御伽噺のような 夜の海は滑らかで、銀の細波は針のよう。街灯は遠く、しかしふたりっきりの砂浜は月の光に十分明るかった。 中天の三日月と合わさるように、半身振り返った男は三橋に手を伸ばしている。 「なにしてんだよ?ほれ」 ぶらりとそれを揺らす様は、まるで応えることを当然と。 「あ‥の‥」 小心な三橋が迷うのは、裸足を波に洗わせながら立つ男が何を目的としてそんな楽しそうな顔をしているのか、予想がついているからだ。 「ほら、来いって」 身体を伸ばせば届く距離だった。僅か爪先を伸ばしたようだったが、男は些かも立ち位置を変えず、三橋の腕を捕らえ、引寄せた。 「う、あ‥っ、あの‥っ」 三橋も裸足ではあったけれども、それも男に強要されてのことだった。訳の分からない自論で三橋を言い包めるのは誰しも難しいことではないのだけれど、殊この男の舌はよく回った。 腰の引けていた三橋は、その分突然腕を引かれて直ぐに対処できる反射神経を持っていなかった。持っていなかったからこそ、例えそれが男として軟弱すぎると云われたって、砂に足をとられ体制を崩すのは仕方がないことなのだ。 「おわ!?」 男の当初の目的はなんだったのだろう。 もしかして、ただちょっと足を浸からせて楽しもうとか、そういう普段の豪気さには似つかわぬ些細な思いつきだったのだろうか。 兎に角、態勢を崩した三橋に彼は驚き、そのまま倒れこんできた身体を受け止めるにも彼の姿勢は不安定すぎた。 引いていく波と、浚われる砂に手の甲が洗われる。 二人は頭の先からしっぽりと水を被っていた。 「くく‥、びしょ濡れだな〜」 子供のような無邪気さで哂う榛名に、事の原因の三橋はただ畏まるだけだ。 「んな縮こまんなよ。服濡れてたって歩いて帰れる距離なんだから大丈夫だろ」 足の間に三橋を挟んで、榛名は立てた方膝に肘を乗せている。向かい合う三橋はというと、反省のつもりか、はたまた恐縮するさいの習慣か、正座して怒らせた肩の間に頭を垂れている。 それが三橋らしいといえばその通りで、だから榛名も僅か苦笑を混ぜて哂うだけだ。そして芽生えるいたづら心。歪めた唇は悪巧み以外の何ものでもないけれど、今回はなかなかに誠実な思い付きだ。 「おら、顔上げろよ人魚姫」 「ぅえ!?お、オレ‥っ泳げま、せ‥」 やっぱり反応が面白い。 つっこみ処もどこかずれている三橋に出鼻をくじかれた感がしないでもないが、榛名は持ち直すように哂って 「じゃあオレが人魚姫でいいや」 「え、えぇえ!?」 いきなり何を言い出すのだろう、しかし何事にも自己を押し通す男の話題転換にはそろそろ慣れていた。 それで漸く緊張が解れたか、三橋の強張っていた頬は解れて、はにかんだ笑いをこぼす。 「に、似合わな‥です‥はは‥」 と、眼前の榛名の黒い瞳が己を凝眸しているのに気付き、三橋はまた気恥ずかしさが心中を凌駕するのに息をつめた。 「人魚姫は‥」 おふざけはまだ終わっていなかったらしい。いやに神妙な声音に口の端がむず痒くなったが、三橋に空気をこわすことはできなかった。 「王子さまの愛を受けられなければ沫になって消えちまう」 ひたり、と水に濡れた榛名の両掌が三橋のすべらかな頬を包み込む。 鼻がこすれあうほど、吐息を肌に感じるほど近くに寄せられた貌から、固定された双眸は逃れられなくて 「愛してくれるか‥?」 哂う眼が、月影に妖しく。 三橋は、己の顔が熱を持つのを男の掌の冷たさに思った。 沫になる?それは本物の人魚姫だけです。 愛してくれる?貴方に嫌われることをなにより恐れている俺に訊くんですか? 泡沫の最期が、何故だか鮮明に脳裡を過ぎり、三橋は空恐ろしさに泣きたい気持ちになった。 「は‥榛名、さん、は」 「うん?」 様子が変わった、と眉を持ち上げた榛名に 「オレのこと‥を、ずっと、愛し‥て‥っ」 言葉の頭で云わんとすることを察して、台詞の半ばまで期待して聞いていた。けれどやはり初心な三橋に愛の言葉はまだ無理だったかと哂って、それでも十分満悦の榛名はにんまり笑って三橋を抱き寄せた。両の腕がぐるりとまわる、薄っぺらい背中。水を吸ってシャツの貼りつくそれを、榛名は三橋が息をつけないくらい強く抱きしめた。 「は‥るなさ‥?くるし‥」 溺れる魚のように口を喘がせ、後ろへまわした手で榛名の肩を剥がそうと懸命になるけれど。榛名にしてみればしがみつかれていると、それくらいに軟い力だった。 肌に触れることさえまだ慣れないのだ。 あぁチクショウ、なんて可愛い。 「やっぱお前が人魚姫じゃんよ」 喜悦を抑えきれないといった笑いが歯牙の間からこぼれて。 「あーチクショー。泳げねぇ人魚に掬われたんじゃ、溺れるのも道理だよなーあ!」 身体がはしゃいで仕様がないのだと、榛名は抱き込んだ三橋もろとも水面に身体を反転させた。 「うわぁ‥‥‥っぷ‥ッ!!」 猫の子よろしく目を白黒させて水をかく三橋を抱きこんだまま、顔の半ばを海水に浸して、緩みきった顔の榛名はぶくぶくと泡を吐いていた。 終 突発。海ハルミハ。 夜の海は好きですかー!? 2005/07/07 耶斗 |