冷たい手 だと 誰かが 云った。 冷たい手 いつだったか、どこだったか、誰だったか。 多分あれだ、女との別れ話でだ。そんで多分女の部屋でだ。 長い黒髪が綺麗な女。 結構リッチな生活送ってた女は結構気位も高くて。 『別れるか』と思いついたように云った言葉にしばらくは 何も言わずに見つめ返すだけだったけれど、やがて『えぇ 、そうね』 と疲れたような声で応えた。 意味が飲み込めなかったのか、心の中では怒り狂っていた のか。 目線は外さぬまま、戦慄く唇が掠れた声でそう言った。 飽きたわけじゃない。はまったつもりもない。 ただ潮時だ、とそう漠然と思っただけだ。 あんまり遊べる身分でもねぇし。 これは後で思いついた言い訳だけれど。 その時に女が言った言葉 『冷たい手』 脱ぎ散らかした服を纏い終わって、ドアを開いたそのとき に、シーツに身体を刳るみ、ベッドからおりた女が呼びと めて、歩み寄り拾い上げた節くれだった手。 『冷たい手』 好きだったわ‥ 潔い女は好きだ。潔ければなんだって好ましい。 既に過去のものと切り捨てて哂った女は、やっぱり綺麗だ った。 今思えばあれは己を皮肉っていった言葉だったのかもしれ ない。 冷たいのは手じゃなくてオレ? そんなつもりはないのだけれど。 でもそうだな。たまに思う。 冷たいばかりで熱を与えられないこの手は少し寂しいのか もしれない。 榛名、と己を呼ぶ声に隣を振り向くと同時に飛び込んでき た雨音に意識を手放していたことを知る。雨にけぶる窓の 外、蛍光灯の明かりが余計に陰気にさせる教室の自分の机 にかけていた。 「今日雨酷いし、体育館も取れなかったから練習休みだと さ。」 それだけ聞いて後の、遊び行くか?とかなんとかいう声は 綺麗に流して机の隣、床の上に直接置いている部活のバッ グを肩に担ぎ入り口へと向かった。 何事かいいながら追いかけてくる友人に片手を上げて、振 り返らないまま扉をくぐる。 雨なら丁度いい。 何をする気も起きない榛名は、まっすぐ家は帰ろうとして、 やめた。 下駄箱から靴を取り出しながら、脳裏に浮かんだ人物に突 然会いたくなった。 何故だかは知らない。他生徒が玄関の扉を開けたときに流 れ込んだ冷たい空気と、激しい雨の音のせいだったかもし れない。 叩きつけるような雨。大粒の滴が勢い良く地面にぶつかっ ている様はまさしくそう表現するに相応しい。拝借したビ ニール傘はばしばしと雨を受けるくせに、防ぐ役割は大し て果たしていない。脇に抱えたバッグごと、制服は大方濡 れてしまっている。 これじゃあ傘さしてる意味ねえな。 などと思いながら、榛名は駅に向かっていた。 電車使わなきゃ会えない相手はそれなりに苦労する。 やりたいことは即実行。我慢をするのは性に合わない。そ んな人間であるが、榛名はその人物を己から切り捨てよう とはしない。 今もまた、切符を買いながら、改札を通りながら、己の顔 を見たときの相手の驚く顔を想像しては口元を綻ばせてい る。 どこか遠くを見るような、そんな眼も多少和ませて。 雨の景色はそこに着いても変わらなかった。むしろ勢いを 増したようにみえるそれに、もはや抵抗する気も失せたと ばかりに榛名は持っていた傘を捨てた。 ホームの入り口、行き交う人々のおかげで水浸しになった タイルのうえ、一本転がるコンビニのビニール傘。誰に拾 われるでもなく、たまに靴の裏を受け止めながら転がって いた。 三橋廉は現れた影がその人だと知って、眼を倍ほどにも見 開いた。 雨のせいで部活は休止。ひとり校門をくぐった先に薄ぼん やりと確認できる他校の制服。傘をさしていないことは遠 めにもはっきりと窺えて、だからそれがその人だと知れた とき余計に驚いたのだ。 とっさに声を発することもできずに身体機能を停止させて 突っ立っていると、側まで歩きよったそれに額を小突かれ た。 「何ぼぉっとしてんだよ。攫われんぞ。」 およそ高校男児には相応しくない言葉を嗤って云って、榛 名はぐしょ濡れの体で傘の中のその人を引っ張った。 掴んだ腕は温かく、けれど雨によって下がった気温のせい か少し冷たかった。 「あ、あの、榛名 さん」 呼ぶ声になんだと振り向けば、傘‥と差し出す手。 このなりをみて雨から守ってくれる、と? 可笑しくなって、榛名は立ち止まり、声をたてて哂った。 そんな榛名におろおろと傘をひくことも、強引に中に入れ ることもできないでいる三橋の傘を持つ手にもう片方の手 を重ねてありがとな、と笑ってその手から柄を放させると 己の手に持ち替え た。 腕を引いていた手も外し隣に並ぶ。隣に並んでそれから、 人より少し歩みの遅い三橋にあわせてゆったりと歩いた。 一つの傘に二人で入るというのは一見おいしい状況に思え るけれど、片方が傘を持たないといけないというのは当た り前で、そしてそれは必然的に間にはさまれる一本が任さ れるわけで。 だから肩が触れるほど近くにいるというのに手も繋げない。 その分、満たされない胸の内が軽い昂奮に変わるのだけれど。 歩き始めてから以後、二人は一言も言葉を交わしていない。 世界との間を隔てる水の膜に囲われた中聞こえるのは矢張 り傘を打つ雨粒と、アスファルトに跳ねる水音だけで、自 分たちの間に落ちる沈黙に三橋は緊張と、ともすれば居心 地の悪ささえ感じていた。 何かしゃべらなければ、とつま先と榛名をちらちらと見や りながら歩く三橋に 「下向いて歩いてっと転ぶぞ」 と哂って己を見下ろす榛名のその顔をみて三橋はもともと 赤味がさしていた頬をさらに紅潮させた。 「あ、お ご、ごめんなさ‥」 ぱっと顔を俯けた三橋に、だから今云ったばっかだろ、と また哂って榛名は濡れた三橋の肩をみて傘を彼のほうに傾 けた。それはあまりにさりげなく、ただでさえ俯いていた 三橋が気付くことはなかった。 三橋の自宅、門の前まで来て三橋は榛名を仰いで云った。 「あ、あ の。タオル と、服‥。父さんのが あります、 から。」 上がっていってくださいとそういいたいらしい三橋の背を 押し胸元辺りまでの高さの門をはさんで向き合うように立 ちながら 「今日はお前の顔みにきただけだから。」 と哂った榛名は傘を三橋に渡しそのまま踵を返そうと片足 を引いた。その袖の端を反射的に鞄を落とし伸ばされた手 が捕えて、榛名は振り向きかけた身体を三橋に向き直らせ た。 袖を握ったままの三橋は、自分でも何故そうしたのか分か らないと云う顔をしていて。その顔にどうした?と目で問 うた榛名にふにゃりと顔をくずした。 「おい、レン?」 驚いて思わず顔を近づけた榛名は、三橋の掲げた再び滴を 打ち返す音が鼓膜を震わせる傘のなかに逆戻りした。 「あ、あの 榛名、さん」 今にも泣き出しそうな顔で見上げる三橋に、まったく訳が 分からないと見つめ返す榛名は首を傾げる。 「は、榛名 さん。あの‥」 手、と 手、とその唇は象ったか。 象ってそれから、門の上に身を乗り出して、ただ一本の手 に支えられるだけだった傘は地におち、袖を握っていた手 もはずされ榛名の手が引き上げられた。 引き上げて、両手で榛名の片掌をぎゅっと握りこむ。 「レン?」 瞠目して俯いた三橋をみつめる榛名に、 「手、を握ると‥お 落ち着く‥って‥」 部活で聞いたから。だから元気もでるかな‥って そう云ってぎゅうぎゅうと握りこむ三橋の手に、榛名はよ うやく目をやって。そうしてくすりと哂った。 「お前の手、冷てぇよ‥」 「う、お?」 くつくつと喉を鳴らして哂う榛名に三橋が顔を上げると、 もう片方の榛名の手が三橋の頬を滑って、唇が三橋のそれ に押し当てられた。 「‥‥‥っ」 「冷てぇよ。レン」 唇を触れ合わせたまま囁いて、榛名は形のよい唇を弧に描 いた。 唇を引き結んだまま何も云えずにいる三橋に、榛名は己の 身体がぐっしょりと濡れているのも忘れて−どのみち三橋 も雨の中だ。構うことはないのだけれど−腕をまわしてそ の肩口に顔を埋めた。 「は、榛名 サン?」 「‥‥‥」 「‥はるな さん?」 応えない榛名に僅か身じろぎしながらその顔を覗こうとし たが、がっちりと巻きつけられた腕はそれを許してはくれ なかった。 「はるなさん?」 「嘘‥」 弱弱しく名を呼んだ三橋に返された言葉にえ?と首を傾げ れば 「会いに来ただけなんて嘘」 もっと触りたくなった。 服の上で蠢いた唇の伝えた言葉に三橋が紅潮すると、つら れたように熱をもった両手に榛名の口元が綻ぶ。 「今お前んち親いんの?」 身体を起こして顔を覗き込む、髪を張り付かせる濡れた顔 に、こくこくと頷いた三橋の身体は次の瞬間には握った手 に引かれるままに外に出ていた。音もなく開かれていた鉄 格子は、己がそれに気をとめる余裕がなかったためか。 三橋は呆然と後ろの門扉を見やっていたが、 「じゃあ、どっか二人っきりになれる場所いこうぜ。」 その言葉が落とされると同時に己の両腕が持ち上がるのを 感じて榛名に顔を戻せば、組んだ両手の指に触れる唇と己 をみやる黒い双眸が目の前に。 咄嗟に両手を開いた三橋の片手を取って、ふと思い出した ように門の向こうから三橋の鞄と傘を取り上げた。それを みた三橋は慌ててそれを受け取って、榛名の促すまま歩き 出した。 傘はたまにからからとアスファルトのうえ、水をはねさせ ていた。 視界を奪う雨に身を隠しながら、手を繋いで歩く濡れ鼠2人。 冷たい手。冷たい手。 2人揃って冷たい手。 けれど片方は簡単に熱を持たせることができるのだ。 いいじゃないか冷たい手。 相手の温度がよく分かる。 雨に張り付く髪とシャツとズボンと。 毛をなくした鼠が2人。 堅く繋いだ手はもはやひとつのそれのよう。 終 ‥リリカル? アンニュイ榛名。なんだかな。 榛名の手は冷たいと思う。だって阿部の手が温かいから。 (ぇ) 20040925 耶斗 |