの正面が丁度垣根の真ん中なのだろう、切り取られたそこに男は立っていた。満面の笑みは、歓迎するようでありながら人をたじろがせる雰囲気を持っている。
 奇妙、否奇抜。元は白衣の形をしていたであろうそれはもはや様々な装飾によってシルエットさえ怪しい。サーカスからかっぱらってきたんじゃないかと思うほど派手な衣装にシルクハットを3つほど重ねたようなデザインの帽子。それらを飾るリボンもまたチェス盤に似た模様からけばけばしい模様まで騒がしい。帽子の口から飛び出す髪も四方八方にはねていて、天然なのではなく単に不精なだけのようだ。分厚いレンズの向こうから覗く目だけがネジに油断を許さない。
「我輩この場所に住んでいる科学者である。名はないが呼ぶなら蒐集家とでも呼んでくれ」
 コレクターだぞ、コレクター。と一本人差し指を立てて念押すように云った後、口を開こうとしたネジを無視するようにくるりと踵を返すと
「歓迎しよう。付いてきたまえ」
 そう云って、先に立って歩き始めたのだった。



 ネジを迎えてそのまま、質問することをゆるさずに一人喋り続けていた男は、テラスからさほど離れていない一本のアカシアの木陰に設えたテーブルへネジを招きいそいそと茶の用意を始めた。
 ネジは勧められたところで椅子に座ることはなく、先導されながら眺め渡したそこを改めて見渡した。
 芝の敷き詰められた庭は広く、屋敷をぐるりと囲むように垣根があるはずのその果ては森の中と変わらず霧に阻まれ見えることはないが、視界に納められるだけをみても相当の広さと知れる。男の入っていった二階建ての小ぢんまりとした洋館は年季の入った白木作りで涼しげな印象だが、開け放たれた出入り窓はあたかも暗い口を開いているかのようだ。かろうじて外の明るさが室内を浮かび上がらせているが、不思議と人の住む気配をうかがわせない。ビロードの紅いカーテンが水気を吸ったように重苦しく吊り下がっている。窓からみて側面にあるレンガ造りの暖炉も、炭化した薪が冷めた色をして覗いている。
 二階の窓を見上げて、カーテンの締め切られた窓ガラスに映るのが蒼天ではなく、雨の前の曇天でもないただ一色、白であることにネジは予想しておきながらもさらに胸中のわだかまりが重くなった気がした。
―――どうにも気分が晴れない。
 それが、次々に己に降りかかる不可解な出来事のせいだと知ってはいたが天気のせいにしたい気持ちもあった。
 帰路で自分を襲った同郷の忍と時間の感覚を惑わせる白い霧の森、そして奇妙な人間と、その人物が住んでいるらしい洋館。さらに男は自身を蒐集家だといった。『蒐集家』。こんな奥深い森の中で一体何を集めているというのだろう。
 そうこう考えているうちに大きなトレイにはみださんばかりの皿を載せて蒐集家が現れた。
「何してんのー、座って座って」
 ひどく浮かれたように哂って、彼はネジに椅子を勧めたのだった。



 アンティークのテーブルに絹のクロス。銀の食器にサンドウィッチ、それだけで芸術品ともいえる小さな小さなプチケーキ。けれどそれらを前に座るネジの貌に笑みはない。うきうきと茶の準備をすすめる男の正体を見定めようとでもするようにじっと観察をつづけている。
「綺麗な目だよね。瓶詰めにして部屋に飾りたいなぁ。あ、でも君の顔もなかなか綺麗だから頭ごと飾ってもいいかもね」
 数十分、また独りで喋り続けていた彼は一瞬間ネジの瞳をじっと見つめたかと思うと唐突にそんなことをいった。
 茶をごくりと飲みこみながらネジは恍惚としたように己をみつめる男を冷めた瞳で見返す。
「それはなかなか良い案だが、俺の目は俺の生体機能が停止すると同時に色を失うぞ」
 残念だったな、とカップを受け皿に戻しながら目を伏せると、男は奇抜な帽子を揺らして哂った。
「知ってるよ。君が殺した男も同じ瞳をしていたろう?」
 ぴくりとネジのこめかみが動いた。
「見ていたのか‥?」
 あの距離から、あの暗闇の中
 見えたのか――‥?
「それとも、貴様が仕掛けたか」
 ネジの脳裡に己をよんだ人物の輪郭がぼんやりと容をもつ。
 不穏な空気が背に漂い始めたネジに、男は「おお怖い」などと嘯いて陽気に両手を上げた。相手の勢いを削ぐことに長けた男はこのときも、ネジの気を逸らすことに成功した。
「そうだ、我輩の発明した素晴らしき夢の数々をお見せしよう!」
 さぁ行こう。すぐ行こう。と男は自分のカップにそそがれた茶をこぼしながら立ち上がると大きく片手を回して屋敷の中へと向かっていった。咄嗟に持ち上げたカップをおろし、ネジはもう暫くこの男に付き合うことに決めたのだった。




 一階は、なんてことはない、部屋が並びその中に中々高級そうなアンティークが上品に配置されている生活の場だ。しかし当初の見立て通りそこに人が住んでいるという匂いはない。
「こんなものは惰性で集めた品々だね。手始めはこの辺からかなと、なんとなく集めてみたものだから」
 大したものではないんだ――そう云って、彼は一つの扉へ導いた。広い廊下の突き当たり、そこだけ『使われている』とネジに思わせる色があった。そのドアについた汚れだけ、他のドアや壁に延びる汚れ具合も存在感も違っていた。
「ここから先が我輩の研究室なのだ。素晴らしいよ。我輩の知識と知恵の粋を結集した芸術品が並んでいるのだ。その中でも最高の傑作がついこの間出来上がってね、試してくれる人間を探していたところなのだよ」
 もったいぶるように、ネジを振り返った彼はノブを握った口上を並べて恭しく扉を押し開いた。深い口が喉を覗かせ、階段が真っ直ぐに地下へ向かってのびている。男が壁の一部を押し、ドーム型をした天井から橙色の照明が路を照らした。しかしながら奥は闇が増したように暗い。
「さぁ奥へ進んでくれたまえ。きっと驚いてくれるからね」
 ここから先は案内の必要がないのだろう、そう促した男はネジの後ろからついてくるつもりのようだが、ネジはまだ気心の知れない人間に背中を向けたくはなかった。
 しかし男がネジに危害を加える考えはなさそうであるために、警戒しながらも入り口に足を踏み入れた。扉をくぐってから分かる。ひんやりとした空気は、しかしかび臭いことはなくむしろ清浄だった。
―――水路をつくってでもいるのだろうか
 そんなことを考えた。



 そこを、どう表現すればいいだろう。何十段という階段を降りきったそこに現れた広大な空間。言い表すには言葉が足りない。書き表すにも文字が足りない。己の語彙の限界を知る思いだった。
「これは‥」
 圧倒されたようにネジが声をもらす。実際言葉を失った。その隣で男は満足そうに笑っている。
「どうだい?スゴイだろう」
 自慢するだけのことはある。思わずネジは納得した。
 そこは、科学と呼ぶには呪術的で、神殿と呼ぶには人間くさい。科学と宗教が融合した、そんな幽玄ともいえる空間だ。
 大小さまざまな太さのコードやパイプが天井と言わず、壁といわず、床といわずに伸びていて、これまた天上、壁、床といわず縦横無尽に走り回っている。低い、唸るような音は機械の稼動音だろうか、動力源の熱量を発生させている音かもしれない。役割を判別するためにか色分けされたコードたちは赤、青、黄とその他色とりどりに彩色され、年を経た分だけ褪せている。
―――――木の葉にも、これだけの装置は存在しないだろう。
 男の正体がまた、気になったが、それよりもここで何をしているのか、この機械の、この機械をつくった男の目的が何なのか、それがネジの思考を占めた。
「興味をもってくれたようだね」
 蒐集家は嬉しそうに笑って
「これはね、夢をみせてくれる機械さ」
 我輩の人生最大にして最高の大傑作だよ!
 生まれたばかりの我が子を自慢するように、彼は両腕を広げ、ネジに誇った。
「夢?」
「君にはこの装置を試してもらいたいのさ。実験の後で感想を聞かせてもらうよ?何しろ初稼動だからね。まさか死ぬことはないと思うけど、手を加えなきゃいけないところはでてくるだろうね。大丈夫、大丈夫、意識の表層を刺激するだけの機械だから精神がブッ壊れるなんてことはないよ」
『ブッ』をいやに強調して、蒐集家――いまでは科学者か――はネジの問いを無視して、というよりも気づかなかったように装置(我が子)の下まで行くと、操作をするためだと思われる一角で何やら作業を始めた。スイッチをひねったり、ボタンを押したり、キーを叩いたりしているそこは多くの画面が彼を囲むように置かれている。大なり小なり、それらは重い起動音をあげて目覚め始めた。
「お前は今までにも同じようなことをして実験体を探していたのか?」
 男は集中しているのか次々に現れる画から目を離さない。
「お前は一体何者だ。何故独り森の奥深くに住んでいる。この辺りに村はない。食料などをどうしているんだ。
 ‥おい、聞いているのか?」
「よし出来た!」と男は手を叩いて身を起し、輝くばかりの笑顔でネジへ顔を向けた。その貌はまったく無邪気なもので、ネジは毒気を抜かれる気分だ。
「その話は後にしよう。ん?今がいいのかな。よく分からなくなってるんだ。人との付き合いなんてここ何年もなかったものだから。あの人はまた別だしね」
 あの人‥?その単語が気にかかったが、それについて今深く追求することはない、とネジはまず目の前に押し出された『実験体』の要請から処理しなければならなかった。
「兎に角、その機械が一体どんなものなのか詳しく説明してくれ。でなければ俺も判断しづらい」
「うん?うん、そうだね。それは云っとかないといけないなぁ。これはね、夢をみせる機械なのさ。幸せ製造機ユメミチャン。我輩はね幸福の詰まった世界を創るのさ」
 その答えにネジはこれでもかというほど眉を顰めた。