還る 目を覚まして一番に見たのは目蓋に透かし見た陽光ではなく、 それに輪郭を溶かしながら微笑む己を見下ろすひと。 悪い夢でも見ていただろうか寝巻き代わりのTシャツはぐっし ょりと冷たく濡れていて不快で仕方がないはずなのに、それ にも気が回らないほど早鐘を打つような心臓の鼓動に息が詰 まる。 己の手をとってくれている彼に何か言わねばと口を開きかけ て、彼の名を知らぬことに気付く。 誰? それすら訊けなくて喉の置くから喘ぐような声が漏れた。 微笑んだ彼はやはり微笑んだまま、一片辺もそれをくずさず に己の手を包んでいた両手の指を解いた。 「そろそろだ」 すとんと腹に落ち着くような、不思議と人を安らげる声だと 思った。 そのまま彼の背の光が強くなっていよいよ彼を溶かしてしま い、己はというとその余りの眩しさに眼を焼かれるような痛 みさえ覚えて堅く目蓋を閉じた。 次に目覚めたのは暗い森の中。ぬかるんだ土に身体を埋めて 眠っていたらしい。酷く身体がだるく、目にかかる前髪を払 いのけるために腕を持ち上げるのさえ億劫で。そうしてみた 手甲にどきりとした。 薄汚れているためにそれがもとは鈍く光る銀色の鉄板だった のだと知れる。その汚れ、こびり付いた錆のような滲み。 あぁ、そうだ任務の――‥ おそらく雨がふっていたのだろう、かじかんだ指先を頭の先 にもっていけばそれでも濡れた感触を認められた。 ぬかるんでいるのそのせいで、そのおかげでたいした打撲を 受けずにすんだ。 暗闇の中、薄らぼんやりと浮かび上がる崖の斜面を見上げて 思う。 平静な己に内心驚きながら、ゆっくりと身を起こす。 肘をたてて上体を起こすそれだけで、いちいち静止しなけれ ばならない傷に舌打ちする。 止血は、していない。肉が動くたびに脈も不自然におおきく 跳ね、どくりと血を溢れさす。経絡系もやられたか。けれど 頭はへんに冴えたままだ。 手持ちの忍具もほとんど残っていない。火薬も湿ってしまっ ているだろう。札も使い物になるかどうか知れない。 崖の淵で敵の刃をなぎ払いながら伸ばした切っ先は確かにそ の腹を裂いたはずだ。 ならば目下の敵はいないだろう。 一先ずは、どう進路をとるか。 未だ片膝をついたまま立ち上がれずにいる彼は、せりあがる 嘔吐感を飲み下しながらぎりりと前を見据えた。 そして片方の口端を皮肉気に持ち上げて、白い犬歯をのぞか せる。 「わざわざ夢にまで出張してくれて‥。過保護すぎるってば よ。」 ぐいっと腹の傷を庇うように力をいれながら膝を伸ばした。 途端、ばたばたと嫌な音をたてて腹から多量に血が落ちたよ うだったけれど、なんの気にもなるものか。 俺は今、死ぬ気はしないのだ。 「まってろよぉ‥ネジ。絶対還ってみせるかんな。」 何が何でも 強烈な光のなか己だけを強く見つめていた深い透明な双眸を 今このときにさえ眼前に見ているような、そんな感覚に不思 議と身体は軽くなった。 終 デキる前っぽい。 うちの兄さんって一体なんなんだと己を振り返った一品。 20041227の日記から 耶斗 |