「あれ?」 ある朝足りないものに気が付いた。 我侭な子供 なんだか胸がもやもやする。 これはあれだ。不快感というやつだ。それでこの不快感とやら は理由が分からない故に腹立たしいのだ。 分からない。まず何がどうして自分をこうも苛立たせるのか。 もやもやと、それは形がなく、己の神経を逆なでするような不 愉快さに銀髪の上忍は普段にない不機嫌さで通りを歩いていた。 その剣呑な空気に通行人たちは知らず足を引いていて、片目の みを晒した男に道を作っていたが当の上忍はそんなことにも気 付いていなかった。 そうだ、これは容にするなら 穴。 言葉にするなら 足りない 。 では何が足りない? 男は首を傾げる。 それを教えてくれそうな人物を知っていたような気もするけれど、 遠い昔の人のようでもあるし。 男は今度は反対側に首を傾げ、けれど見えてこない答に思考を 放棄した。 仕方がない。 元来あき性なのだ。気の長いほうでもない。 このまま自分に苛立って八つ当たりなんて格好も悪い。 忘れてしまえ。きっとどうせ直どうでもいいことになるのだ。 意識の表層にだって上ってこなくなるのだ。 しかし無理やりに閉じた思考も、腹立たしいかな、胸の蟠りを 霧散させてくれることはなかった。 あの人は飽き性だ。いや、厭き性だ。 分別は弁えている。と思う。少なくともそう振舞っている。 けれど一度その蓋を開け、彼の人となりを覗いてみれば、なん ということ、彼にとって世界なんてものはわずらわしいことの 塊なのだ。 その中でなんとか好ましく思えるものを探して生きている。 生きていくのに必要だからと、その理由だけで手に吸い付いて 離れぬものを探している。 けれど、そのことごとくが実に呆気なく、実に軽やかに滑り落 ち、彼は拾うことをしない。 これではダメだ。良い筈がない。 例え忍だとしても、それは哀しすぎる寂しすぎる。 そして、危険すぎる。 執着は必要なのだ。 それを説こうとしたらば彼は 『やんなっちゃった』 肩をすくめて背を向けた。 玄関の扉をくぐる背中に待ってくださいとも言えず、あまりに あっさりと他人を捨てていく男に唖然とした。 足りない足りない。あぁ苛々する。 腹が減ったのかと飯を詰め込んでも収まらぬ。 喉が渇いたのかと酒を流し込んでも晴れやしない。 この気持ちの悪さは何なんだ。 足りないものがあるのは分かった。 だからそれが何なのか教えてくれ。 いくら喰っても満たされぬまま、いくら飲んでも酔えぬまま、 カカシは日の落ち人工の灯りがそこかしこから漏れている街中 をのらりくらりと歩いていた。 やがて踏み入ったのは記憶にはない、けれど見覚えのある路。 それを囲む塀、と目の前のアパート。見上げた先丁度正面にあ るドアが開いて灯りが宵闇を裂くとともに黒い影も現れた。 そうしてそれがカカシの存在をみとめた刹那強張ったのを見る。 カカシは首を傾げる。 あれはなんだ? あれは人間、それも格好からして同職らしい。 けれど『あれ』は何。 引っかかる。記憶にか感覚にか。 足りぬ足りぬと啼いていた風穴が疼いた気がした。 ‥先生 なぜここに イルカは眼下の影がまっすぐ己を見つめているのに同僚に誘わ れた酒の席へ向かう足を止めた。 彼が己を捨てていって一日と経っていない。いや、経っている のかもしれないが昨日の今日で一体何を考えているのか。 それは憤りではなく純粋な問い 未だに、はたけカカシという人間が分からない。 けれどこれはチャンスなのかもしれない。 何がどうあれ彼は自らここに足を向けてくれた。 それは己にまだ可能性が残されているということではないのか。 イルカは逸る気持ちを抑え、喘ぎ喘ぎ口を開いた。 初め、男が何を言ったのか分からなかった。 「カカシさん」 男はそう言った。そのはず。 けれど、なんて耳に馴染む声だろう。 そのあまりの自然さが違和感となって、理解力を鈍らせた。 「カカシさん、上がりませんか?」 何を必死な顔をして。 あんたは誰なんです。‥先生? 男の声に、痛みを伴うほどに疼く洞に カカシは男の立つ扉の前へと跳躍した。 知らぬはずの知った口が無味乾燥に動いて見えるのは、それを みつめる己の眼が映す以外の意思を持っていないのと、己の脳 が目から入る情報を処理するだけで精一杯で耳からの情報にま で手が伸びないからだ。 入った部屋の真ん中で向き合って座っている。一方はくだけて、 一方は正して。 正した姿勢の鼻傷の男は先ほどから何事か言葉を繰っている。 誠実そうな面持ちだからきっとそれは順序だてた非常に分かり やすい、けれど淡々としてつまらないものだろう。ただ男が誰 なのかに頭を巡らせている己にはただの一言も耳に入っていな いのだけれど。 「‥とここまで話しましたが、正直俺も悪かったと思っていま す。」 それにはたと意識が向いて、思わずえ?と間抜けな声を出した。 「貴方にとって捨てることは生きる術だったのに、貴方の気持 ちも考えずに自分本位の考えを喚きたててしまって」 厭になったと 言われても仕方がありませんよね ―――雀 突如現れた白く擦れた荒い画に目が眩んだ。 カカシは額を押さえて傾いだ身体を支えた。 □ □ □ 雛が丁度目の前に落ちてきたから咄嗟に手を伸ばしたらすっぽ りと片手に収まって、巣に還してやるべきかと見上げれば黒々 とした小さな瞳にぶつかった。 あぁなんだ、お前捨てたの よくよく見ればその雛は片翼が奇妙に捩れていた。 「どうしたんですかカカシさん」 その仔‥ とイルカは玄関をくぐるなりカカシの膝にのっているそれを指 差して訊ねた。 既に我が物然と居座る男に今更諫める言葉もない。せめて合鍵 をとも思ったけれど行儀良く正面から入ってくる男でもなかっ たから諦めた。 とにかく今日この日の無頼漢は、態に似合わぬ珍しいものを連 れていた。 「落ちてきたんです。どうも親鳥に捨てられたようでね。なん だか気になって持ってきちゃいました。」 唯一さらした右目を細めて笑う男に、イルカは胸が弾むのを覚 えた。 「持ってきたって‥」 それより気になったって なんということだろう。血も涙も、情さえもないと思っていた 男が! 「連れてきたんですか?」 「はい」 「カカシさんが?自分で?」 「はい。‥ダメでした?」 「まさか!」 全然良いに決まってますよ! 嬉しい嬉しい嬉しい。 もはや諦めかけていた情操を、彼はちゃんともっていたのだ。 誰かに優しくするという行為を彼は行えるのだ。 嬉しい けれど雛は雛で鳥は鳥 自然の理に正しく従う。 生きられぬと捨てられたものが、生きられる理もない 死は隔てなく あまねく命ある者に訪れる 距てなく 見つけたのはイルカ 部屋の真ん中、昼下がりの畳の上で羽を広げて動かぬ身体。 死んだのだ。 鼻の奥がいたんで、じわりと涙腺を駆け上るものがある。 お前は情に厚い、と誉めているのだか窘めているのだか判断の つかぬ言葉をくれた友人を思いだす。 だけど仕方がないじゃないか、生き物なんだ。生きていたんだ。 それが動かなくなったんだ啼かなくなったんだ死んだんだ。 ―寂しいじゃないか 冷たい羽毛を見下ろして、ただはらはらと涙を落すイルカの背 後にいつのまにやら彼は立っていて。その肩越しに頭をのぞか せその息はイルカの耳をくすぐった。 「死んじゃいましたか‥」 まぁしょうがないですね。元々食も細かったし。長く生きられ るとは思っていませんでした。 仕方がないなぁ そういって実に軽やかに身を屈めた彼は、冷たい羽毛の塊を、 捩れた羽先をつまみ上げて 屑篭へ その一連の動作が酷く自然すぎてイルカは動かぬ足の上、動か ぬ頸で眺めていた。 屑篭へ クズカゴヘ? 「何を‥っしてるんですか!!?」 振り向いた男の、酷く子供じみた、傾いだ貌が怒りよりも恐怖 をよんだ。 「――すずめ‥」 「はい?」 「雀‥。イルカ先生?」 「はい」 イルカ先生イルカ先生イルカせんせい いるかせんせぇ 突如湧いてあふれ出した記憶に潰されそうだった。 押しつぶさんほどに重く、目をつぶさんほどに鮮やか 光の、色の、洪水だ 「イルカ先生」 ただ衝動のままにその身体をかき抱いた。 虚は埋まる 忘れていた。 何故。 失くしていた。 愚かな。 取り戻した。 救われる。 「ごめんなさい、イルカ先生。ごめんなさい。」 訳もわからず目を丸くしていたその人は、きっとまだ訳を飲み 込んではいないだろうに、人好きのする柔らかな笑顔で何も云 わずに頭を撫でた。 「俺の方こそ‥ごめんなさい。」 □ □ □ ところどこに白く滲む青空を窓枠で切り取った部屋の中から眺 めて、カカシはイルカの膝に頭をのせていた。膝をかしている 本人は何でも無い風に胡坐をかいたまま机もなく書類を広げて、 ひたすらに目をはしらせている。勿論何も言わずに。 カカシもそれを良しとして、たまにちらりを彼を見上げながら ただ黙って窓の外を、うつらうつらとまどろみはじめる目蓋を そのままに眺めている。 「ねぇセンセ。」 もう半ば眠っている甘えた声にイルカが「はい」と視線を落す と、目を閉じてうっすらと笑んでいる素顔のその人。 あぁなんて無防備に 「なんですか?カカシさん」 「今からちょっと‥出かけませんか?」 貴方眠たいんじゃないですか。とそう揶揄うように笑ってやり たかったけれど、彼が本当に立ち上がるか、それとも寝ぼけた 戯言なだけか、どちらでもいいとイルカはことの運びはカカシ に任せることにして「いいですよ」と頷いた。 「じゃ、いきましょうか」 云うなりがばりと起き上がって、先ほどの眠たげな様子など露 ほどもみせない笑顔でカカシは手を差し出した。 差し出されるまましごく自然にイルカはそれを受け取って、カ カシが引くまま立ち上がる。カカシの頭をのせていたのとは反 対側の膝においていた書類も、手にしていた書類もばさりと畳 に落ちて、散らかるまま散らかしてイルカはそれを気にする風 に振り返ったけれど、カカシがぐいぐい腕をひくから大人しく 従った。 昼下がり、なんの予感も抱かなかった。 「何処にいかれるんですか?」 部屋をでてから数分。人気の少ない路地裏、片手に畑の広がる 畦道をカカシについて歩きながら見知ったその道にイルカは予 感めいたうずきを胸に感じてそう訊いた。 「まま。いいからいいから。」 そう軽い調子で笑って、やっぱりカカシは振り返らないままイ ルカの先をずんずん歩く。 けして散歩の速度ではないそれにイルカは少し忙しく脚を動か す。もったいぶったいい様はイルカに期待よりも不安にも似た きまりの悪さを覚えさせた。 この人のことだから―‥ イルカは予想する。 街からはなれて田畑を眼下に小高い丘は一本の古木を頂き寝そ べっている。古木は里の生まれる前からあったと聞く、それに 相応しい貫禄と威厳を備えている樫である。 だからイルカはその下に立つとき言いようのない安心感につつ まれる。樫が枝を広げる様は母が腕をひろげるのに似て。それ だから根元に座り、幹に頭をあずけて眠ってしまうことがたび たびある。子供の時分などは日課のように訪れていた。 そこに今日も立ち、常ならいないもう一人の来訪者を隣にイル カはまだ新しい土の被る一山を見下ろす。『カカシさん』と声 をだしたいのに、なにかが声を押し戻して息をするのもままな らない。押し戻されれば押し戻されるだけ、込み上げる熱にイ ルカは荒く胸を上下させる。 「ありがとうね、イルカ先生」 これを云いたかったんです。 そういって照れくさそうに笑う顔が朗らかで、子供じみて、イ ルカはついに堪えきれなくなって感極まった泪を一つ眦から零 した。 「なんで‥みつけられたんですか‥」 上擦りそうな声を掠れさせてイルカがカカシを見上げ、泪もぬ ぐわず問うてみれば 「犬たちに探させました。イルカ先生の匂いもついてるはずだ から‥」 三日かかっちゃいましたけど 云って、また照れくさそうに哂った男をイルカは引き寄せるよ うに抱きしめた。 抱きしめて、自分よりも背の高い男にしがみついてイルカは胸 を占めて締める想いをかみ締める。 「今度はちゃんと、一緒にお墓まいりしましょ。」 男が優しく囁くその言葉に、支えを失ったように何度も何度も 頷きながら。イルカはたださらにとせり上がる嗚咽をかみ殺す。 喜びにさえ人は泣くのだ。 お線香はなかったから、小さな野花をひとつ供えて 帰りは二人手を繋いで、紫の雲を掛け始めた空を背中に家へ帰 った。 紅く染まった眦は擦りすぎたためか、紅く霞みはじめた空気の ためか。イルカは繋いだ手の熱に俯きがちに、たまに強く握る 男の手を負けずにぎゅっと握り返した。 終 間をあけてラストだけかくとどエライことになるという一例。 2005/02/05 耶斗 |