「俺にあいつの影を求めるな」 なんて酷い男だろう。 縋る女の手を払って冷たい空気を部屋に呼び込む。あぁ、窓を開けないで。私はまだ服を纏っていないのに。なんて気遣いの無い男だろう。仕方がないから蹴りやってしまった掛け布を引き上げ男に背を向け身体を丸める。寂しい。無性にそう思った。 ちらちらと火影が壁に踊っている。六畳の狭い部屋は私が一日をただ諾々と過ごす、今の私の世界の全てだ。私をここに押し込めた男は今日もふらりと現れては酒を呑み、私を抱いた。 思い出が、少し溜まれば私を抱く。 私からあの人の記憶を搾取してゆくくせに 私がこの男の記憶に触れることは許さない! なんて酷い男だろう。そうして私はなんて可哀想な女だろう。自己憐憫の心地よさに泪が滲み出る。 「泣いているのか」 あぁ、やめて、やめて。哀れむ気など露も無いくせに、優しいふりをしないで。私の、貴方への憐れみを引き出さないで。 桟に腰かけ夜風を楽しんでいた男は月の光に似た美しい髪が目に掛かるのを除けながら女を振り返った。その瞳はこの空間をみてはいない。思い出の泉を彼は間近に備えている。否、彼自身がそこへ歩み寄るに至ったのか。 それを見るたび女は思ってきた。なるほど私では敵わないと。 男の問に応えなければすぐに興を失くして彼の世界に戻ってくれることを知っている。だのに今夜はなんとしたことだろう、窓辺から離れ私の側に戻ってきた。戻ってきた?それは違う。彼の拠り所は私ではないのだ。彼はまた私からあの人を搾取する気なのだ。 男の指、きっと人差し指、その背が私の頬を滑る。まるで慰めるような仕草が気味悪く、そして畏ろしい。つかの間に、男によって変えられた身体。私の身体。唯一きっと最期まであの人を憶えていられるはずだった私の身体。刷りこまれたのは快楽。男によって与えられるのは快楽。男は私を悦楽に漬け、あの人を抜き取っていく。それが今は快楽とは違う感覚に背が震える。 畏ろしい怖ろしい恐ろしい 男は私に何を与えようとしているのだろう。 撫ぜるばかりの皮膚にいよいよしゃくりあげそうになったころ、喜悦に満ちた男の声が米神に落ちた。 「明日、あいつが帰ってくる」 二番隊からの確かな情報だと、隠密機動部隊に子飼のいる男は笑った。心底嬉しそうだ。それは分かち合うための笑いではなく、一人で楽しむための、見せ付けて、私を貶めるための笑いだ。 憎い、男。 ―――良かったな。愛しい旦那様が、帰ってくるぜ‥? そう、そうして私は家に帰り、あの人の妻に戻る。男はあの人の親友に戻る。違う、男はずっとあの人の親友のままだ。親友のまま、親友の妻を嬲るのだ。 明日、あの人が帰ってくる。男のもとにではなく、私のもとに。そう思えば少しばかりは優越の笑みが浮かぶ。それを私は男に見せない。見せれば手荒く抱かれることが分かっているから。泣いてよがるだけ悦ぶ男。それを私は哀れと思おう。 明日、あの人が帰ってくる。 私は、あの人の記憶をどれほど留められているだろう。 |