がちゃがちゃと鎖の打ち合い、擦れあう音だけが聞こえていた。違う、耳障りな金属の音と、男の‥親友だったはずの男の、息遣いと 最後には堪えることができず、身も世もなく泣いて、啼いて、行為を止めてくれることを頼んだ自分の なべて悪夢から醒めるときがそうであるように、一護は四肢の緊張と共に目を開いた。そうしてまた、自分が何の夢を見ていたのか、それ以前に夢を見ていたのかどうかさえ判然としないまま冷や汗を掻いている身体を知覚しつつ身を起こし息を整えようとした。床から身を離し、起きたことを実感して現実に安心を求めようとしたのだけれど 「‥っ」 全身の、特に下部の痛みが急激に主張を始めた。 「い‥づぅ‥」 意識というのは厄介だ。認識すれば誤魔化すのも難しくなる。 仰向けに転がっていた一護は見上げた天井と、それを照らし出す明りを呼び込む窓とを見上げて現状を思い出した。思い出したけれど、次に考えるべきことが何かを迷った。 妻のことを、そして親友――だった男のことを思い出して。 陽が上れば牢の中は明るかった。獄中なんて表現は相応しくなかった。採光のための窓があることからして特別なのだ。まるで修練のための道場に似て清潔でもあった。ただ、格子が外界とを隔てているというだけで。 一護は投げ出した腕を見やった。手首には相変わらず玉枷が嵌められていたけれど、腕を吊り上げていた手枷は無かった。代わりに真白の包帯が巻かれて、どうやら手当てをされたらしい。床の上へ視線を這わせれば彼が繋がれていた壁際には手枷の残骸と、その上に砕かれた鎖が垂れていた。ぼんやりとそれが砕け、感覚をなくした腕が落ちるのを受け止められた記憶が感覚的に思い起こされる。床の上へ組み敷かれ、うつ伏せられ、貫かれるたび床を擦って啼いた鎖の音が鼓膜の裏へ蘇った。 「とう‥しろう‥」 殺さなければ。 殺さなければ。殺さなければ。 ―――――何の為に? (織姫の‥あいつに泣かされた織姫のために‥) 俺の、ために そのために刀をとりあいつの屋敷まで行ったのだ。 ―――――殺せたはずだ。あの時に。 切っ先を逸らした迷いは何からくるものだったのだろう。親友への、惜しみか。 それだけじゃない。刀を奪われても自由を奪われても、男はチャンスをくれたはずだ。殺せと、わざわざ、急所を晒して。この肉体に備わる凶器でもって裂けばいいと (できるわけない。あんな状態で) あんな精神状態で ―――――だが、やれたはずだ。本気で殺す気があったなら。恨みを果たす気があったなら。 (できるわけない‥っ。あいつのあの目は‥) ―――――絆された。懐柔された。情けない。その程度だったのか (違う!俺は本気で‥っ、本気で、織姫の‥俺の‥) 『一護』 空の青が滲む。細長い空が滲んで灰色の壁との境界が曖昧になる。眩暈がする。横になりながら眩暈を覚えるなんて、なんて器用なのだろう。幻聴もする。あるはずのない声だ。今ここにはあるはずの、今はもう失くしてしまったはずの 『一護』 (あぁ‥) あの男の‥己(おれ)を呼ぶ声が聞こえる‥ 泣きそうだった。 黒崎一護と呼ばれていた。 初めの頃、馬鹿丁寧にフルネームで。 暫く経って気を許し始めたかなと思えたのは、呼称が黒崎、と苗字だけになって。 それからまた期間を置いて、一護、と名前を呼び捨てにするようになって。 探してみても彼が名前で呼ぶ人物は (俺だけだった) それを嬉しくも、誇らしくも思っていた。 『足を潰してしまおうか』 いらないだろう?歩く必要もないのだから 黒崎一護―― と呼ばれて一護はうすらと目を開く。昨夜の狂乱の夢だ。眉間に押し付けた玉枷の冷たさだけが己を理性に引き止めてくれるものであったはずなのに、それさえ温く温もり。煩わしくなってしまった熱の中で一護は首を擡げ脈打つ男自身を埋め込みながら抱え上げた足に口付けた男を見た。 『な‥に‥』 『お前の足を潰してしまおうか。黒崎一護』 何故、潰さなかったのだろう。一護は考える。ぼんやりと虚空を眼中に取り込みながら与えられる苦痛の中で聞いていた男の、どこか寂莫とした提案を思い出して。 穿たれ肉襞を擦られながらもはや四肢の隅々まで意識を払うことの出来なくなった頭にその言葉は実感を伴わず吸い込まれて霧消した。 潰しても、折っても、切断しても 今の己に自己治癒するだけの力はない。 命を落とすことを畏れたろうか?そんなはずはない。それを完治させる力を男は持っている。そして二度と再び足を取り戻せないまで時間を置けば、一護は男の云ったように『何処にも行けなくなる』のだ。 足のない自分を想像した。膝下から肉を失った人体を思い描いた。だけれどやはり、それを自分に待ち受ける現実だとは信じられなかった。現に男は一護を嬲っても、身体機能に障害が残るような傷はつけていない。 「織姫‥」 助けて欲しい、と思った。治癒を得意とする彼女はその能力を体現したように、母性の塊といってよかった。何度救われたかしらない。 現世で人間として生きていた頃は彼女とそんな仲になるなんて思ってもいなかった。何故だか、人間であったころ一護は女性と上手くいった例がない。いつでも気安い友人どまりで、たとえ恋人と、そう呼んでも差し支えない距離まで近づいたとしても最後には女の方から別れを切り出された。 何が悪かったのだろう‥。それも、一護は分からないまま人間の生を終えたのだ。 もしかしたら女縁がないのかもしれない。それは、SS(こっち)に来てからも変わらないのか。己の本質に、何か女性を不快にさせるような、満足させられない欠陥があるのだろうか。 女性を慈しむ心が決してないわけではない一護はそのことについて悩んだ時期もあった。あったが、現実として理由も分からない、当然改善のしようもない事実にいつしか考えることをやめたのだ。性行為への特別強い欲求もなかったし、女性が喜ぶことはなにも性行為だけではない。愛するという行為はそのまま慈しむことと同義になった。 「織姫」 だからこそ彼女を泣かせたあの男が許せなかった。同時に情けなかった。 男がそうしたことにか、それともそんな男と知らず親友とまで思い親交を重ねてきたことへか。彼が狂気に走った理由はなんなのだろう。 そう思念が擡げて一護は慌てて振り払った。 いけない。 それは、いけない。 考えてはいけないことだ。ただでさえお前は甘いと、それを示すようなことがあればしつこく云われている。何十年たった今でさえ。 だけど生来のものなのだ。そう反論しても聞き入れらない。せめてメリハリはつけろと、その忠告はありがたいけれど。 今もまた、親友だった男への情が記憶と云う卑怯な道具を使って揺さぶりをかけようとしている。 いけない。いけない‥ 目を固く瞑り、そのうえから拳作った掌を押し付けた。ぎゅうぎゅうと押し込んでいれば、下らないそんな考えも砕けて散ってくれないかと。 『一護』 俺に向けていたあの笑顔は偽りだったのか。 裏切られたと詰りたいのは、己個人のためなのか、尊厳を踏みにじられた織姫のためなのか、それとも二人のためなのか。悲しみばかりが強く、憎まなければと混乱する頭に焦りながら一護は、男の呼ぶその声がいつまでも耳について離れなかった。 次 |