――夢の世界をつくるんだ。穏やかで、平和で、幸福な世界。誰もが夢見る素晴らしい世界。 浄土を 箱庭ヲ 幸福を詰めて、僕は理想郷を創る 広大無辺にして荒唐無稽、そして非現実的。男の野望はまさしくそう表現するに相応しかった。しかし男はそれを『創る』と断言する。 そんな男をネジは苦々しい目でみつめていたが、おもむろに口を開いた。 「やめておけ」 はへ?と男は呆けた声を出した。 「俺は嘗てお前の云うような夢の世界で暮らしていたことがある‥。 短い間だったが。そこは確かにお前の求める世界と同義のものだった」 夢幻‥、思い出せば明らかに現実とは異なる淡い色彩の世界。 そこに二人、世界にただ二人だけ 睦みあい、無為の時を漂い流れた ネジの言葉が分からないという風に呆けた顔して男は首を捻る。それにネジは穏やかに微笑して、ゆるゆると言霊を紡ぎ始めた。 ―――――初めに見たのは旧い天井。影を刷いた、木の天井だった。 草木の薫りに覚めやらぬ眼をやれば、趣深く整えられた広い庭が開け放した障子の向こうに拡がっている。広い、と思うのは家を囲っているだろう塀が探せなかったから。霧でもでているのか、白く霞み、ところどころは靄が凝り集まって影のように濃く、その奥を透かし見ることはできない。 (―――何処だ‥) 彼はその場所を知らなかった。危険だと、以前の彼ならば布団を跳ね除け来るだろう危機に備えただろう。けれど、彼はそんな考えも浮かばなかった。忍としての反射は今、彼にはなかった。否、“それ”が必要だと彼の脳は判断しなかったのだ。悟っていたのだろう、恐らくは目が覚める寸前からか、眠りの奥深くにいた頃からか、兎に角彼のこころは平静だった。そこが安全な場所なのだと、本能が理解していた。 起き上がろうとして直ぐまた倒れこんだ。彼の負った傷は完治していなかったから。腹を斜めに裂いた刀傷は熱こそ引いたが、接いだ糸はまだ幅の広い包帯の下に留まっている。 傷が開いたやもしれぬ激痛に呻きを洩らして、左手で腹を庇った。 そうしてゆるゆると、彼は己の記憶を辿る。任務と、傷と、里の入り口と、ずっと彼の肩を支え続けた――― 「ナルト‥」 腹の底から搾り出したようにその声は掠れ、そして光明を得たように瞳に明りが差した。 間違いない。己をここに運んだのは彼だ。 彼は確信していた。当然のことだと思った。 彼でなくて何故、俺が見も知らぬ部屋に寝ていようか。 「ナルト」 呼べば顔を見せると信じて、彼はその名を覇気のない声ながら呼んだ。 暫く、ナルトナルトと呼び続け、これが最後だと底をつきかけた気力に喝を入れて 「ナルト」 か細い声に応えたようにナルトは庭と対する襖を開いて現れた。 「あーーっ、お前起き上がろうとしただろっ。駄目だってばよ動いちゃ。傷塞がってねんだからぁ」 気遣う色を顕わに、ネジの横たわる布団の傍へ膝をついたナルトは上掛けを肩の上まで引き上げながらネジの顔を覗きこむ。それから安心した目になってふにゃりと顔の筋肉を結ぶ糸を切った。 「よかったぁ。ネジだぁ」 良かったぁと両の眼からぽろぽろと玉のような涙をこぼしてナルトは笑った。たった今悪い夢から目覚めた子供の顔して、救われたように笑っていた。 それに驚いたように瞠目しながら、言い知れぬ喜びが、満足が己を包んでいくのをネジは感じていた。彼の喜びと同調するように、彼と同一のものになったようにナルトの喜びがネジを喜ばせ、ナルトの安堵がネジを安堵させた。 ――――穏やかだ ここはとても穏やかで、心地よい。二人だけの世界だ。 「ナルト」 ほんのりと熱をとりもどしたネジの指がナルトの白磁の頬を滑り、ナルトはそれに応えて身を屈めた。 合わせた唇は少し冷たく、啄ばむように角度を変えながら口付けをくりかえすと、やがて温まっていった。閉じた目縁を飾る天上の色した睫は細かに震えていて、ネジは身体をとりまく疲労感にさえもうっとりと目を閉じた。 「幸福だった。これこそ幸福だと、人間の得うる最上の平穏だと思った。‥けれど、俺はそれを捨てた。引き千切るように無残に残酷に、最低の冒涜者で俺はその世界を壊した。あいつが造った俺たち二人のための箱庭を‥俺はあいつを裏切った‥」 黒い空を舐める紅蓮の焔、唖然と涙を流す金糸の少年。 濡れた瞳は夜を映しながら紺く、とめどなく溢れる涙が伝うのは白磁の頬。絶望は彼から血の気を奪った。周りには、自分たちを取り囲むように立つ人間たちの痛ましそうな眼や疲れたような眼や同情するような眼。そして、哂う、自分。 ――――これで、いい その時確かに自身にも、絶望は歯牙を突き立てていた。 ――――これで、いいんだ‥ 己自身を言い含めるように、ネジは狂気に濡れる瞳をまっすぐに見つめながら笑んだ唇で囁き続けた。 ――――これで‥ 幽かになって、夜に溶けていく声は、人々の鼓膜に辿り着かなくなってもなお、喉の奥で繰り返し云い続けた。 紅蓮の焔、燃え落ちる屋敷、月のない空 炎にくまどられ、黒に塗りつぶされた影たちは火の勢いにあわせるように揺れる影法師を背にただ立ち続けていた。 「自己欺瞞だ。幸せだった。けれどそれでいいはずがないと。現実に自分が存在する以上、完全に他を排斥して生きていくことはできないと。あいつはそれをしようとしていた。外との境界にあいつは立ち、俺を護ろうとした。それが俺には苦痛だったんだ‥。痛みをひとりで耐えさせることを俺はよしと思えなかった。その時点でもう、世界は崩壊を始めていたのだな。 俺が他者と関わろうと、外との境界に立とうとしたその時に、世界の崩壊は始まっていたんだ。」 箱庭は壊れた。掬った砂が風に削られていくように、指の間から零れ落ちていくように、ナルトの築いた彼らの世界は――崩れていった。 「俺はもう夢をみた。至上の夢だ。あれ以上の幸福はない。醒めた今、再びあそこへ戻り、帰る自信は、俺には、ない」 実験には付き合えない。ネジははっきりそう頭を下げた。何故下げたのか彼自身分からなかったが、そうするのが正しいような気がした。 謝罪は誰の、何に対してのものなのか――――― □ 「驚いたねぇ。我輩感服」 今、彼等は初めの庭で再びテーブルを挟んで座っている。 「忍とは皆世を拗ねたものかと思っていたけどどうやら君は殊更特別のようだねぇ。いやいや感服感服。久しぶりにいいもの見せてもらったね」 いささか的外れな感想のようにも思えるが、その陽気さはわざと作られたもののようにも見える。 それを受けながら、ネジはやはり彼のスタンスを崩さない。なんの感慨も抱かない瞳を伏せ、怜悧な無表情で茶を飲んでいる。 「実を言うとね、森の中で君を襲わせたのは我輩だよ。君の一族を狙ったわけじゃないんだが波長の一番合いやすかったのが彼でね。我輩が選んだのは君だけさ。なんだか気に入っちゃってねぇ」 告白した彼は少しだけ勢いが弱まっていた。 ネジに怒りは湧かなかった。感づいてはいたことだ。しかし、赦したわけではない。彼の所業を認めたわけでもないが怒りをぶつける、そんな気は起こらなかっただけだ。 彼の気分が波立たなかったのは、自分を気に入ったと笑う男の理由がわかるようだったからかもしれない。 一度『夢』をみた――。そんな人間を彼は五感ではないどこかで見極めたのかもしれない。彼の求めるものに近い人間だった、それが理由なのか。しかし答えが知れることはないだろう。目の前の蒐集家は己の直感を信じて行動することを信条にすらしていそうなほどで、酷く大雑把に、楽天的に生きているようだから。 すると蒐集家は急にしおらしくなったかと思いきや、恥ずかしがるように頭を掻いてそれまで元気にネジを見続けていた目をテーブルクロスの一点に落とした。 「あの機械はねぇえ?ある人に依頼されて作ったものなんだ‥」 かすかにネジの瞳が蒐集家のほうに揺れた。それは機械への興味からではなく、名前を呼ばれたときと似た反応を押し止めたにすぎなかった。 「こんなことを話すのは初めてだよ。でも我輩も君の過去を聞かせてもらったしね、御返しに‥というのでもないが。これから先会うこともないだろうからひとつ記念に話しておこうと思うのだよ」 それから彼はそれまでの表情を一掃して、しごく真摯な眼差しをネジに向けた。 「我輩は嘗てとある国で科学者のようなことをやっていた。趣味の発明にこっていたのだ。しかしあんまり色んなものを発明しすぎていつしか我輩の立場は危うくなっていた」 ――――その国には当代一と謳われる発明家がいた。幼い頃から神童よ、科学の申し子よともて囃されながら、同時に変人、奇人とも陰口を叩かれた。彼はそれほどまでに天才で、己の道に一途だったから。他を省みず、ひたすら己の向上心に従った。望むままに知識を貪り、肉にしていった。 彼の興味は方方に至った。他愛もない玩具から、日常品、家具、土木建築、そして兵器。堅固な塞も造ったし、攻守を果たす巧妙な国境の壁も造った。彼は面白そうだった、ただそれだけの理由でアイデアを生み、国に売った。 彼は国勢を知らなかったのだ。 時代は国取りの世に移りつつあった。当然ながら、彼の生み落とした兵器は戦争に投入され、大いにその役を果たした。しかし、戦いは勝者と敗者を容赦なく分かつ。彼の国は敗者の苦汁をなめる側になった。そして、多くの戦死者を出した彼の発明は悪とされ、生み出した彼もまた犯罪者として処刑されることになった。しかしながら、捕らえられる間際でさえ彼はまた別の研究に没頭していて、牢に放り込まれた後も理由を飲み込めないでいるようだった―――― 「とうとう殺されるぞっとなった時にその人が助けてくれたのだ。彼にとってはただの気まぐれだったろう。あるいは我輩の殺される理由に興味を持ったのかもしれない。 我輩が発明家だと知って、彼はひとつあるものを造ってみないかといった。ほんの戯れのつもりだったかもしれない。だが我輩はその提案に興をそそられて、是非造ってみようと請け負ったのだ。それが、あの機械ってわけさ。 君は言ったね、現実に自分が存在する以上、完全に他を排斥して生きていくことはできない。でもね、この世には存在しながら存在できない人間も、排斥するほど他をもっていない人間もいるんだよ。彼は多くを失いすぎていた。冗談にして笑っていたけどね、長くつきあえば分かってくるものだ。嘘でもいい、真実だと錯覚できる夢を彼は望んでいた。そして我輩もまたそんな世界に惹かれていた。 人がそんな世界を望むのは必然なのだよ。君は一度それを手にした。だからそれの間違いや欠点も見出しただろう。けれど手にしたことのない人間や、夢に裏切られたことのない人間は、やはりそれを求めてやまないのだ」 必然なのだ‥。彼はそう繰り返し、応えを求めも待ちもしないまま往きたまえとネジを促した。 「真っ直ぐにいけばいずれ森の外へでる。来たときに通った河が境だ。‥道を失うことはないよ。君は還る場所を持っているからね」 ネジは静かにカップを置くと、席を立った。別れの言葉を交わすことは、ない。 路を進むだけ濃くなる霧に、一度だけ振り返ったネジと蒐集家の目が合った。最後に見た男の笑みはどこか寂しげだった。 しかしそれでも留まる意志は湧かず。示された路を辿りながらネジは里に待つ彼の人へと思考を飛ばした。 待っているだろう、もしかしたら泣いているかもしれない彼の人の元へ。 □ 森は記憶を疑うほどに澄み切った空気に姿を現していて、全く別物のような様相だった。霧を掃ったそこは見慣れた里への往路だった。 やはり幻術の類だったのだろうか、一通り見回してみてそこがなんの変哲のない森の中で、青空こそみえないが樹上からは明るい日差しが差し込んでいる。その明るさに目を細めながらネジは影を選んで歩いた。 そこへ複数の影が気配を見せたかと思うと、ネジは囲まれていた。瞬間、構えたネジだったが相手方の額宛をみて手をおろす。 「木の葉の忍か。何の用だ」 「お前の捜索だよ。一ヶ月の間何してやがった?」 「‥シカマル?」 前方の人間に隠れて見えなかった人物が姿をみせ、ネジは瞠目したが直ぐにもどした。 「捜索‥?一月だと?」 眉を顰めるネジに、シカマルも怪訝な顔して尋ねる。 「そうだよ。お前が任務にでて一ヶ月がたつ。正確には27日。今日で28日目だ。ぼけてんのか?」 シカマルの言葉に、ネジはますます眉間にしわ寄せて考え込んだ。 聞かされた日数の感覚がネジにはなかった。 「お前は第一次の捜索隊3名のうち1名を殺害している。それについての申し開きはあるか?」 「殺害‥。あぁ」 思考を中断されもらした声に周囲の影たちが僅かに四肢を緊張させた。それを制してシカマルが前へ出る。 「あぁってことは覚えはあるんだな。で?言い訳は?」 「言い訳はないが理由はある。相手が襲ってきたから防衛した。それについての経緯も、説明できる。が、それは帰ってからだ」 「それが許されると思うのか」 「この場で話せぬというだけだ。俺を疑うか?」 「疑うのが、今の俺の仕事だ」 冷ややかに見つめるシカマルを、ネジもまた冷めた目で見つめ返した。ふと思い出したようにネジはぐるりと首を回らせ、己を囲んでいる者たちを眺めた。 それはあたかも挑戦するような眼差しで、影らは間合いをとるように踵を引いたが、ネジはその杞憂を削ぐような声で言った。 「ナルトは来ていないようだな」 安心したような声だった。口の端を緩く持ち上げて、満足したような表情だった。 そんなネジに、シカマルは被っていた鉄仮面を脱いで笑いを溢した。 「安心したぜ」 「そうか」 ネジも哂い、シカマルと視線を合わせた。 親友同士が会合を果たしたといわんばかりの雰囲気に、影らも戸惑いがちに二人をみくらべるが、シカマルが手をあげて武器を納めろと云った言葉に緊張を解いて従った。 「シカマル隊長‥これは‥」 「疑いは晴れた。里へ帰還する。詳しい話は向こうで聞くことになる。行くぞ」 シカマルの合図に影たちは樹上へと消え、彼らの待機する木の下にはシカマルとネジの二人だけになった。シカマルはネジに、大人しく命令に従う部下たちに感心したという風に片眉をあげてみせ、同じように片眉を持ち上げて応えたネジを確かめると踵を返した。が、 「あぁそうだ。ネジ、お前不審な奴見なかったか?」 半ばで振り返った。 「不審というと?」 「何でもビンゴブックにも載ってる抜け忍がうろついてたっていうんだよ。もう遠くにいってるかもしんねぇが一応な」 「ビンゴブックか‥、どんな奴だ?」 「捕囚を連れて逃げたんだそうだ。その捕囚ってのがやっかいな人間だってんで向こうの奴らはやっきになって探してるらしいんだけどな」 ネジはふと視線をそらせて考え込むような顔になったが、すぐに向き直って言った。 「その忍なら大丈夫だろう」 「何か知ってんのか?」 「いや。見た覚えがないから、危害はないだろうというだけだ」 その応えように釈然としないながらも、シカマルは素直に頷いた。 「そうか。じゃ、一路里へ。だな」 久しぶりの晴れやかな気分で、シカマルはネジの先に立って帰路を駆けた。 □ □ □ 彼は地下の冷たい空気に膝を抱えながら、ぶつぶつと耳障りに反響する自分の声を聞いていた。抑揚もなく、とりとめもなく。それが言語であるかも疑わしいほどにただぶつぶつと呟き続ける。 天井から滴る滴で陽の色をしていた髪は重苦しく垂れ、頬に貼りついている。それを伝って落ちる滴は体温に温められて不快だったが彼はぬぐいもせずに腕に顔の半ばを埋めて宙を睨み据えている。 彼には時間の感覚がなくなっていた。陽の差さぬ洞穴で幾日も過ごしたこともある彼が、数日の監禁で憔悴しきっていた。 ―――お前は俺を捨てるのか。お前は俺を迎えにこない。お前、またあの時のように、俺を棄てるのか。捨てるのか。俺を俺を俺を そんなことは赦さない。そんなことはあってはいけない。お前が俺を見棄てるというならそれならまたあの時のように。あの時のように―――― |