相続人 2 「どういうことですか浦原さん!」 遺言状の発表が終わり、茶も受けずに皆が引き上げた後の廊下で一護は浦原を呼び止めた。形式的な挨拶だけで会話らしい会話は交わさなかった彼らは一様に一護と視線を合わせようともしなかった。そんな彼らを見送って、冬獅朗と二人屋敷に残された一護である。冬獅朗は既に彼の部屋へ戻っている。 「おんや、何でしょう黒崎さん」 振り返る所作はなるほどよく訓練された人間のものであるが、そのとぼけた顔。それまでの印象との差に思わず一護は確かに彼かと聞き返すところだった。 「あ、あの遺言状のことですよ。あんな条件だったら俺でなくてもいいはずです。さっさと帰らせてもらえませんか。俺は遺産を相続する気もないし、選ばれた理由だって判然としないんだし‥」 言いながら浦原の己を見つめる眼に語気が弱まっていく。何を考えているのか判らないその瞳はまるで人の弱みを握ったように自身の考えへの自身を削ぐようだ。 「大体、会ったこともない人間から遺産を相続するなんて常識外れですよ。その上初対面の人間の面倒までみろなんて‥そんな」 そんな、理不尽なこと‥ 人形のような肌だった。長い間日にあたったことがないんじゃないかと思わせるような、それでいて張りのある滑らかな。誰を、何を映しながらも見てはいないガラス球のような眼、無造作に、掻き揚げたまま前髪だけがこぼれたような豊かな銀髪、受け入れないけれど拒絶もしない、できない危うさでそこにある人形のような‥ 「それは困りましたねぇ」 不覚にもひくりと肩が震えた。思考に没頭していたのは何秒間のことだったろう、それとももっと長く数分も間抜けな顔を晒していただろうか、ため息交じりの浦原の声に一護は数分前の記憶から立ち戻った。 「何が‥、困るんですか」 自身の頭の中をのぞかれたような気がして、後ろめたいこともあるはずがないのに逃げ腰になる。それを、この男には気づかせていけないのに。短い間ながらそのことは理解したはずだった。 浦原は優しげに、それでいて一護の目には意地悪げににこりと口端を持ち上げて 「あなたに遺産がいかないとなると、日番谷さん、路頭に迷うことになるかもしれません」 「は?」 突拍子もない科白に一護の絡まった思考は瞬時にリセットされる。だってそれは‥、それは奇怪しくないか?自分に遺産がいかないなら残された相続人は冬獅朗だけではないか。ならば彼が安泰な生活を手に入れるのは自明の理。何が『路頭に迷う』なのか。 「浦原さん‥?あんた何いって‥」 思考回路が一般とは違うのか、まったく理解できない浦原の発言に冗談を言っているのかと口が笑うのも仕様がないというものだろう。確認するように一護は戸惑いがちに浦原へ指を差した。 「冗談いってるんじゃありませんよ?言葉の通りです。あなたが遺産を受け継がれないなら彼が正式な相続人となりますがね、彼に資産の管理能力はありませんよ。なんたって生まれたときから人と接することもなく、一般常識を学ぶこともなく育ってこられたんですから。そうなると今日ここにこられたご親族の誰かが資産の管理運営を行うことになりますが‥さて、一面識もない日番谷さんを家族として受け入れてくれる心優しい誰かがあの中におられますかねぇ‥」 「ちょ、ちょちょっと待ってくれ浦原さん‥っ」 つらつらと言葉を並べられて、そうしてそのいちいちが初耳なものだから噛み砕くのに時間がかかる。ちょっと待て、家族として受け入れるも資産の管理運営もどうでもいい、そうじゃなくて、そう、 「『生まれたときから人と接することもなく、一般常識を学ぶこともなく育ってきた』?」 どういうことだ。 衝動のまま動き出しそうな体を抑えるため、こめかみを押さえて一護が見上げれば、浦原はわずか楽しむような色を滲ませてその金色まじったような瞳で笑った。 「そういえば説明がまだでしたね。どうぞ、こちらへ。お茶でも飲みながらゆっくりお話しましょう」 お客様に用意していた茶葉も結局無駄になりましたしねぇ。 なんて、のんびりのたまいながら浦原は食堂へと歩き始めた。その背中を追って一護も歩き始める。廊下に敷かれた絨毯の柔らかさが、今は頼りなく思われた。 掻い摘んで言えば『日番谷冬獅朗』は極端な箱入り息子なのだ。しかし置かれた環境を考えれば同情を呼ばれないこともない。だがしかし 「年齢が分からないって‥どういうことですか‥」 「そのままですよ。この屋敷にいる誰も、勿論屋敷の外にも、彼の確かな年齢どころか素性を知るものはいません。旦那様もご存知だったどうか‥、私には知れませんね」 秘書だと名乗った男は、どうやら執事も兼任していたようだ。茶を淹れるにも茶菓子を出すにもその場所は熟知している様子だった。足運びもそうだったが、カップを口に運ぶ動作にも、全くそつがない。さぞかし重宝されただろう。 「んなこといっても届を出したりしなきゃならないんだから医師の診断書とか母子手帳とか‥、そうだ、両親は‥っ」 「それが全て謎でして。今私がご説明差し上げているのも全て『聞いた話』なのですよ。長らくあの方にお使い申し上げて参りましたが、日番谷冬獅朗様に関する情報は皆無といっていい。その生活が伺えるのは唯一彼の研究所でしたが‥、それも旦那様が亡くなられる少し前に片付けられてしまったようで。関係者も何もまったく分からない状態なのですよ」 そんな‥、そんなことがあり得るのだろうか。彼を説明するための人間も書類も何もないなんてそんなことが?常識ではありえない。誰も彼もが示し合わせて口をつぐむ以外そんな状況を作り出すことが可能だとは思えない。 「それじゃああいつは‥、あいつは一体何者なんです‥」 「わかりません」 こぼれた問いに応えた浦原の返答は軽く、あっけない。 疲れが形をとって肩に圧し掛かっているような気がする。午後の明かりが差し込む食堂はそれでもくすんだ影が空気に混じり、ひんやりと冷えていた。立ち入るとき見やった曇りのない窓の向こうでは、木々の梢から麗らかに日差しがこぼれ、薔薇を主体として咲き誇る花々は優美な風情を見せている。しかしそれらを楽しむ余裕はつれてこられてからこっち、未だに得られていない。ある種の落ち着きは持ちえていたつもりだったけれど、目を楽しませられるほどの余裕はまだ暫く得られそうにないようだ。次から次へと問題ばかりが現れて、そのどれにも解決策はないように思えるのだ。重い頭を振ってみても、さらに気分は落ち込むだけだった。 「俺に‥一体どうしろと‥?」 空気さえ重い。逃げ出す気力さえ吸い取られていくようだ。テーブルに載せた両手を組み合わせ強く握り締めることでかろうじて持ちこたえる。 「ですから、彼を人間に。人として欠落してばかりの彼を人間にすること、それが旦那様の願いであり、相続の、ついては彼を守る条件です」 彼を守る。そう、それを聞かねばならなかったのだ。けれどもう新たに質問を重ねる気力は残っていない。 「『守る』‥」 ため息とともに吐き出された一護の言葉に浦原は注意を引くようゆっくりと頷いて 「あなたに遺産を相続させる。それは旦那様があなたへ、日番谷冬獅朗様を任せるということです」 それが‥分からないというのだ‥。なんだってこの俺に‥ 一護の問いをその力ない眼から読み取ったか、浦原は説明を続ける。疲れきった身体にその声は染みるように響いた。 「誰でもいいというのじゃあない。あなたでしか駄目なんです。そう旦那様はおっしゃっておられました。黒崎さん、あなたでしか駄目なんです。お願いです。どうか日番谷さんを人間にしてやってください。」 向けられた浦原の頭をぼんやりと眺める。自分でしか駄目だと、その言葉を強めた男はそれまでにない真摯さを見せたけれど、それが決定したことなのだと言いくるめようとしているように思う。頭を下げて頼まれてもあきらめてくれといわれているようでしかない。 遺産の相続云々はどうやら浦原にとってもどうでもいい事項らしい。目下己に期待されていることは日番谷冬獅朗という少年を人間らしく人格改造し、そうして己が遺された財産を相続して彼を養うこと。ていのいい召使じゃないか。いや、保護者か。燃え上がるような恋も知らないままに一児の父になるというのか。しかも妻だっていない。 一体己の何をかってそんな大役を任せようと決心したのかその旦那様とやらに一度会って問い質してやりたい。そうしてどうしてこんな暴挙に出られたのかと。あぁ死んでいるのか。 そうしてとどめに、真剣さなど根こそぎ取っ払ってしまったとしか思えない浦原の一言。へらりと笑って、あなた本当に秘書ですかと疑いたくなった。 「よかったじゃないですか、期限とされた次の夏というと1年ほどありますよ」 全然よくない‥。 そして逃がす気はないと煌いたようにも錯覚したその瞳に、とうとう一護はテーブルの上へ突っ伏した。 |