鳥が切り取られた空の連続するひとつの中で、薄暗い部屋を覗きこんでいるのに一護は思わず口角を緩めた。寝転がる一護からは白い腹しか見えなかったが頭の天辺は薄い紫だろう。小さい嘴の付け根にぽつんとひとつ染みのような赤の斑紋を持った掌ほどの鳥だ。一護は指で拱(こまね)いてみたが、好奇心を見せるだけで鳥は中へ降りてこようとはしなかった。
 どれだけの日が過ぎただろう。初め、数えようと爪で刻んでいた床の線は途中から放棄されていた。面に肉欲の色など微塵もみせない男は夜となく昼となく、現れれば気紛れの様に一護を抱いて、時間の感覚を狂わせた。拘留するための事務処理である書類作成は一護の言なく捏造されているのだろう。しかし男が原因により引き起こされた事件だ。男の意のままに操ることは可能だろう。最悪気が狂ったのだと、そう書かれても上は疑いことすれど真相究明には乗り出さない。日番谷冬獅郎という男はそれだけの力を持っている。そうして一護は、この世界が多分に実力主義であることも理解していた。
 冬獅郎は力で一護を所有することも、許されてはいるのだ。
 暗黙の了解で行き渡っている因習を一護もこちら側の人間になってから50年、知らないままではいられない。弱きは強きに屈するものだ。霊圧という、身体から染み出る力の証明だけで他人を平伏させることは可能だった。霊魂とは皮を被った生身の人間より本能が剥き出しなんだろうなと一護は考える。ならば、強きに屈するのは本能なのだ。自らの保身を考える真っ当な方法だ。この世界の住人たちは、圧倒的にすぎる力の圧力には意志に関わらず四肢が弛緩するのも、ある意味では本能の働きなのではないか。自らの命を絶つことを愚かと、先を見通す冷静な本能が支配しているからではないのか。悔しければ自害することもできる。だがその度に、主が力でもって捻じ伏せ続ければ‥、半永久的に主従の関係は保たれるだろう。
 そんな殺伐とした世界にSSがなっていないのは、ひとえに死神たちの心根が優しいものだからだ。だからこそ一護も彼らに心許し、彼らも一護を受け入れているのだけれど。



「織姫に会いたい」
「会って話をしたい」
「それくらいのことも‥許されないのか‥?」
「あぁ」
 冬獅郎は食事を運ぶ。
 霊力を使わないから腹など減らないというのに、それでも蓄積される霊力の反動で体力が消耗されるから食えと。拒めば無理矢理口に押し込まれる。吐き出せば口移しで、噛み砕かれ男の唾液と混ざったものを飲み込まされる。
 冬獅郎は湯を運ぶ。
 桶に一杯の湯と手ぬぐいで一日に一回身体を清める。着物を剥れ、全身拭き清められて。拒んでも難なく押さえ込まれて。暴れれば足を開かされる。二度手間だ、と溢しながらそれでも仕事を終えていく。
 唯一下の世話だけは自身に許された。簡易の便器は部屋の隅に作られていた。
「お前、何時仕事してんの‥」
「ここにいない時だ。お前が気にすることじゃない」
「あ、そ」



 慣れれば苦なんてないのだ。感覚が麻痺しているだけなのかもしれないけれど。思考することを拒否しているだけなのかもしれないけれど。
 不安を抱くことも、希望を抱くことも無駄な仕事だと理解していたし。待つしかないと分かっていた。内側から打破できない壁は外側からの作用が必要なのだ。誰か、何か。
 格子に縋り、間隙に項垂れ、その厚さ重さ堅固さを思い知らされながらひたすらに待つ。
 希望は抱くな。絶望は来ない。ただ待て。誰かが、仲間が友人が。不審に思う人間は少なからず現れるだろう。そうすれば
 来てくれると信じながら、叶うだろうかと疑っている。
 だって相手は冬獅郎なのだ。己と外界を隔てるものは、立ちふさがる壁は、こんな両手に握りこめるような格子なんかじゃなくてあの、天才と謳われる男なのだ。
 どうして対抗することが出来るだろう。そもそも己がここに閉じ込められているのだって、それを上から許されたのだって、あの男の巧妙な策が成功したからに他ならないのだ。熟達した口舌が功を奏したからに他ならないのだ。
(誰が敵うっていうんだ‥)
 あの夜の自分の行動からして凡てが不利な方向に働く。
(待つんだ‥。待つんだ)
 近づいてくる足音を聞きながら格子へ前頭を預け座り込んでいた一護は、格子にかけていた手の力を抜き目を閉じた。振動が、床を伝わり格子を上る。足音が一旦已んで、舎の扉が開かれる。床の振動がより鮮明になって‥
 うっすらと目蓋を開けば、牢の扉が開かれたそこにこちらをみやって立っている冬獅郎の姿がある。
(待つんだ)
 目には何も宿らせず
 男に何も悟らせず
 待つしかないのだ。他力本願だと嗤わば嗤え。

 畏ろしいのは、あの男を殺せなくなるかも知れない恨みの薄れ

 馴れるな酔うな恨み続けろ呪い続けろ


――――誰がために?


 其がために







 暗くなりがちの心を、日をおいては現れる鳥が励ましてくれた。鳴き声から顔上げていた一護はやがて鳥の来訪を待つようになり、現れては空を背に影を投げかけ踊るように跳ね回る姿に目を楽しませ、まるで人語を解するように、語りかける一護へ首を傾げる仕草に一護はささやかな慰めを見出していた。
 自由に訪れては飛び去っていく翼もつものの姿に、いつか一護は子供の頃みた夢を思い出した。人は誰しも一度は考えるだろう。自分に翼があればどれだけ素晴らしいかと。記憶にある空は今目に映るそれより青く、碧く、澄み渡って。吸い込まれるような心地に恍惚とした。叶わないからと思い描いた夢想を、記憶として思い起こす一護はその度に織姫の顔を思い出した。焦点を迷わせぼやける視界に何故かその影だけは鮮明だった。

 冬獅郎は廊下の壁に凭れ、障子の向こう正面の壁の前にいる女を冷めた目で眺めていた。織姫は褪せた畳に手をついて訴える 拭われない泪は乾いた上から流れ頬に纏い、畳には黒い染みが影より濃く残っていく。
「私をここから出して!」
 女の顔だ。疲れた女の顔。無邪気だった頃の面影を今は見つけることが出来ない。
「あの人は何処!何をしたの!あの人を許して。解放して‥」
 鼓膜を裂くように尖った叫びで冬獅郎を詰っては、ほっそりとした白い指の掌で貌を覆ってすすり泣く。
 私は好きにしていいからと、自己犠牲の精神には感服する。それが自己憐憫に繋がる醜悪さを冬獅郎は厭うた。女の、心からの優しさであっただろうにそれは、どす黒い嫉妬の渦に巻き込まれ喰い千切られた。すまないなと思う気持はある。しかしながらどこまでも儀礼的である謝罪はまた冬獅郎を苦しくさせた。矛盾するのだ。相反する感情の鬩ぎ合いに、冬獅郎もまた苦しんでいた。
 どうしてこんな真似をしてしまったのだろう。女の泣き声をどこか遠くで聞きながら冬獅郎はぼんやりと思惟を回らせる。彼女に抱いていた感情は、彼と同じくなんでもないもののはずだった。いつから変わった。いつから狂った。なんでもない感情のはずだったのに。
 純粋に彼を愛することができる生まれながらの免罪状をもつ彼女が疎ましかった。
 他人の人生に干渉するつもりはない。他人の生活に深く介入したいつもりもない。極力親交を避けて生きていきたかった。上辺だけで騙せないなら些少の心だって見せてやる。だがそれまでだ。それ以上は許さなかった。なのに
 黒崎一護の存在が
 生き方が、戦い方が、在り方が
 似ている、と誰かに云われたときには冗談じゃないと撥ね退けた。一体誰と誰が似てるって?あんな霊力が馬鹿でかいだけの子供(ガキ)と?
 戦い方を学んでいけば、彼は大成するよ。細かい作業は苦手らしいからちょっとは苦戦するだろうけれど、真面目な子だし、コツを掴んでしまえば早い。黒崎一護を特に目にかけていた十三番隊長はそう苦笑していたか。いつかその事を愚痴った自分が珍しかったのかもしれない。録に酒にも付き合わない自分が月見酒に乗った上、そんな、情緒の欠片もない小言にも文句を差し挟まず聞いていた彼は心底お人よしだ。
 経験値が違うのだろうな。その時はそう、思った。
 女は相変わらず泣いている。
 慰めに背をさすってやるべきだろうか?そんなこと、余計に怯えるだけだと分かっているから腕組みした腕をずらしてずり下がっていた背を立て直した。
 薄く、頼りない肩は、守ってやらねばと思う。彼女をこうさせたのは自分だし、彼女の心根の清らかさも知っている。
 いつからだろう‥
 彼らがまだ、肉を持ち生きていた頃からか。
 彼女を探してやろうと思ったのは何故だったか。
 そうして、十二番隊にもっともらしい理由を話して、彼女がSSに渡って来る際の落下地点を捕捉させた。
 引き合わせたのは何故だ。
 己が、彼女と同じ意味で彼を想う様になったのは、いつからだ。
「私をここから出して!」
 興味なさげに視線を剥がし、冬獅郎は左手にある出口へ向かい背を返した。
 もう行こう。そろそろ使いがくるはずだ。
 冬獅郎は障子の翳にその背が消える寸前
「好きにしろ」
 と振り向きもせず投げやった。
 玄関用の小さな入り口を抜け出る際、彼が結界が解いたことを織姫は畳に蹲りながら知った。窓の障子から昼の終りの陽が寝乱れた布団の上に落ちている。寂光の中にちらちらと埃が舞って、咽び泣く織姫は自分が何のために、誰のために泣いているのか分からなかった。
 解放される喜び 囚われた夫 価値を失った自身 己のために怒り飛び出していった背中 組み敷く白い肢体銀の髪 広い胸萱草の髪 二人の男
 裏切ったのは、裏切られたのは、騙していたのは、騙されていたのは
 何も分からなかった。考えるには過ぎた時間が長すぎた。
 恨めばいいのか謝ればいいのか。それすらもう、分からない。
 ただ、自分はもう”いらない”のだと、それだけが確かなことで。織姫は誰かの手を嘱望した。慰めてくれる手が必要だった。誰でもいい。どうか、情けないばかりのこの身に赦しを与えて欲しい。







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