政財界の大物が死んだとニュースが流れた。その翌日俺はその男のものだったという屋敷に連れてこられた。昨日まではその男のものだった。今日からは俺のものです? 葬式だって、あんたら終えてないんじゃないのか。 2階、とはいっても天井が半端なく高い洋館でそこは日本家屋の3,4階ほどの高さはあるだろう、バルコニーから見下ろす見事なイングランドガーデンには瑞々しい緑の中黒の濃淡が散らばり教会へ出たり入ったりしている。昨日アパートメントに押しかけたSPめいた出で立ちの男3名に一も二もなく連れさられ、黒崎一護は眼下の彼らと同じように喪服を纏っていた。 片手のシャンパングラスを揺らして溜息を落とす。憂鬱だと、彼の心情を慎ましく表して。そうすればまるで己の退路を断たんとするように窓辺に立つ男が苦笑した。 「申し訳ありませんね、もう少しだけ我慢してください」 肩に届かない金髪の毛先の撥ねる、見目の整った男だ。死んだ男の秘書をしていたというが、無精髭はその仕事に相応しくないのではないかと初対面、車に押し込められ男の足下に転がった一護はそう感想を抱いた。 浦原と名のった男以外にも数人の男たちが広い室内に構えているのは振り返らずとも知れることだ。一護は、おそらくは向いていないだろう視線を感じて昨夜から今も気の晴れることがない。己の身を守るためだとかなんだとか、それよりも見張られている気が強くするのだ。十中八九そうだろう。『貴方の護衛を命じられました』そう頭を下げながら己をみやった目は蛇のように獰猛だった。 そうして浦原は笑った。『貴方の護衛を命じられました』と言ったすぐ後に 『巻き込まれましたね』 お気の毒様。そう切り捨てるような清清しさで。 状況把握がいまだにできていない。一護は突然に奪われた己の日常から現状への移行ができていない。見ているものはすべて映画かドラマの映像のようでしかない。だって見下ろす人々は限り無く己と対の位置にいる者たちだ。目に痛いほどの緑が目を眇めるほど遠くまで広がるのだってこの身に沿った現実からは程遠い。否定しようという思考と、現実だと割り切ろうとする思考のせめぎあいに軽い眩暈が起こっている。それが身体を疲弊させて夜も寝付けずに、今も手すりにもたれていなければならない。バルコニー下の植え込みにグラスを放してやりたくなった。 家族はどうしているかと考え始めて、ようやく己が語学の勉強のために英国へ留学していたのだと思い出す。遠い空の下、彼等は暢気に日本の空気を吸っているだろう。それが無性に郷愁を掻きたてた。今年の夏には帰国して一年ぶりに彼らと会える予定だったのに。メールで妹たちにそう伝えて、楽しみにしてると返事が帰ってきたのはつい一週間前のことなのに。むらむらと遣る瀬無い思いがわきあがってくる。しかしつとシャンパングラスを引かれる感覚に顔をあげれば背後から浦原が困ったような、それでいて人の悪い笑みを浮かべて己を見下ろしていた。 「そんなに握り締めるとグラスを割ってしまいますよ」 グラスの心配だか己の心配だか男の目は判別がつかない。自身にいい印象を抱いているのかどうかも分からないのだ当然のことではあるが。 「式が始まります。教会へ参りましょう」 促す浦原に従う前に一護は何気なくもう一度バルコニーの下へ目をやった。すると先ほどまではなかった、否、視認していなかっただけかもしれないそれが目に飛び込んだ。 「浦原‥」 思わず男を呼んで、しかし次の言葉を一護は続けることはなかった。続ける言葉を失っしたか、続ける意志を失っしたか。唇は言葉を紡がんとするように薄く開いたまま、視線は一点に奪われた。 それを認めて浦原は頷く。一人、得心したという風に。 あぁ、あなたはどこまで狡猾に 亡き友人、人はそれを主人と呼ぶが、死んだ友人の残した最後のゲームがようやく己の興を引き始めたと自覚する。 それから放心したようにそれを見詰め続ける一護に向かいにっこりと笑いかける。それを彼は見てはいないけれど、己の喜悦を抑えるための笑顔だ。 「日番谷冬獅郎。もう一人の遺産相続人ですよ」 年齢は確かには知られていない、子供の容姿をしたその男は死んだ男の秘蔵っ子だ。それが、男が死んでようやく日の目をみたか。真実、その意味で彼は日の目を見ただろう。天才と謳われるその頭脳のために長らく世間に顔を晒すことのなかった彼はずっとあの男の下で研究の日々を送っていたと聞く。幼少の折より人との接点を極力持たされなかったために他人への一切の興味を削いだ瞳。それはまったくなんの感慨もなくそこにいる人間たちを眺めている。 楽しくなりそうですねぇ 今も一心に彼を見詰めつづける一護と、その視線に微塵も気付かない様子の冬獅郎。 ぞくりぞくりを背を這い登る、質の悪い愉悦に浦原の笑みは昏く変容していった。 相続人 厳かな葬式の後、埋葬まで済ませた彼らはそのままの衣装で屋敷のリビングに集合した。とはいっても集まっているのは一護、浦原、身内だという数人の男女と一護同様、式の間中密やかな注目を集めていた日番谷冬獅朗である。 豪奢なソファに座りひとつのテーブルを囲んだ彼らの中で浦原だけは暖炉の前、ひとり立っている。その手には開封された封筒と封書。男の遺言状だとは誰しも察しがついた。 「それでは、正式に旦那様の遺言状を発表したいと思います。皆様も随分と不思議に思っておられたでしょう、そのお二人」 と、ちらりと浦原は一護と冬獅朗を目で示せば他の視線もまた彼らに走った。 「日本からこの国へ留学されている黒崎一護様と、亡き旦那様が大事に育てておられた日番谷冬獅朗様です。旦那様はこの両名どちらかにすべての財産を譲渡されると遺言を残しておられます」 ざわめきは起こらなかった。一護はそれを不思議に思う。観察するようでありながら視界に入れまいとするような彼らは自分を邪魔に思っていないはずがないのに。屋敷をみるだけでも判るその資産。それら全てが赤の、少なくとも自身は、赤の他人に渡されようとしている。その事実に反発を抱かない親族がいるだろうか。 しかし一護の懸念も浦原の続けた言葉で解消されるが 「しかしその条件として、提示されている事柄が‥」 もったいぶった言い回しの後宣告されたその条件に、一護は居心地の悪さも先への不安も一瞬間忘れることになる。 思わず見やった冬獅朗の表情にはなんらの変化も見受けられず、それがまた一護の戸惑いとなる。視界に入るのは全て自分とは別世界の人間たち、その世界に自分が入っていくかこのままはじき出されるのか、それは全て亡き当主の条件を満たすことによって決定される。冬獅朗の表情は変わらない。人々の表情は変わらない。日に焼けた顔も不健康そうな白い顔も喪に服す顔には見えない。それは、己の思考が惑乱しているからか。誰もが浦原を、そうしてその背の亡き当主を眺めている。 喪服に身を包みながらその体からにじみ出る派手さを隠し切れない男がぽつりと呟いた。一護の斜め前に座るその横顔は口元を隠し、まるで己に対して呟いたように 「まったく‥、面白いことを考えてくれるねぇ」 苦笑だか失笑だか、常から笑みの絶えることはないのだろうその表情が馴染んでいる彼は誰へともなく言葉を落とし、そうしてその言葉を聞いたのは一護だけだったのかもしれなかった。 「『私の遺産は黒崎一護、日番谷冬獅朗のどちらかに相続されるものとする。それを決定する条件は黒崎一護、この者において彼が日番谷冬獅朗を人間にすることである。それが果たされない場合、いかなる状況が発生しようとも全ての遺産は日番谷冬獅朗に受け渡される。期限は私が死んで翌年の夏が来るまでとする。』」 抑揚のない、それでいて耳に心地よい声が読み上げた遺言状は亡き当主のサインで締めくくられていた。 |