息をきらせて到着した彼らがその場所に入ったとき、鼻で嗅ぐのではない臭いがシカマルの神経を張り詰めさせた。
 唾液をはりつく喉に音たてて押下する。汗が吹き出し、彼の額を万遍無く覆った。
 強く、地面を踏みしめて石畳の存在を足裏に覚えさせる。それでも浮遊感が腰を抜かそうとする。
 傍らのネジは‥、今にも逃げ出したい衝動を必死で耐えるシカマルの傍らのネジは平気な貌をして、平素の無表情な貌をして、汗も浮かべず息も乱さず‥‥。その凡ての異常でもってただ一点を凝視めていた。この部屋の異常をつくりだす根源の潜む部屋の向こう、松明が紅く石壁照らすそこを静かな瞳で凝視めている。
 異端者は一人でなかったことをシカマルはようやく思い出した。
 異端者は足音も静かに歩を進めた。シカマルはというと、松明の微かな火と影とのコントラストの運動にも視界がぐらぐらと揺れようほどなのに、彼は淀みない足取りで奥へと進んでいく。彼が歩いているのではない。松明が移動しているのだと、そう錯覚するほどにシカマルの思考は混濁していた。そして、男の向こうに白い腕が見えたとき、反射的にシカマルは倒れこむようにして足を踏み出したが、二歩目の重量に膝が崩れた。踏み出したほうの膝に手をつき、渾身の力でくだけた膝を取り戻すと、シカマルは両の足で踏み耐えた。流れる汗が目に入って眼球を刺激したが、拭うことも、目を閉じることもできなかった。
 目の前の光景から目が離せない。
 ことの成り行きを案じているのか興味に駆られた怖いものみたさなのかどうかも彼には分からなくなっていた。逃げ出したいのに見届けたい。2人のほうへ走り出したいのに恐怖から身を庇っていたい。自分の息があがっていることにシカマルは気づいていない。瞠目した瞳は血走って鬼気すら発しているかのようだ。
―――叫びたい
―――――止めたい
 友の、仲間の、殉教者の名を呼んで、シカマルは彼を引きとめたかった。死地へ赴く兵を連れ戻したかった。
「ナルト」
 男の歩みが止まり、優しくそう彼の者の名を呼びながら、向こう側の人間と目線を合わせるように片膝をつくと、格子の孔から伸びていた生白い腕が男の貌を確かめるようにその前でゆらゆらと揺れた。そしてシカマルは見た。『見た』と思った。
 男は笑んでいた。恐らくは歩み始めた頃からすでに笑んでいたのかもしれない。笑んだ口からあの優しげな声が滑り出たのかもしれない。そうして見えぬはずの向こう側の唇をシカマルは『見た』。闇に白く浮かぶ顎から喉下、口元から頬の下部に付け足されるようにある、乾いてひび割れた薄紅色の唇。
 それが、笑んだ。


 そして、それらは、同時だった。
 シカマルは弾かれたように駆け出した。
 ネジの上体がぐらりと揺れた。
 格子の孔から伸びる腕は、掌をかざしみるように掲げられて
 ぬらぬらと妖しい紅に濡れていた。
 すべては刹那の出来事だった。




 来る筈もない応援を期待するほどに追い詰められていた。
 視界は当の昔から銅(あかがね)色に染まり、時間の感覚などなかった。地を照らすものがあれば昼。照らすものがなければ夜だった。
 行動を共にしていた仲間が一人減り、二人減って、尚追い討ちをかける敵が三人目を屠ろうとしたその時、同じ隊の仲間が庇うように飛び出した。
『隊長っ?』
 彼の庇った背中の男は若かった。中忍に昇格して一年にも満たなかった。若くして散る命が寸前になって惜しくなったのかもしれない。
――――チガウダロ
 隊長と呼ばれた長い髪の男があわやというところで敵の心の臓を突いた時、その敵の脇腹を同時に突き刺した者があった。
『ナルト‥』
 返り血を避けもせず、崩れた屍から刃を引き抜いた彼は頭からべっとりと濡れていて、まるで幽鬼のようであった。『ナルト』ともう一度声をかけようとして、彼は息を呑む。背後に在った、確かにその時生きていた部下の呼気がその瞬間に消えたから。
 凝固する眼を無理に動かせば、己の頬と紙一重に伸びる銀の刃。ぬらぬらと血汐に濡れていっそ卑猥だ。
『他の奴庇って死ぬなんて、お前、違うだろ』
 幽霊の、声だ
『それならいらない。お前はネジじゃない』
―――ネジじゃないなら、オレハイラナイ
 ゆっくりと引下げられた刃は、再び天頂に向かって伸びた。
 白光が、奔る。
 ネジの知覚した唯一は、右肩から左脇腹への燃えるような熱だった。




 呆然と自失したように眼前に広がる暗い海をながめていたナルトは、ゆるりとネジの血を被った腕を孔の向こうから引き戻すと、それ―ネジの左胸を貫いた手―で自身の首を掻き切った。
――――――ナルトっ!!
 海の中心に横たわる肢体を囲むよう似立っていた人間たちの中で一人だけがそれに反応した。
 ネジとナルト、それぞれの身体から流れ出す血液は太く、平たく床の上を蛇行して、格子の孔を通り抜け、繋がった。




 □  □  □




 あの時、振り被られた白刃を仰いで、ネジは一歩も動けなかった。避けることが罪だとすら彼には思えたのだ。
――――お前の凡てを赦す
 如何なるものも如何なる事も
 お前が俺に為すことなら、俺は抗うことなく受け入れる。
 嘗て睦言のように誓った言葉を彼は思い出していた。
 敵は死んだ。守ろうとした仲間も結局は死んだ。生き残ったのは己と、目の前の、すべてを捧げた――護ると誓った――至上の人間だ。

――――それが間違ってるっつんだよっ!!
 その刹那の間だけ、ネジは意識を取り戻した。掴み取った視界は翳んで狭かったけれど、彼は確かに焦点の定まった眼でそれを見た。
 怒り狂うようにしながらも心底哀しそうな目をして己に駆け寄る、白眼のかった眼をもつ旧友。
 夢に―――堕ちる――――。
 彼はいつかの夢をみる。突如として浮きの世に現れ、水泡のように儚く消えてしまった。
 夢と友の顔が重なり、混じり、彼は己の眼が見ているものを確かには認識できなくなっていた。彼が何時の何処にいるのか、岩肌の冷たささえ感じなくなっている無感覚の頭では考えることもできなかった。
―――――至上の、夢だ。
一瞬にして――最上の―――――夢だ―――。
 そうだ、あの時も、お前は俺の眼を開かせた。
 恨んだこともあった。それと同時に感謝した。今もまだ、その折り合いはついていないかもしれないけれど。
 常に友人であった男にネジは感謝する。





「よ」
「やぁ」
「やめろよ。んな年寄りくせぇ返事」
「お前に云われてはかなわないな」
「どういう意味だ」
 簡素な挨拶から軽口の応酬に移行するのは、彼らの慣習になっていた。
 ネジは決まって縁側で、柱に背を凭せ掛けて日がな一日庭を眺めやり、シカマルは丁度その正面からゆったりと視界に歩み入ってくる。
「身体の調子はどうよ」
 縁側に腰かけながら身体を捻ってシカマルが問えば
「もう殆ど完治した。右腕の痺れも無くなったしな」
 云いながら、右手を閉じたり開いたりしてみせる。
「なんか入用のものとかねぇかよ」
「ないな。あれが何もかも用意する」
「復帰する見通しは」
「ついていない。なによりアイツが望んでいないし、おれもそれでいいと思っている」
 ネジの言葉はシカマルの肉を抉るように、平素だった。
「お前‥、いや、いいや」
 言いかけて、止める。彼が繰り返し続けることのひとつだ。ひとつはそれと、ひとつはこの場所に通うこと。
 目の前の男は大分全快に近いと思う。血色も取り戻してきたし、表情にも余裕がみえる。着物の上からもその筋肉が衰えていないらしいことは窺える。
「散歩くらいしてんのかよ」
 前にここへ来たのは3日ほど前だった。いや、もっと前だったかもしれない。どうも日日のことになると記憶があやふやになってしまう。普段怠惰な生活を送っているせいだろうか。
「家の周りを歩くくらいはな」
 白眼を、彼は最近使っただろうか。毎日欠かさず鍛錬に励んでいた彼が、それが日常となっていた彼がこうして惰性を生きている風なのはどうにも似合わない。決まりきった型から逸脱した。それはそれでいいのかもしれない。時には、だが。少し怠慢に過ぎると憤ってさえしまいそうなのは、以前の彼が彼だったからだろうか。
「どんくらいになるっけ。ここで暮らし始めて」
「半年は経つんじゃないか‥?正確には分からない。ここは、夜でさえ明るいことがあるから」
 白夜――、不可思議な情景だろう。明けぬ夜よりは好ましいかもしれないけれど、闇を味方としてきた身にはどうにも落ち着かないものではないだろうか。それとも、長くこの場所にいれば、それこそ『平穏』なのだろうか。
「んじゃあ俺はもう行くかな」
 腰をおろすことなく、本当に顔をみただけなのか、気がすんだという風に腰に手をあて首をぐるりと回すとシカマルは逡巡もせず背を向けた。
「随分引きがいいんだな」
「平和主義者なんだよ」
 面倒くさそうに片手をあげて、億劫そうな足取りで彼はもと来た道を戻っていった。丁度その姿が霧の濃さに隠れたところで入れ代り、ナルトが現れてネジに朗らかな笑みを見せた。




 次にシカマルが現れたとき、ネジはその浮かない顔色に首を傾げた。
「何かあったか?」
「あ‥?なんもねぇよ」
 縁側に腰かけたシカマルは何事かを隠そうとしているのは明らかで。傍目に分かるほどの懊悩をあえて隠そうとする友人に、何故だか酷く不安を駆られてネジは質した。
「なんでもねぇって。ほんと‥」
 それから視線を逸らしたまま口を開かなかったが、眉間を皺はだんだんと深くなり、数も増え。彼が耐えきれないのがみてとれた。だから、唐突に彼が「チクショウッ」と吐き捨てて頭を掻き毟ったことにもさほどの驚きをネジは感じなかった。
「ネジ、ここの結界破ろうとした奴がいるぞ」
「なに‥?」
「何にも感じなかったか‥。当然だな、ここの結界はってんのはナルトひとりだからな。僅かな空間の歪も感じなかったのか?」
「なにも‥」
 感じなかった。
 シカマルの問いはネジは焦りを覚えさせた。焦燥感。安穏と暮らす分だけ勘が廃れていく。それが、恐ろしいと彼は唐突に感じたのだ。
「俺がここに出入りしてんのももうバレてんな。上の連中が動き始めた。近々召集喚問にかけられるかもしんねぇ‥」
 庇う、つもりではいる。けれどそれは叶わないだろうとシカマルは理解していた。老練の火影たちにまだ若い彼が狸勝負で敵う見込みは限りなく薄い。
「ナルトも完璧疑われてる。認められればほぼ間違いなく罪になるだろう。たとえお前が何を言ったところでこの事を帳消しにすることはできない。日向家も、肩を怒らしてるからな‥」
 その言葉に、ネジは目つきを鋭くしてシカマルをみた。しかしシカマルは視線を庭に向けたままネジを見ない。
「難しいぞ‥」
 逃げることが、か。治めることが、なのか。
 けれどネジはすでに心を決めていた。迷いはあった。けれど、それと比べられるほどの弱い決意ではなかった。弱い決意ではいけなかった。
 固く目を瞑り、息を殺すように眉間に力を込めて彼は胡坐をかいた膝の上で両の拳を握り締めると、はっきり決意の篭った声で言った。
「ここを、でる」
 このときには、さすがに彼がいなくてよかった、とネジは思った。
 ネジの決意を聞いた唯一の人間であるシカマルは、ネジ以上に固く握り締めた拳を震わせ、やはり庭のどこかを見つめていた。




 □  □  □




 ナルトは朝の白い光の中目を覚ました。首に巻かれた真白の包帯に気づく風はない。
 傍らには同じベッドに入り、ベッドヘッドに背を凭せ掛けナルトを見下ろし微笑んでいるネジ。
「ネジ‥?俺‥」
「いい。眠っていろ」
 長い指ののびる掌がナルトの両の眼を光から隠し、心地の好いネジの声が再びナルトを眠りへと導く。
「まだ暫く夢に居ろ。次目覚めたときは、何もかもが元通りだから」
「ネジ‥?よかったぁ。じゃああれ夢だったんだぁ‥。嫌な夢見たってばよ‥最高に最悪だった‥
お前が血まみれで死んでっから、俺も自分の喉掻き切っちまったってばよ‥」
 馬鹿だよなぁ、死んじまったらお前に会えないのに
 よかったぁと最後に言い残して、すぅと軽やかな寝息がネジの鼓膜に届けば、ネジもまた掛け布を引き上げ、自身もベッドの中へもどった。
 記憶の改竄はもう少しだ‥
 真と偽は摩り替わり、夢と現の齟齬はきれいになくなるだろう。
 金糸の頭を腕に抱きこみ、すべらかな額に頬を寄せて。ネジは朝の光に溶け込むような細やかな呼気を唄に、自身もまた緩やかに眠りへと身をおとしていった。

 二人、身体を丸めて眠る。
 絡み合うその姿はまるで


歪な胎児






 お前等2人、番の鳥が、俺はこの世で一番恐ろしく
 そして同時に愛おしい。




 □  □  □




 客を見送った蒐集家は玄関ホールの側面にある、二階へと伸びる階段を上った。紅い絨毯は褪せて、埃に黒ずんでいる。行き着いた踊り場から正面にある重厚な扉を開けば、彼は求めていた人物をそこに見つけた。
 一人掛けの革椅子に座り、陽に焼かれて黄ばんだレースのカーテンから差しいる光に象られている。椅子の背は高く、体格のいいその人物もすっぽりと隠してしまっていて。肘置きに載せた腕と、白い明りに染まる指先だけが覗いていた。
「――往ったのか」
「往ってしまったよ」
 結局実験体にはなってくれなかった。
 そう残念そうにしながらも満足したように笑った。
「綺麗な瞳をしてたんだ。君みたいにどこまでも澄んで、深かった。片方だけでも欲しかったけど死んだら色を失くしちゃうっていうから諦めたよ」
「俺が死んだら、この目を好きにすればいい‥。もはや処分する義理もないからな。」
 生きた証を残す‥か、考えられなかったことだ。
 と可笑しそうにその人物は喉を震わせ、太い声をした彼は椅子を回すと蒐集家の奇抜な衣装をみて、唇を曲げた。
「長年見てきてもその服には慣れないな」
 そうぼやいて、杖の力を借りて立ち上がる。悪くした左膝は彼の後から絨毯を重く摺りつつついてくる。
 それを助けるように蒐集家は男を支え、二人階下へと向かった。
 客人との対話のために庭に広げたティーセット。それを今度はこの男とふたり、楽しむのだ。
「今日はケーキを作ったんだよ。やはり我輩の子供たちは出来が違う。とても繊細なものが出来上がったのだよ。でも彼は食べてくれなかったなぁ‥お茶は飲んでくれたのに」
 それを残念そうにしながら、次にはころりと陽気に戻ってレンズの奥の目を細めた。
「明日はスコーンも焼こうかな。材料で足りないのがあるからまた君に頼んでもいいかな。ひとつお使いにでておくれよ」
 庭園は相変わらず風もなく、霧に世界を囲われて、穏やかだ。
 穏やかに、けれどどこか寂しい柔らかな光を満たす。
「いいだろう。今度は人に見られぬよう用心していこう」
 席についた男はそう云って、カップを蒐集家へ掲げてみせた。







 終