住人の一人もいない廃墟が広がる道の途中で冬獅郎は足を止めた。待っていたものがそこに立っていたからだ。道の先に立つ待ち人は長い黒髪をひとつに括り上げ、肩幅に足を開いて立った彼女は片手を腰に当て身体を傾いで待っていた。その肩には一羽の小鳥。彼女はそれを指先で愛でながら冬獅郎へ向ける視線は怜悧だった。『彼』の師である一人であり、護廷の復帰への再三の請願にも首を振り気侭に生きている四楓院家の放蕩当主である。彼女が動いたことは冬獅郎の想定の内であった。好きに飛び回る、まさしく鳥と形容できる彼女に護廷の力は及ばない。 見たのだろう、突き止めたのだろう、証拠も、固めたのだろう。 それでも自ら赴いたのは己への同情のためかそれとも『彼』への仕打ちが表に漏れることを憂慮したためか。 どちらでもいいか、と冬獅郎は、今度は自分に用意されているだろう牢へ向かって足を進めた。 夜一は一言も発さぬまま彼を迎えると、肩の小鳥を空へ放ち、冬獅郎の前にたって歩き始めた。天の高くで風がさざめいている。それに乗って鳥は総隊長である爺のもとへ行くだろう。全て内密に片付けるつもりだと、己を使った爺のもとへ。 寝転る一護は頭の先に立った彼女を見上げて力なく笑った。見下ろした夜一は呆れたような、安堵したような、優しい黒曜の瞳で笑った。 「痩せたな」 「そうかな」 水さえ飲んでりゃ身体は保たれるから 云って、一護は疲れたように身体を起こした。寝続けて身体が泥のようになったと、白い着物の背中が床に圧されて型のついた橙色の後頭部が笑った。 「待たせてすまなかった」 「いいさ」 ちょっと、遅かったかもしんねぇけど‥ 口腔の中だけの呟きを夜一は聞かなかった。 格子の扉を潜り、そのまま外へ向かおうとしていた夜一は反対側へ歩き始めた一護に少しばかり驚きながらその後に続いた。半ばほどまで進んだ一護は格子を柔く握りこみ、まるでそこでの時間を反芻するかのように空になった牢へ目をやった。それで夜一は、外の空気を吸いながらでも話そうと思っていた話題を消化することにしたのだ。舎の中でするには思い出すに辛いものもあるだろうと、その不快を慮っての配慮であったが落ち着いた様子の一護に安心する。懸念だったかと彼の逞しさに感嘆する。 「日番谷の小僧は捕らえられたぞ」 「‥‥‥そうか」 「儂のところに入れておる。大人しくしているらしい。もっとも‥儂が迎えに行ったときも、分かったような顔をしておったがの」 くつりと一護は笑った。足下に落ちる陽射しの空中に放った残滓の中で笑んだ一護の血色は些少褪めていた。 「あの鳥‥夜一さんのだったか」 「あぁ‥、何度か偵察にな。ここには結界が張ってあってあやつくらいしか忍び込めなかった。特別な鳥じゃ。儂直々に世話をし育てたのじゃからな」 「あぁ。いい鳥だ」 採光される陽は細長いながら部屋全体を見せるには足りていた。三面の壁と長い窓と板敷きは昼の陽に裂かれ、白の石壁に吊り下がる鎖と境界を隔す鉄格子がなければただの部屋だ。その鎖さえ今は揺れることなく垂れ下がり、凶暴な意味など持っていないように思わせる。つい先ほどまで生きて、その機能を果たしていた其処は、囚人が出ると同時に活動を止め、静かに眠りに就いたようだった。 この中に一月もの間閉じ込められていたのだと、急に夜一は実感が湧いて、だけれど可哀想だと思うより前に見つけたときの一護を思い出しどう感想を抱けばいいのか判断できなくなった。 「ここで御主がされていたこと、報告するか?」 「‥‥‥」 夜一は気を遣ってくれている。彼女が云っていることとはつまりそういうことであり、別段書類に記録しなくとも誤魔化せる話であった。異変の真相究明を一任された夜一は全てを明白に報告する義務がある。信頼されているからこその使役であり、夜一は元柳斎に義理もあった。それを曲げてもいいと彼女は云う。 「夜一さんに‥任せるよ。本当のこと知ったって元柳斎のじいさんは公平な人だ。俺に恐れるものはない」 一護は何を見ているのだろうと夜一は彼の視線を辿る。なんの変哲もない部屋に思えた。ここよりも凄惨な牢獄を彼女は見慣れていた。だから彼女の目にここは、牢屋ではなかった。 部屋の真ん中に横たわり、狭い空を青年は眺めていた。入り口側に足を向け、白の着物に身を包んだ彼は清潔で、微睡むような横顔には彼女がこれまで見てきた中のどの囚人へも通じるものはなかった。武器となる霊圧を封じる無情な玉枷さえも装飾のひとつに見えてしまうほど、彼は景色に溶け込んでいた。違う、彼が、景色を司っていた。彼こそが空間で、彼がいなければその空間は成り立たなかった。身一つ、彼がいるだけなのに、そこは一個の生活空間として成立していた。囚われるものの悲しみなど、感じられなかった。 日番谷冬獅郎はどんな気持でこの部屋に踏み入っていたのだろう。 どんな気持で食事を運び、どんな気持で彼を清め 何の意図でこの空間を保ったのだろう。‥護った、のだろう。 まるで癒しを求めるような空間に夜一は気まずささえ覚えたのだ。まるで日番谷冬獅郎の聖域へ土足で踏み入ってしまったようで。 「あやつに‥‥逢いたいか?」 一護の肩がぴくりと撥ねたように見えて、夜一は自分が意思なく口走っていたことを知った。 何故そんなことを問うた。 自分を監禁し無体を働き、己の妻さえ寝取った男であるのに。なにより、まず妻である織姫の存在を忘れていた迂闊を恥じた。一護に倣う様に格子へ触れた掌に鉄の棒はするするとした触感を与え、握りこみ軽く力を篭めれば容易く折れてしまいそうだ。夜一は首を振って思念を払い、先の発言はなかったことにしようと調子を変えて口を開けた、のだけれど 「織姫は――」 「いいんだ」 「‥一護?」 出端を挫かれ夜一は不審がった。部下に命じてその保護を任せた彼女は混乱が残りながらも今は落ち着いて眠っているという。 安心させられると、思ったのに 「織姫とは‥会えない」 敵もとれず捕らえられ、長いこと監禁されていたことを恥じているのだろうか。いや、一護という男はそんな手前勝手な人間ではないはずだ。己より他人を優先させるような男だ。妻ならばなおさらに。自分を閉じ込めた男にさえ、彼の落ち着きぶりは赦しを見せてはいないか? 自分を許せないのか‥? 「彼女を抱きしめてはやらんのか?」 薄情だの、と冗談めかして笑ってみても、微笑む、格子の向こうを眺める一護の顔は穏やかで、穏やか過ぎて危うげだ。ややばかり緊張し夜一は糺した。 「一護、何を考えておる」 嫌な予感がする。まさかそんなことを思ってはおるまいと、馬鹿馬鹿しい想念にけれど不安は拭えず。格子を握りこんだのは、詰め寄ろうとする衝動を抑えるためだったろうか。 「最低だな‥俺」 「一護?」 「最低だ‥」 「どうした?一護」 どうしようもない。最低だ。どうして 奮えた胸に一護は鉄格子を強く握り締めた、その勢いでがつんと頭を格子に打ちつけて、その間に埋め込むように押し付けた。 「どうしたのじゃ、一護‥っ」 「夜一さん‥俺、どれくらいここにいた?」 「‥一月‥、正確には35日じゃ‥。恐らくは井上も――」 「織姫のことはいいんだ」 「一護?」 そうか、35日か‥35日‥十分だ 肩を縮めて、小さくなりながら呟いているその肩へ触れる前の言葉に夜一は凍りついた。 小さい声だった。独り言のような呟きに夜一は愕然とした。 「どうしよう‥夜一さん‥俺」 ならん、と夜一は声を荒げて制止したかった。その言葉を吐いてはいけない。それこそ最大の裏切りだ! だけれど、だけれど夜一は云えなかった。己の息子のようにも思い、何かと手を貸してきた愛弟子だ。慈しんでいるという自覚はあった。あったが、彼の領域にまで踏み込むほどの傲慢さを持ち合わせてはいなかった。独り立ちした一個の人間と認め、一人の男と認めていたのだ。それは、ともすれば一歩の距離を置いたもので。丁度よい間隔のはずだった。そう信じていたのに夜一は (所詮‥儂とてこんなものじゃ‥) 他人の生き方をとやかく言う権利は誰にもない。例え血の繋がった肉親にさえそれは、決定的には許されていないのだ。自身もまた束縛を嫌い、依存されることを嫌って自由に生きてきたと自負する夜一である。当然と思いこそすれ今さら反駁の意志はない。だが 埋められない距離をもどかしく思う心もあるのだ。 そうしてその境界に踏み込まないことが、人間としての思慮なのか、臆病なのか、判断できずにいる。 夜一は止められなかった。そして、耳を塞ぐことも出来なかった。 「嬉しいんだ」 あぁ‥と夜一は嘆くように吐息を漏らす。痛みを堪えるように眉を寄せ、しかし視界を閉ざすことは許さなかった。聞き続けなければ、ならなかった。そうして肺の間に燻り始めるそれが何を意味するものなのか、考えなければならなかった。 「あいつが織姫にしたことも俺にしたことも、全部俺のためだということが分かっちまったら俺‥嬉しいんだ」 肩と手の間に隠された彼はどんな表情をしているのだろう。小刻みに震えているのは、如何な意味を孕んだ感情のためだろう。 喜悦はあるだろう。ならばそれを、戒めようとしているのか。 妻のために? 「最低だな‥嬉しいんだ‥」 それとも人が神をもつように、己への戒めを自ら与えようとしているのか? 「嬉しいんだ‥」 けれど抑えることのできないそれに、泣き笑いの表情を夜一へ向けた一護は告白した。 「あいつに会いたい‥」 逢わせてくれ、と。 夜一の脳裡には織姫の幸せそうに笑っていた顔が過ぎった。 次へ |