[雪華]



 僕らは皆、粉雪のように繊細でも清純でもないから。


 踏みつけられる雪が軋む後には二列の足跡があった。一歩一歩の幅は大きく、爪先の深く穿たれていた。
「早く‥っ、もっと早くだ‥っ」
 一人の息は切れて、肩で吸い込む凍った空気は肺を苛んだ。急かされて腕を引かれるまま足をもつれさせるもう一人もまた苦しげに呼吸(いき)を繰り返しながら、荒いその呼吸のために相手の男に応えられず、ただ困ったように視線を上げて彼を見るだけだった。
 男は怯えていた畏れていた。同じ年の頃のその男がそんなにも怯える訳をナルトは知っていた。知っていたし、彼がそれ程に畏れる理由も理解していた。していたけれどどうすることもできないし、それが己によることでもあったから元よりナルトにできることなどこうやってささやかな嘘で付き合ってやることだけだった。引かれる右腕は寒さのみの所為でなくとうに痺れてしまっている。伸ばしっぱなしの関節が、少し痛んだ。
 雪の上に乗って上手く走る方法を体は忘れてしまっていた。いや、感覚としては残っていたのだけれど、それを神経にのせて細胞に模倣させる力を失っていた。男の名を呼んでやりたいと思った。息が苦しくて叶わなかった。それでまた、悲しくなった。
 男は自分を連れて逃げようとしている。全てを捨てて、己(おれ)を奪って、総てに呪われ生きようとしている。
 その弱さ強さ!
 俺一人、切り捨てる覚悟もないのか。
 己の総て、捨てる覚悟はあるのか。
 里の影は見えなくなった。追っ手の気配も今はまだない。もしかしたらこの男と考えを同じくする者が命を捨てて足止めしているのかもしれない。だとしたら悲しいことだ。だとしたら彼らは己の意志を理解してくれていないのだし、結局己は彼らの努力を無にするのだ。
 気管に氷柱が立っているように痛い。
「ネジ‥」
 吸気か呼気か、曖昧な息の中で辛うじて音になったそれへ男はこの上ない悲壮な顔で振り向いて、ナルトは悪いと思いつつも笑ってしまった。きっと、男は察したのだろう。否、初めから理解していたはずの男であるからとうとう宣告される無惨な仕打ちに震えたのかもしれない。
(あぁ、そんな顔をするなってばよ‥)
 せっかく決めた覚悟も、こじつけた言い訳も、総てなかったことにしてしまいそうだ。
(だってしょうがねえじゃねぇか)
 俺は里が好きだし仲間が好きだし部下たちが好きだしお前が、好きだし。
(腹のこいつももう)
 留まってくれそうにないんだし。
 仕方ないなんてそんな、諦念の言葉を一番厭うていたのは彼自身のはずだったけれど、
(だって、仕方ねぇんだ‥)
 体はもう半分引きずられてる。踏み出す度、重心を移動させる度、崩れては地面へ捕らわれそうになる膝を男の力が引き上げ引っ張っていく。
(ネジ‥、ネジ‥)
 もういいんだよと言ったところでこの男は泣くのだろう。それなら何と言ってやればいいのだろうかといって何の言葉も出てこない。悲しませることしかできない。最後には俺は男の掴む手を払うのだし、いずれ男も離さねばならぬことを知っているのだし。
 腹の中で、獣の蠢く気配がする。まるで身ごもっていると可笑しく思ったのは狂い初めているのかと漠然と恐怖を感じた数日前のことだ。
 女なら良かったなぁ‥。
 女ならせめて、お前に残せるものもあったかもしれないのに。
(ネジ‥、ネジ)
 先行く背中を抱いてやりたい。広い胸に抱きしめられたい。視界が覚束なくなって、凝らすけれど
 白の世界を裂くようにたなびく鮮烈な黒さえ霞んでしまう。
(ネジ‥)
 ナルトは、知っている。男がこんなにも怯える訳も畏れる訳も。そうして己がここで倒れれば、この甘い逃避行は終いになるのだということも。男は里へ帰るだろう。己を腕に抱えて。
 封印は既に解けているのだ。今はもう彼自身の体が文字通り蓋をしているだけにすぎない。その入れ物もすっかり蝕まれて、いつ崩れ落ちたっておかしくないのだ。
(だからそうなる前に新しい入れ物を)
 新しい人柱力をとナルトは願った。人柱力とは詰まるところ自然の一部なのだ。災とはなれど欠いてはならない必要なものだ。だから4代目火影もこの世に残したのだ。
(その意志は‥継がなきゃなんねぇ‥)
 例え悲しみが連鎖しようとも。
(だからネジ‥)


 帰ろうと言ったナルトに、やっぱりネジは泣き出しそうに顔を歪めた。





2/6の日記より。
2006/02/15 耶斗