通常、囚人が収容される牢の二倍ほどはある其処へ黒崎一護は繋がれた。見上げて翳に曖昧な天井近くの壁に打ち込まれた鉤から伸びる鎖に両手を拘束され、壁の一点から真横に広げられた両手首の二点へ黒ずんで太い鎖は尖塔を描いた。 両膝を開き、爪先を立てた踵の上へ尻を乗せた一護は手首を縛める枷により前へのめる身体を支えられていた。彼の手首へは別に玉枷−−霊力を封じる石を削って造られたもの−−が嵌められている。継ぎ目のないそれは他人の霊力をもってしてしか取り外しの出来ないものだ。ここへ連れてこられる間、鎖へ繋がれ玉枷を着けられる時も抵抗した彼の衣服は乱れ石の壁に冷やされた空気が肌を冷やした。一杯に広げられ、固定された腕の付け根は強張り、飛び出した貝殻骨に筋が引き攣る。垂れた頭部に首も背中も、その筋が突っ張るが彼にとってそれらは彼を冷静にさせるに必要な痛みなのだろう。霊力を完全に封じられた彼が頼りにできる己の感覚とは、今や肉体の存在しかなかった。伸びる筋肉、吐き出す息、息づく心臓と冷えた床に痺れていく膝頭。たとえそれが痛みに分類されるものであったとしても、彼にとっては自分を感じるための必要最低限の材料であった。 誰かの、床を踏み締めたために軋んだ音に持ち上げた目の先には無情な格子が視界の端から端まで連なり、そこへ至る板敷きは半ば以上翳に塗りつぶされ板の境目は知れない。それは彼の頭上高くにある、これもまた格子を嵌められた(一体誰がそこから出入りするというのだろう)窓が両側の壁まで伸びてはいても非常に狭いためであった。だから彼は自分の膝も定かには見分けられないのだ。 「誰だ‥」 呻くように掠れた声が一護の喉から搾られた。他人の霊圧を感じる程度のことは出来るから(故意に消されない限り)、誰かが牢舎へ入ったことは分かるのだ。牢舎とはいっても屋根の下にそれはひとつしかなく、どれだけの重罪人を収容することを想定していたのか百は余裕だろうに独房であるらしい。それは拘束具がひとつしかないことからの推測であるが、入れようと思えば複数いれるだろう。今、一護が囚われている牢屋は入り口を入って真っ直ぐ伸びる廊下に面している。つまりはそれだけのための建物なのだ。 月明りもない廊下を危なげなく歩く足に従う軋みに耳を澄ませて一護は待った。予感はあった。分かっていたといってもいい。果たして現れた彼は予想通りの人物であったから。 天井近くから差し込む蒼い影は格子の内側に届こうというところだった。だから彼の顔は見えない。ただ輪郭が朧気に翳と境界を異ならせていた。 格子のどこに出入り口が嵌め込まれているのか、正確な位置を一護は知らなかったが、今彼の立っている場所こそ其処なのだろう。一護の繋がれる牢を牢舎の入り口側の壁際で彼は足を止めていた。彼が、眺めているだけのはずがない。侵入(はい)ってくるはずだ、と確信していた。あるいは切望していたか、肩が潰されるような感覚に気付けば前へ乗り出していた。手首も、皮が剥けたかもしれない。ちりとした痛みが内側の柔らかな肉を刺激した。 冬獅郎―――― 昂奮の内に鎖へ繋がれ、昂奮の鎮まってから今までどれだけの時間が経ったのか一護は知らなかった。明けていない夜に、思うより短いのかもしれなかったし、存外長いのかもしれない。無音は静寂の煩さを知らしめ時間の感覚を奪っていた。それでも現れた人物に感情は高まり、孤独からくる寂寥感は掃われていった。 冬獅郎‥ 獣が威嚇するように、それ以上は身が引き攣るだけだというのに一護は前身を低くして呻いた。翳と同化するように昏くなっていた瞳は光を取り戻し、闇の中で輝くようだった。それほど強く、烈しく、己を睨みつけてくる彼を冬獅郎は袂に手をいれ腕組みした格好で見詰めていた。着替えてきたのか、私服に戻っている。それがまた一護の体内時計を狂わせる。総隊長への報告の前だか後だか、当りをつけられない。がしゃり、と引き千切ろうとでもするように重く鎖が啼いた。 じりじりと長いこと睨み据えていたが、まんじりともせず、動く気配のない男が唐突に消えた。目で追えるはずがない。ただの霊魂と同じ霊力にまで落ちているのだ。周囲へ目を奔らせ、左の首筋に凍るような気配を感じて後退する隙間もないのに一護は飛びずさった。片膝が跳ね上がり、壁の堅さに肩と後頭部を打つ。派手な音を立てて長く伸びた鎖が壁を叩き、撓めば手首を苛んだ。それまでも同じ姿勢を強いられた身体は緊張しきっており、身を起しただけでも伸びきった筋肉は二つに割られる板のようだった。 (冬獅郎‥) 一護は目の前にする彼が無機質な眼をしているのにじわりと胸中へ戸惑いが滲むのを覚知する。”人”を、同じ”もの”を見る目ではない。一護の知る彼とは全く異質の彼であった。道端の石ころへでもそんな眼はしないだろう。それほど、普段の彼は暖かな眼差しをしていたので。 そういえば‥刀を突きつけたあの時も、同じ眼をしていた つい先刻までの気概は何処へ行ってしまったかと、一護は己の中にそれを探さねばならなかった。ただその瞳に映されているだけで背が震えそうになる。彼は必死で思い出そうとした。彼に、冬獅郎に傷つけられた彼の大切な者を 「何故‥っ、あんな、真似を‥っ」 搾り出した声はまるで怯えているように喘いだ。霊圧の所為だ、一護は思う。玉枷を嵌められた一護は丸裸の状態である。男から醸しだされる霊圧を防ぐ術を剥ぎ取られ、攻撃的でしかない圧迫感に息が詰まる。項の産毛が逆立ち、呼吸が浅くなる。冷や汗が滲んだ。 「あんな真似‥?」 白々しい応えも、腹の底へ落ちるような声に怒りよりも畏れが勝つ。それが情けなくて悔しくて、一護は奮い立て、と奥歯を噛み、男へ上げていた面を剥がして堅く眼を閉じた。網膜から男の影が消えれば、自己も還るだろうと。床を凝視したまま目を開いた一護は翳をみつめ叫ぶように云った 「織姫を‥っ、俺の妻を、辱めた‥っ」 ふぅん、と興味なさげに彼は鼻から息を吐いたらしかった。かっとなった勢いを借りて、だけども面は上げられないまま一護は弾劾する。無意識に身体は逃げようとしているのか、一護は男の立つ左側の腕がまた鎖を鳴らすのを意識の外で聞いた。 「あいつは、泣きながら、謝ったんだ‥っ。自分が悪いと云って、自分を責めて泣いたんだ!」 妻の顔が浮かぶ。最後に見たのは泣き顔だったのに、思い出すのは笑っている顔だ。朗らかに、柔らかに、少女のように可憐な 霊力も肉の力も彼女と男との差は明らかで。無理矢理なのかと問えば違うと答えが返ってきた。『庇っているのか?』『違う』違う違う違う違う。ごめんなさい‥ 何を謝っているんだ。 『お前から‥?』『違う』 『脅された?』『違う』 理由を聞いても答えない。 何故、何を、お前が、謝るんだ 「人の‥、人の妻に手を出すなんて‥っ、俺たちを近づけたのはお前なのに!!なんでこんなことをした!」 「何時知った?」 「何‥っ?」 「何時、それを知ったんだ?」 ふざけてるのか、はぐらかしてるのか‥っ まともに取り合う様子ではない冬獅郎に舌が縺れる。目を上げようとして男の爪先が、裸足の指が翳を被って淡く浮かび上がっているのを見留めて慌てて目を逸らした。見てはいけない―――。 「今日‥だ。遠征から帰ってきて直ぐ。様子が奇怪しいから質した‥」 「そうか。あの女‥」 (――――――っ!!) その言葉ばかりは我慢ならなかった。思わず顔を上げた一護は怒りの篭もる眼で。恫喝しようと口を開いたが、その口を塞がれ、塞いだ手と至近の双眸に硬直した。 『お前を慰めることも出来なくなったか』 慰めとはつまり‥ そういうことだ。妻をまるで商売女のように云われ怒らない夫がいるだろうか。妻の尊厳と共に己の自尊心まで傷つけられ、だのに 「何が違う?」 妻を庇おうとする夫の言葉を正確に予測できる男は瞠目する貌を無感情に見詰めて問う。覆うというより掴み上げる掌は指を頬肉に埋め、小指の爪が顎に喰い込んだ。 「妻とは任務から帰ってきた夫を慰めるためにいるんだろう。労わるために飯を用意して風呂を焚き、昂ぶった精神を静めるため奉仕するんだろう」 床でな‥と、歪めた口の笑むのが醜悪で、一護は吐き気さえ覚えた。それ以上に、嫌悪を顕わにする眼を訝しんだ。 「そうか」 男は続ける。もはや語りかけるというよりも独り言に近い。 「そうか。あの女、もう‥」 云うな、と一護は願った。聞きたくない、と。男の口から、他ならぬこの男の口からその言葉を、唇の動きで予測してしまうから一護は願った。これ以上の言葉を聞きたくないと、哀れに眼で懇願するのに。なのに男の口は閉ざされなかった。皮肉に笑んで、蔑むように男は云ったのだ。 頼むから。何だってお前が、そんな、台詞を‥ 「役立たずか」 男が無機質に眺めていたものを知った。 無感動に、いっそ卑下して見ていたものを知った。 (お前が連れてきたんだぞ‥?) わざわざ、お前が、その足で。 あの広い流魂街の中から彼女を探し出して(俺のときと同じように) 俺たちの婚約を勧めて、一年もしない内に式を挙げて (祝ったのは、お前じゃねぇか‥) なん‥で。 声帯を震わすだけの力も無く、呼気が口腔で沫のように弾けた。 唖然とする一護を、その眼の奥深くを見通すように見詰めていた男の、囚人の口を塞ぐ手が下がり、そこから血の気の引いた唇が現れると極僅かだった距離を詰めた。 その感触は知ったものだ。数え切れないほど彼女と交わしてきた二人の仲の確認だった。30年、約30年連れ添った女と幾度も交わしてきた‥ 「ん‥っぐ‥」 交錯した視線からさえ逃れることも出来ない囚人の顎を掴み強引に開かせたそこへ男は己のそれを捩じ込んだ。唾液に濡れ、蟲のように蠢き蹂躙する舌をまるで生娘のように一護は畏れた。 彼女とならば悦びに震えた背中が、不可解からの恐怖に凍る。肘が、関節が筋肉が、痛んで。鎖の鳴き声が耳障りだ。 「こんなことになるんなら‥よしときゃよかったな‥」 散々追い立てられ吸い取られ、乱暴な快楽に砕けた腰に四肢が弛緩すれば強いるまでもなく開く顎から、零れた唾液に濡れた手を離し頬を撫ぜた。 「どうせこんな羽目になるんなら、初めからこうしときゃよかった」 それまで一護の膝の上に置かれ(おそらくは男の体重を支え)ていた手が一護の後ろ髪へ差し入れられ柔らかにその髪を弄ったかと思うと首筋を指の腹が掠め、胸の下から袂を割って肩へ上った。 「‥っ」 男の肌の撫で様が、それとあからさまに知れるもので一護は戦慄する。本気か、と男の正気を疑ったがこれまでにも疑い続けてきたことだ。殊ここに来て極まったということだろうか。 「と‥しろう‥っ、お前‥」 男が肩を撫ぜている。舌が上手く回らない。戦慄く唇を愛おしそうに滑った指が、己を見つめる眼が、怖ろしくて堪らない。これが何故あの男だという?長年、背中を預けてきた親友だという? 力を封じて、身体の自由を奪って 男であり、親友であったはずの己に無体を働こうとしている男が 「身体‥昂ぶってるだろう?」 任務から還ってきて女に慰めてももらえず そのまま俺のところへ来て、なのに俺を殺せなくて 「楽にしてやるよ」 酷薄に嗤った男へ 「正気に‥っ」 戻れ、と云う前にまた口を塞がれた。 強く腰を引寄せられ、真横へ開いていた腕が頭上へ持ち上がるとき肩の関節が外れたかと思った。酷く痛んだけれど嵌ったままの関節に、けれど安心するより重ねて襲い来る痛みに堪えるほうが先決だった。肉体的な痛みでなくて、精神的な‥屈辱と悲哀と疑惑と、棄てられない望みを守るために。 腰を引寄せ、そのまま膝裏を開かせ男は一護の足の間に収まった。両腕は頭上で拘束され何ら男を攻撃する術も阻む手段も奪われた、全く無防備な状態に一護は身を捩り、膝の間から男を排斥しようと暴れたけれど胸を強く圧迫されて息苦しさに身を強張らせた。攣る腕と、広げられる貝殻骨の周りの筋が切れないかと堪えるしかなくて、そうだもはや己にはこの状況を耐え抜くことしか許されいないのだと悟る。 くく、と嗤う男の気配に俯きながら目を上げれば、その喉が目の前に晒されていて。男の唇を米神に感じた。 「咬まないのか?」 「な‥に‥っ」 咬めばいいだろう 男は嗤う。勧められても一護には分からない。男の体重が肺を圧迫し、ただでさえ惑乱している思考で何を理解しろというのか。 「喉。喰い破れるんじゃないか?」 殺せるぜ? はっと見上げた顔は 見下ろしてくる貌は、確かに嗤っているのだけれど 「喰わねぇの?」 翳の中でもそれとしれる白銀の細い髪が彼の目元に落ちている。深緑の瞳が首を傾げる。 その白い咽喉を‥ 喰いちぎれるだけの覚悟が今はもう (無い‥) くにゃりと情けなく歪んだ眉と眼に男がどう思ったかは知れないが、彼の貌から笑みは消え、あの、無感動な表情が貼り付き、以後視線が絡むことはなかった。 次 |