相続人 3






 最初の記憶。何人もの人間の、背後からの光にぼやける顔。



 強烈な光のなかに突き落とされたのだと思った。それは正しく白の世界で、痛む目が治まるのを待ってゆっくりと目蓋を開けば、指の間からそこはただの四角い部屋でしかないと知れた。
 首を回らせば乱雑に、それでもおそらくは使いやすいよう計算して置かれただろう機械たち。天井まで届かんほどのガラスケースが幾本も立ち並ぶ。下半身にむずがゆいような感覚を覚え初めて、自分に『脚』があることを知る。そうしてそれは本能だろう、起き上がろうと身体を動かした。ばたつくだけで叶わない。どうすればいい?手を使え。左半身に重心を移動し右腕を大きく振った。脚がついてこない。中途半端に引っくり返る。感覚がまだ定かでない右足を叱咤して左足を越える。これで完璧なうつ伏せの状態だ。それから?肘だ。両腕の肘に体重を任せ上半身を持ち上げる。まだ足りない。下半身だ。膝を。膝を立て、肘から掌へ体重を移動、頭が重い。視界が揺らぐから頭を振って覚ます。顔を上げる。
 透明なケースの中だ。側面が撓み継ぎ目のない完全な円。先ほどみた景色は部屋の外の部屋だったらしい。『壁』まで這って目を近づける。なるほど、『壁』だ。向こうへ行けない。ひんやりとした感覚が心地よくて顔を貼り付ける。それで少しは『壁』の向こう側がよく見えるような気がした。
『目が覚めたか』
 突然の音に身体が跳ねる。勢い頭を打ち付けた。痛みに前頭部を押さえながら音源を捜す。見上げた先、『部屋』の中心、それがあると思った。ゆったりとした口調で声は言った。
『おはよう、息子よ。お前の名前は冬獅朗だ。日番谷、冬獅朗。覚えておいで。これからずっと、これがお前を識別する名前だよ』
 名前、名前、識別するコード。
「とぉ‥しろう‥」
 初めての声に咽が痛んだ。咳をして、慣らす。
『そう、冬獅朗だ。覚えておいで。暫くの間お前はその名前で生きるのだから』
 生きる。それは?どういうことだ?
 問い方もまだ知らない冬獅朗に、機械を通してなお威圧感を損なわない声の男はマイクのスイッチを切った。


 目を開けて、つかの間眠っていたのだと知る。締め切ったカーテンの隙間から光が零れている。日の光は駄目だ。そういう体質なのだと思う。長く、地下のような場所で生活していたから細胞がそう変容したのだろう。細胞の修復がきかないというのではないが、目に染みるその光を甘受することは躊躇われた。
 冬獅郎は上半身を起こし首を回らせて辺りを確認した。そう、ここはあの男のものだったという屋敷の一室だ。浦原とかいう秘書兼執事が簡単な説明は聞かせてくれた。他人に感慨を抱くことのない冬獅郎だ。浦原に対する印象もただの執事でしかなかったが、どこか覚えのある貌だと、それは気にかかっていた。喉に小骨が刺さるようなものだ。感情どころか感覚さえ不確かな彼にとってそれもまた些細なものではあったが、意識の表層に上れば熟考してしまうという癖があった。どこで会っただろう‥。眠気の覚めない頭で考えてどうしても思い出せないと分かるとすぐに放り出した。覚えていないということは覚えていなくていい事柄だということだ。必要なことなら忘れるはずがない。それが己なのだから。不完全に完全な人間はそう思考して、靴を履いたままの脚をベッドから下ろした。寂しいほどに広い室内、主の趣味のよさをうかがわせる調度品はどれも慎ましく高級感を漂わせている。歳月の分だけ深みを醸すそれらはみるものがみれば唸るものであるが、やはり冬獅郎にとってそれはなんでもないことだった。
 近世のアンティークのなか、不似合いに居を構えるものがある。冬獅郎が頼んだものではないが、おそらく浦原あたりが気をきかせたのだろう3台のパソコンが鎮座していた。電源は落とさず眠らせていたそれらを起こす。画面に向かっている方が落ち着く。終えていない研究はまだコンピュータに多く積み重なっている。生命科学に関する研究が今彼が取り組んでいるものだ。ヒトゲノムがあらかた解明された今、0から生命をつくる研究が水面下で拡がっている。世間に露呈すれば物議をかもすだろう。だからこそ強く冬獅郎の興味を引きつけた。
 興を引かれた、これもなんでもないことだろうか、ふと思いついてすぐに掃う。環境が変わった所為か普段上らない思考が調子を乱す。邪魔だな。苛立つということも彼はこれまで経験したことのないものだった。駄目だ。画面に並ぶ実験の経過を教える文字が頭に入らない。息抜きが必要だ。考えて、それがどういうものだか知らないことに気付く。ただ好きに作業するだけの日々だった。試験管の並ぶ長い机、ステンレスの戸棚にはあらゆる薬品が納められて、機械の微かな稼動音だけが全ての安らかな。そうか、あれを安らかというのか。思い至って惜しいことをしたと後悔の念が沸いた。なんだか余計な思考ばかりが湧いてくる。疲れというものを知らないつもりだった冬獅郎は、身体の倦怠を覚えて椅子から立ち上がった。ベッドに戻る気にもなれない。なら、あまり気も進まないがドアの外に出てみよう。零れる日差しは大分強さを和らげたようだ、屋敷の中を軽く散歩するくらいなら大丈夫だろう。パソコンをスタンバイの状態にして冬獅郎は外へ続くドアへ向かった。







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